07. 藍染兎花 教授(西洋哲学)
白色のニットにクリーム色のガウン。純白のセーターにマフラー。黒色の手袋。
そんな、夜に歩いたら下手したら車に
「
ぼくに手を振ってくる、藍染先生。
「えっ! 藍染先生?」
まさか「メゾン」で、藍染先生に会うことになるとは思わなかった。
先生は店内を見渡しながら「けっこう広いね」と呟き、
「うちの子供のクリスマスプレゼントをまだ買ってなくてね。むかし
と、事情を説明してくれた。
「あれ? あの奥にあるのって……」
藍染先生は、店の奥にあるショーケースにじーっと視線を向けていた。
「あのショーケースですか? この店、『グローリア』っていうカードも扱っているんですよ」
それを聞くと「なんではやく言わないの!」と、藍染先生は、お客さんのいない店内の隅々にまで響きわたりそうな、驚きの声を出した。
「聞いてない、聞いてない! 掘り出しものがあったら買い占めるけど、いい?」
と、興奮した様子でぼくに迫ってきた。
「むしろ嬉しいくらいです。ぜんぜん売れてないので……」
子供のように店の奥へと駆け足で行く先生の背中を見ながら、「お子さんへのプレゼントはいいのかな?」などと思ってしまう。
しばらくするとレジの方へと戻ってきて、「鱗雲くん! ショーケースを開けてくれる?」と呼びかけてきて、またもや子供のように、ぼくの手を引いていく。
「これとね、これとね、あと、これとこれ!」
「どれです、どれです? ひとつずつお願いします!」
「市街地のカードショップより格安なんだけど……だれが売りにくるの? 価格設定はだれがしてるの? なんで噂になってないの? ねえねえ?」
ちゃんと一枚ずつ言い直してくれた先生は、今度は矢継ぎ早に質問をしてきた。
「えっと、オーナーの息子さんがむかし、カードゲーマーだったんですけど、もうしなくなっちゃったから、全部売ることに決めたらしくて。それで、だったら、このお店で売ろうということになったらしいです」
「ふんふん」
「だから、売りにこられたものってほとんどない……というか、ぼくは見たことがないんです。たぶん、息子さんが並べたものがずっと残っているっていう感じだと思います」
「ふんふん」
「なので、査定にこられても、だれが買い取りの金額を決めるのかも分からなくて……それに、市街地から遠いところにありますし、新規のお客さんも、ぜんぜん来ないので」
「なるほど、そういう事情があったのね」
大学でのときと同じく、ふんふんと
学生の話をさえぎらない、この包容力のようなものが、先生の魅力のひとつでもある。
そこで先生はなにかを思い出したらしく、
「実はさ……少しだけ伝えておきたいことがあってね」
と、声を潜めて、こんな話をしてくれた。
来年度、大学院生が一名進学してくることが決まったらしい。たったひとりの入学生だ。一年を通して5人くらい試験を受けたらしいのだが、ほとんどが滑り止めが目的であり、本命の大学院に合格したため、そちらへ行くとのことだった。
「外部からの子でね、うちを第一志望にしてたんだって。その子の主査はボアティングさんで、副査がわたし」
その新入生の研究を主に指導するのは、ボアティング先生で、藍染先生はその補佐的な立ち位置になる――ということだ。
それでも、ボアティング先生と藍染先生とでは専門分野が違うから、それぞれから学んだことを取り入れながら、研究を進めていくことになるだろう。
「わたしも来年度は忙しくなるなー。青風さんの研究指導もあるし」
藍染先生は、芭蕉先輩の主査でもある。
「外部生の子だから、分からないことだらけだろうし、いろいろ教えてあげてね。あと、仲良くしてあげてね。数少ない院生どうし、結束してがんばらないと。わたしたちはともかく、うちに大学院なんてなくていいと思ってる人たちは、たくさんいるから」
藍染先生は、よりいっそう声をひそめて、「これはオフレコなんだけどね」と前置きをして話を続けた。
「森林先生が退職されるんだけど、その後任にくる人がね、ちょっと評判が悪いひとなの。研究者としてではなくて……なんというか、学生との間でトラブルが多くて。だから、ちょっと気をつけてね。その方も、大学院のことにノータッチというわけにはいかないからね。わたしたち教員はみんな、なにかしらの形で大学院のことに関わることになっているから」
「分かりました。気を付けます。新しく入る方のことも、青風先輩と一緒に、できるかぎりサポートをしていきますね」
その返答に満面の笑みを見せた先生だったが、このお店ではカードでの支払いができないということを聞くと、顔面蒼白になった。
「我が子には悪いが……ここはカードを優先して……いや、ダメだ。我が子を悲しませるわけにはいかない……鱗雲くん、ごめんね。これとこれは、今日は買えないわ……ごめんなさい」
ころころと表情が目に見えて移り変わる。大学では見せない一面だ。
「その人、鱗雲くんの知り合いのひとかい?」
そのとき、後ろの
「いいよ、いいよ。これ全部半額で。マサのカードは早く売っ払いたいから」
このカードの価値を熟知している先生は、その申し出を断ろうとしたが、最終的には、オーナーの――美月のおじいさんの好意に甘える形となった。
「メリークリスマス……は、明日かな? このカードは、サンタさんからの贈り物。でもね……ここには新しいもんなんて、ほとんどないから、お子さんが気に入るものはあるかどうか」
「うちの子の《サンタさんにお願いリスト》のなかにある
「お子さんはいくつ?」
「小学2年生です。上の子は現金がほしいなんて言う時期になったんですけど、下の子はサンタさんにおねだりしてくれて……かわいいんですよ」
「うちの孫も、それくらいの年のときは甘え上手だったから、ついつい、いろんなものを買ってあげたもんだよ。うちは、ひとりっ子ってのもあるけどね」
藍染先生とオーナーがこういう会話をしている間に、ぼくは、ショーケースの空になったところに埋めるカードを適当に
まったく価値は分からないけど、たぶん、きらきらとしたやつは高いのだろう。でも、先生の買ったやつって、そうじゃなかったな。ううん……。
「鱗雲くん。じゃあ、わたしは行くわね」
「お買い上げありがとうございました。お気をつけて」
「そうだ……もうひとつだけ」
先生は声をひそめて、こんなことを伝えてきた。
「来年度から研究科長が、
うちの大学院の「顔」となる先生が変わる。
正直、それがどれほどの意味を持つのかは分からない。ぼくが入学したときは、神凪先生が研究科長だった。
「でも、わたしも、できるかぎりバックアップするから。じゃっ! メリークリスマス!」
「めっ、メリークリスマス……です」
バイバイと手を振って帰っていく、藍染先生の後ろ姿を見送る。
「今日は、もう仕事はいいよ。ひとは来ないだろうし。やることもないだろ」
ショーケースにカードを補充し終えると、オーナーがレジの方から声をかけてきた。よく通る声だ。
「そんで、夜ごはんをうちで食べていきな。もうすぐ美月も下りてくるだろうし。どうだ?」
ぼくはもう、潔く断るなんて選択肢が芽生えないほどに、美月の家族と馴染みきっていた。お言葉に甘えて、夜ごはんをご馳走になることにした。
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