06. 八ツ橋美月(観音大学 大学院 修士課程1年)

 機材の片付けを終えて、お手洗いをすませて、ひかえ室へと帰ろうとしたとき、エレベーターの近くにしつらえられたベンチに座り、うなだれている女性を見つけた。

 眠っているわけではなさそうだった。苦しみをこらえているように見えた。


「大丈夫ですか?」

 顔をバッと上げた女の子の表情には、不安と恐れが入り交じっていた。

 小さなしずくが目じりに浮かんでいた。そのわずかな涙を見つけることができたのは、彼女の眼があまりにも美しかったからだ。

「誰か呼んできますね!」

 と、言ってみたはいいものの、保健センターのような施設の場所は分からないし、夏期休暇中に開室しているのかも疑わしい。


「待って下さい!」

 切迫せっぱくした声が、ぼくの背中を引っ張った。

「大丈夫ですから……少し休めばおさまるので」

「でも……」

「ほんとうに、大丈夫です。ですから、気にしないでください……」

 消え入るような声。だけど、放っておくことなんてできない。このまま体調が悪化したら手遅れになるかもしれないから。周りにひとの姿は見えないし。


 ぼくは、彼女から少し離れたところに腰を下ろした。

 彼女はリュックサックを抱えこんだまま、ぼくの視線から逃れるようにそこに顔をうずめていた。

 窓から夕陽が差して、彼女の腰までありそうな長い黒髪をきらきらと輝かせている。


     *     *     *


 その髪はあえて切っていないというより、切るタイミングを失ったのだと、彼女は言った。

 ぼくは、会話のネタに困ったあまり、言ってはならないことを言ってしまった。初対面の相手に、容姿のことに言及するのは、よくないだろう。

 急いで「ごめんなさい」と謝ると、「お気になさらず」と彼女は笑って済ませてくれた。


 彼女は、ボアティング先生の講義を聴くために文選もんせん大学にひとりで来たとのことだったのだが、帰りの電車がトラブルで止まってしまい、再開の目途めどが立たないという情報を知り、パニック状態になってしまったらしい。

 むかしから、こうしたイレギュラーな事態が起こると、パニックになってしまうとのことだ。

 そんなときは頓服とんぷくをのんでしのぐしかないのだと、彼女は言った。


 それならばと、ボアティング先生のはからいで、彼女もぼくと一緒に、最寄り駅まで車で送ってもらえることになった。そしてなんと、その最寄り駅は、ぼくと同じだったのだ。ようするに、ぼくたちは、そう遠くないところに住んでいるということだ。

 そして、彼女が観音かんのん大学という、有名私立大学の大学院生だということも知った。


「ほんとうにごめんなさい。家まで送ってもらっちゃって」

「これまでの経緯を説明しないといけないでしょうし、今日はとくに予定もないので」

「ひとり暮らしなんですよね?」

「そうですね。こっちに来てからずっと」

「夜ごはん、まだですよね。よかったら、うちで食べていきませんか……?」

「そんなわけにはいかないですよ。いきなり、ぼくの分を作ってもらうなんて申し訳ないですし」

「だったら、もしわたしの家族が了承してくれれば大丈夫……ということでいいですか?」


 一食でも食費をうかすことができるのならば万々歳ばんばんざいだという、横着な考えが、お断りの言葉を返すタイミングを遅らせてしまった。

 だれもいない夜の公園のフェンスの方に身体を向けて、家族に電話をかけている彼女の後ろ姿を見ていると、申し訳ない気持ちが、ますますつのってくる。


「喜んでとのことなので、もし鱗雲うろこぐもさんがよろしければ、来てくれませんか?」

 街灯がいとうの下で、にっこりと微笑ほほえんでいる彼女――八ツ橋美月やつはしみづきさんを見てしまうと、断るなんて選択肢は、夜闇のなかに消えていってしまった。



(2024/12/06 加筆修正)

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