16. 明けましておめでとう

 激しい闘いの結末は、現役バリバリの藍染あいぞめ先生の勝利となった。


「うちの子と甥っ子に1パックずつあげることにします」

「もし興味を持ってくれたら、うちに連れてきてあげてください。構築済みデッキもあるので」


「ええ。ありがとうございます。それでは、今日は失礼しますね……じゃなかった。この前来たときに《外延》の旧枠を見つけて、それを買いにきたんでした」

「それは、ありがとうございます! 鍵を持ってきますね」


 後ろのフックにかかっている鍵をマサさんに渡したところで、「そろそろ再開するぞ!」という声が外から聞こえてきた。きっと、ご近所の方だろう。


「ごめん、風吹くん。代わりにお客様に商品をお渡ししてくれる?」

 そう言い残して、マサさんは除雪作業に戻っていった。そういえば、マサさんは昼ごはんを食べていないと思うのだけれど、大丈夫だろうか。


「ところで、鱗雲うろこぐもくん、少しだけ話をしても大丈夫?」

 先生は少しだけ表情を曇らせて、「これはオフレコなんだけど……」と声を潜める。


「実は、来年、新入生が入らなかったら、大学院生の受け入れを停止したらどうかという話がでてきてるの」

「それ、ほんとうなんですか?」

「うん。わたしは、なんとかしたいと思っているんだけど、少数派だからね、この件での反対派は」

「新入生の有無で決めちゃうんですね……」


「そうした考え方はナンセンスだと思うんだけど、そうなってしまえば、賛成派が優位になるでしょうね。鱗雲くんと青風さん、そして今年から入る新入生の子ひとり。この三人が卒業したら、大学院の撤廃もありうるかな」

「そんな……」


「だからね、夏の学内での研究報告会は、大学外からも聞きにこれるようにしたいと思ってるの。もちろん、研究科長が代わるから交渉になってしまうんだけど……報告会の日に、入試説明会も開催できればと思ってる。だから、そこが勝負になる。でも教員だけじゃなくて、院生のみんなにも、できるかぎり協力をしてほしいの」


 大学院の存続の問題……それこそ、有名大学の大学院では無縁な話に違いない。もしかしたらは、自分たちが卒業できればそれでいいじゃないかと、言い捨てるかもしれない。でも、ぼくはそうは考えられない。


 琥珀紋学院こはくもんがくいん大学の人文学研究科は、正統的な研究に馴染めなくて、周りとうまくやっていけない学生が、のびのびと自分を表現することができるフロンティアだ。


 少なくともぼくはそう思っているし、だからこそ、そうした学生の受け皿として、ずっとここがあってほしいと考えてしまう。


     *     *     *


 最寄り駅から二両編成の電車に乗り、次の駅で降りる。駅前の道を右に曲がり、少ししてさらに右へと曲がり、駅の裏側の方へと出て真っ直ぐ進むと、スーパーの駐車場が見えてくる。警察署が近くにあり、窓からは黄身色の光が漏れている。


 芭蕉ばしょう先輩は、街灯の下でひとり、リュックサックを抱きしめて立っていた。

 淡い水色のジャンパーには白いもこもこのフードがついており、まるで、夜闇のなかに小さな空があるみたいだった。白色のニット帽も、雲のように見えないこともない。

 かわいい、という素直な感情が生まれる。


「あ、鱗雲くん」

「先輩、大分待ちましたか?」

「ううん、いま来たところ。待ち合わせの時間まで、まだ一分くらいあるから、遅刻でもない……服、ヘンかしら?」

「いえっ! なんというか、いつもと違う雰囲気だなって思って!」


 先輩はニット帽を取って、向きを確認して、もう一度かぶり直した。


「ヘンじゃなければいいけど……この服、どう思う?」

「どうって言われましても……」


 かわいらしいですと、素直に言って嫌がられると困る。似合ってます、というのが無難な回答だろうか。


「とても、似合ってます」

「……ほんとに?」

「本当です」


 寒いのだろうか。芭蕉先輩のほほが少し赤らんできている。「そう言ってくれると……嬉しい」というようなつぶやきが聞こえた気がするけれど、車が通り過ぎていったせいで、たしかとは言えない。


「それでは、行きましょうか」

 先だって歩きだした芭蕉先輩の方へ、小走りをして、横に並ぶ。


「鱗雲くんは、今日、バイトをしてたんだっけ」

「はい、急に入ることになって」

「そう……お疲れ様」

「先輩は?」

「わたしは、論文を書いてた。学会誌に投稿するやつ」

「博士課程を卒業するには、論文を何本か発表する必要があるんでしたっけ?」

「そう。うちの場合は4本」

「大学によって違うんですね」

「うん。もといたところは、5本だった」


 もう一度駅の方へと戻り、そのまま真っ直ぐ進んでいく。ひとの流れはほとんどない。目をこらした先に、家族連れの姿が見える。後ろを振り返ると、カップルが手を繋いでいるのが、うっすらと分かる。


 ここへ来たのは、久しぶりだ。引っ越した次の日に、この地域の地図を頭に入れるために、散歩をしにきたとき以来だろうか。


 二車線道路に車の影は見当たらない。道路沿いの家々はどこも灯りがついている。ほんとうに人がいるのかどうか怪しくなるほど、静まりかえったところもあれば、酔っ払いのご機嫌な声が聞こえてくるところもある。


「修論の調子はどう?」

「冬休みの課題で、一部分だけ書くことになっていて、いまは、先行研究をまとめているところです」

「わたしはよく知らないけど、外国語の文献ばかりが並んでそう」

「日本語に訳されているものが少ないですし、がんばって英語を読むしかないんですよね。でも、ぜんぜん読むのが遅くて……」

「最初は、みんなそう。わたしもたいへんだった」

「ぼくもいまは、そう割り切っているんですけど、やっぱり、劣等感みたいなものは消えないんですよね」


 国道が見えてきた。信号を渡りしばらく進むと小学校があったと思う。そしてその目の前に、織彦神社があるのを覚えている。


「フランス語の文献もたくさんあるんですけど、ぼくは、ぜんぜん読めなくて。でも、同じ地域のことを研究している他のひとたちは、きっと読めるんだろうなって……」

「英語が身につけば、フランス語の習得は苦しまなくてすむわ」

「そういうものなんですか?」

「スラスラ読むのには、時間がかかるかもしれないけど、文法的に似ているところがあるからとっつきやすい。一番たいへんなのは、主語に応じて変化する動詞を覚えるところくらい……かな」


 国道を突っ切って少し歩くと、人気ひとけが多くなってきた。この地区のひとたちが、神社に集まってきている。


「もう、新しい年になってる」

「えっ?」

「これ」


 先輩のスマホのロック画面には「0:12」と表示されていた。


「除夜の鐘……聞こえなかったですね」

「向こうの山のふもとの神社でつくらしいから、かすかにしか聞こえないと思う」

「じゃあ、気付かないわけですね」


 小学校の目の前の道路を渡り境内けいだいに入ると、灯りの向こうにしっかりと本殿が見えた。小さいわけではないけれど、大きいとは言い切れない神社だ。


「あっ、先輩」

「ん?」

「明けましておめでとうございます」


 新年の挨拶をすると、芭蕉先輩はぼくの目の前に回り込んで、じっとこちらを見つめてきた。そして、かわいらしく微笑んだ。


「今年もよろしくね、鱗雲くん」

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