14. 先輩との約束

 昨日のこともあり、こころが軽くなった。課題は順調に進んでいく。いままで読んだ文献と新しく読んだ文献の数は、先行研究を整理する上ではまだまだ足りない。


「○○という問題について、A(という研究者)は△△と主張しているが、Bは××という視点がAに足りないと指摘している」

 とりあえず、こうした文章を、いくつも作っていく。


 Aという研究者の主張を文献から的確に拾い出すこと、そもそも本当にその文献は重要なのかということ、Bという研究者の主張とは、どのような違いがあり、どのような共通点があるのかということ。そうしたことを意識していく。


 Cという研究者は、Dは、Eは、Fは…………と、ひとつの問題について、どのような研究がいままでなされているのかを整理するのは、並大抵の仕事ではない。


 完全なものではなく、いまの自分にできることだけでいい。そう言ってくれたからこそ、納得のいくところまで、とことん書いていきたいと思ってしまう。


 しかし、一年間の疲労がたまっているのも事実で、芭蕉ばしょう先輩からは、来年に向けて、できるかぎり休息した方がいいと言われた。ぼくにとっては、修士論文を執筆する来年こそが勝負の年なのだから。


 このふたつの気持ちを、どう整理すればいいのだろうか。そうした不安のようなものが、頭をもたげるときがある。


 夕暮れはまたたくまに夜となった。先輩からの返信はまだない。なかなか治らないのだろうか。

 そのかわり、胡桃ことう先生からメールが届いた。


   ――――――


 鱗雲くん


 ひとつお願いがあり連絡しました。

 1月12日のゼミですが、内容を変更して、来年度から始まる(引き続き私が担当する)「特殊講義B2」で一緒に読む本を決めることにしませんか。

 読む本によっては、図書館に入れてもらう必要があるので、早いうちに決めておきたいと思っています。できれば、英語の本を読みたいと考えています。もし洋書の購入をリクエストする場合は、図書館に入るまでに時間を要しますから。

 つまり、1月16日の「特殊講義B2」の授業と、12日のゼミを入れ替える、という感じです。

 ですから、1月9日に提出してもらう予定だった課題は、1月14日までの提出で構いません。

 どうぞご検討ください。返信は来年になっても構いません。

 それでは、よいお年を。


 胡桃玖留実


   ――――――


 もしかしたら、神凪かんなぎ先生が胡桃先生に、ぼくの悩みを、それとなく伝えてくれたのかもしれない。

 ぼくとの日にちを交換するのだから、おそらく差し支えはないのだろう。そうすることで、課題の締切りを延ばしてくれたのかもしれない。


「よく食べて、よく寝ること」――これがなによりも大事なことだと、胡桃先生は口癖のように言う。「修士論文の執筆は、体力勝負だからね」ということも。


「大晦日くらいは、ゆっくりしようかな」


     *     *     *


 芭蕉先輩から返信がきたのは夜遅くだった。


《返信が遅れてごめんなさい。風邪は治りました》


 安心しました――という旨のメッセージを打っていると、画面に「青風芭蕉」という文字が浮かびあがってきた。


「もしもし、芭蕉先輩?」

『急に電話をかけてごめんなさい』

「いえ、ぜんぜん大丈夫ですけど、風邪はもういいんですか?」

『うん。もうどこも悪くない』


 いつものような調子に戻っている……と思うのだが、どこかというか、がんばって平静を装っているような感じがする。


「ほんとうに、もう治ったんですよね?」

『……どうして?』

「ちょっと無理をしている感じがするというか」

『そんなことない!』


 少し強めの否定にたじろいでしまう。


『ごめん……違うの。その……ほんとうに大丈夫だから』


 やっぱりどこか様子がおかしい気もするけれど、を伝えなければならないことを思いだし、言われた通りの内容を先輩に伝えた。


『分かった。でも、もしかしたら、すでに研究室の前に置いていってるかもしれない。段ボールに入れて入口の近くとかに』

「それはあるかもしれないですね。そうしたら、どうしましょう。突き返すのもたいへんでしょうし……」

『ほんとうに、わたしたちのことを考えてくれないんだから困る』


 次に院生研究室に行ったときに、そうなっていたらと思うと、気が重たい。段ボールがふたつもみっつもあったらどうしよう。神凪先生に相談しても、置いていった教員に引き取ってもらえるかどうかは分からないし、いらない確執を生んでしまうかもしれない。


『ところで、鱗雲うろこぐもくん』

「どうしました?」

『明日なんだけど……明日の夜なんだけど、用事はあったりする?』

「用事ですか……?」

『うん。もし鱗雲くんが大丈夫なら、一緒に初詣に行きたいなと思ったりしたんだけど、どうかしら? 無理なら無理って言ってもらってもかまわないんだけど……』


 初詣――考えてもみなかった。むかしは家族と行くことが恒例となっていたけど、今年も帰省するつもりはない。それに去年は、大学院入試のための勉強に専念していたから、大晦日はあってないようなものだった。今年は、どうしようか。


『ダメ……かな?』

「いっ、いえ! ぼくの方は大丈夫なんですけど、先輩の方は、病み上がりですし……」

『もう、治ったから大丈夫。明日も日中は休んでるから。だから夜、朱紅丸山あかべにまるやま公園で待ち合わせをして、織彦おりひこ神社に初詣に行きましょう。十一時半くらいに』


「うーん」

『……ダメなら、ダメって言ってほしい』

「いや、そうじゃないんです。深夜の公園で待ち合わせって大丈夫かなって。暗いですし、人気ひとけもないでしょうし、芭蕉先輩が先についていたらと思うと……別のところにしません?」

『じゃあ、初詣は行ってくれるのね?』

「はい、もちろんです。ほんとうに、先輩の身体が大丈夫なら」


『じゃっ、じゃあ、わたしの言うところまで迎えにきて。場所はあとで教えるから。そこで落ち合って、一緒に織彦神社に行きましょう。ねっ、いいでしょ?』

 急にうきうきとした口調になった先輩。初詣をそんなに楽しみにしているのだろうか。


 そして、先輩の家からそう遠くない、スーパーの前で待ち合わせをすることになった。

 先輩は、何度も念をおしてきた。電話を終えるとすぐに、スーパーの所在地の情報を送ってきてくれた。


 明日の段取りを頭の中で組み立てていると、大掃除をしていないことに気付く。こまめに掃除をしてきたぶん、散らかっているわけではないのだが、この際だから、明日もう一度、部屋を綺麗にしておこう。


 芭蕉先輩の風邪が治ったことに安心した。身体の緊張が抜けていく感覚がする。

 ぼくも、あまり無理をして風邪をひいたら元も子もない。睡眠と食事は、しっかりとることにしよう。

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