18. 引用するときは、出典先を示すこと

 駅舎のなかの待合室には、ひとがいなかった。ぼくのように、一駅先の神社に初詣へ行こうとするひとは、あまりいなかったのかもしれない。


 この地域の観光名所を記した地図の貼られた柱を中心に、ぐるりとまわるように席が並んでいる。右側の柱の方の席へ座り、ガラス窓の向こうを見ると、斜めに鋭く雪が降っていた。道に積もっている雪は、少しずつ濃くなっていく。


 芭蕉ばしょう先輩は声を立てないように無理をしている。鼻をすする音が聞こえてくるときもある。こんなに泣きじゃくったのは、いつぶりなのだろう、なんて考えてしまう。でもきっと、元いた大学院では、たくさん苦しい思いをしていたに違いない。あいつのようなやつが、他にもいたかもしれないし。


 藍染あいぞめ先生のところへ来てよかったんじゃないか。でもきっと、あっちでもやりたいことはあったのだろう。複雑でかんたんには噛み砕くことのできない気持ちを抱え続けていて、それがいま、こうして爆発しているのかもしれない。


 なにも声をかけずに、あいだを少しだけあけて、向こうにかすかに見える田んぼ道の方へと目をやっているのが、いまは正解なのだと思う。


 さっきから、スマホが何度か震えている。こんなぼくにも、新年のあいさつが届いているらしい。でもいまは、先輩が泣きやむのを待っていたい。


 厳然とした学歴社会があり、大学のランク付けがあり、不毛にも優劣をつけあう「文化」がある。ある者はマウントを取ることで承認欲求を満たし、またある者は、きたない言葉を「下」と見なした人たちにぶつけることに明け暮れる。


 そのせいで、自分の置かれている場所に劣等感を覚えて、卑屈になるひとや、不必要な罪悪感を持つひともいて……でもそれを、当たり前のこととして受け入れるよう強制する「文化」が、生まれる前からぼくたちを巻き込んでいた。


 みんな違ってみんな良いと教えられたのは、小学生のときだ。いまおもえば、ぼくたちが人生のうちでに抵抗できたのは、あのときだけだったんだと思う。

 そして、差異こそが軋轢あつれきを生むものだと気付くのは、あまりにもはやかった。


 ぼくたちは、同じ制服を着て同じ給食を食べて、同じ授業を受けて、運動会も遠足も強制的に参加することになっていた。差異をなくすために。しかしぼくたちは、差異を肯定した上で、他者を尊重することを、うまく教えてもらえなかった。


「あのひと、わたしに何度も手をだしてきた」

 先輩の声は震えていた。

「遊びにいこうとか、飲みにいこうとか……そんなことを言われたし、研究室の懇親会のときに……」

「そんなの、言わなくていいですよ」

「わたしは断り続けた……だからきっと、わたしへの恨みは、すごく根深いんだと思う。そしてその鬱憤を晴らすために、あんなにひどいことを言ってきたんだろうし……それに、鱗雲うろこぐもくんまで傷つけられてしまって……でも、わたしが『できない』っていうのは、ほんとうのことだと思う。そのことは、実感してたから」


 先輩は鼻をすする。涙を押し殺そうとしている様子が、見えなくても伝わってくる。


「ぼくは、べつに……」

「よくないよ。つらいでしょ。分かるよ……そんなの。わたしがこんなにつらいのに、鱗雲くんがまったくつらくないなんて、うそ。うそだし、ほんとうなら……それもつらい」


 気にしていないなんてうそをつくのは、自分にも、しらじらしい言葉として聞こえるのは、たしかだ。


「先輩は、の話を覚えてます? うさぎが眠っている隙にかめが追い越して、そのまま一着でゴールしてしまう、こつこつと一生懸命に歩いていたかめの方が、油断して寝てしまったうさぎより偉い、みたいなお話です」


 あのとき、ぼくを救ってくれた神凪かんなぎ先生の言葉を、アレンジすることなく反復する。


「でも、ぼくたちは、疲れたら休みたくなるし、毎日同じペースで歩けるわけではないし……ひとそれぞれの『進み方』があると思うんです。それに、ゴールが同じである必要なんてないし……だから、自分のペースで自分の決めたゴールを目指すのがよくて、他人と比べるのは違うんじゃないかなって」


 びゅうびゅうとうなる吹雪を見ながら、先輩はくすりと笑った。


「言いたいことは分かるけれど……鱗雲くんの言葉じゃないみたい」

「実はこれ、神凪先生が言っていたことなんです。たぶん、ぼくの言葉なんて先輩に響かないでしょうし」

「引用するときは、出典先を示すこと」

「すみません……」

「でも、ありがとう。少しだけ……すっきりした」


 もうすぐ、2時を越しそうだ。

 終電は行ってしまったし、この駅からでている、初詣のために臨時に運行されていたバスも、もう終業してしまっていることだろう。というより、この雪では、走ることもままならないに違いない。

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