13. 「うさぎ」と「かめ」
「少し顔色が悪そうに見えるけど気のせい?」
今日の
「大丈夫です! ぜんぜん!」
「
「正直言うと、思ったより難しくて、なかなか進まなくて……」
「鱗雲くんは、このまま帰るの?」
「はい」
「よかったら、相談に乗ろうか? わたしは夜まで研究室にいるし」
「えっ、でも……」
「もちろん、無理にとは言わないけど」
「…………」
「悪い。戸惑わせてしまったかな。でも、自分で抱えこんでひしゃげてしまうより、わたしたちに頼ってくれた方が、教員としては嬉しいけどね。それが仕事だし」
夜遅くまで研究室にいるということは、きっと、研究に忙しいのだろう。そして実際、先生の研究室のなかは、論文を書いている最中のような感じだった。
散らばっている書類や本を脇によせて、先生は、湯気の立つお茶のはいったコップをふたつ置いた。
ぼくは、いま取り組んでいる課題で、どうしてもうまくいかないところを相談した。ぼくの方をしっかり向いて、
「先行研究の整理からしているなんて、感心するよ。修士の学生が、一番苦労するところでもあるから。わたしから言えるのは、割り切ってしまうこと。いままで世に出された研究すべてを網羅しようとするんじゃなくて、読める範囲のものをまとめるくらいでいい、というふうに。たぶん、玖留実もそれでいいと思ってるよ」
「どうしても不安になってしまうんです。英文を読むペースが遅いことにも、苛立ってしまって。それに、ぼくの研究だと、ほんとうはフランス語も読めないといけないのに、英語でつまづいているっていうのが……こんなので、ほんとうにいいのかなって」
「気持ちは分かるよ。でも、わたしだって、最初はうまくいかなかった。周りと比較して、なんで自分はこんなにできないんだろうと思った。あのとき一緒に研究室にいた院生たちからは、さんざん馬鹿にされたよ」
「……そうなんですか?」
「うん。でもいつしか、自分を気ままなうさぎだと思うことにした」
「うさぎ?」
「うさぎとかめの話は知ってる?」
「うさぎが眠っているあいだに、かめが追い越してさきにゴールしてしまう……みたいな話でしたっけ」
「そうそう。でもさ、なんで同じゴールを目指さないといけないのかって、わたしには不思議なんだ。それぞれが、おのおののゴールを設定して、たまに休んだり、やる気がでたり走ったりしながら、進んでいけばいいじゃないかって。そう思うようになってから、自分のするべきこと、したいことだけに集中できるようになった。周りと比較をするのが、バカらしくなった」
神凪先生は、話しているときも、ずっと優しい表情をしてくれている。説教のようにきこえない。ぼくに寄り添ってくれているんだって、感じられる。
「だからいまは、鱗雲くんができる範囲のことをすればいいんだよ。周りと比べなくていい。わたしも玖留実も、分かっているから。すごくマジメに、がんばって研究をしてるってことを。ひとつの課題に悩んでくれるっていうのも、嬉しいよ。それだけ真剣に、わたしたちの指導に向き合ってくれているんだって分かるから。ほんとうに、やりがいがある。だから、卑屈にならないで、焦らないで。わたしたちは、
「ありがとう……ございます……」
「ちょっと、泣かないで。ティッシュ、ティッシュ。ああ、もうなんで、あんな奥に。ほら、これで涙をふいて。ごめんなさい。わたしばかり話してて、怖かったよね」
「いえ……嬉しくて。ぼく、大学生のときのゼミの先生に、お前は、できそこないだから大学院にいく資格がない……って言われたことがあったんで……」
「あるよ。わたしが保証する」
ぼくはその後も、なかなか泣きやむことができなかったし、抱えこんでしまっていたものを、すべて吐きだしてしまった。神凪先生は、ぼくを決して研究室から追い出そうとしなかった。ちゃんと、ぼくに向き合ってくれた。
バスの本数は、冬期休暇中は減っている。木枯らしが、両眼をじんじんと痛めつけてくる。
バスに乗っているときも、神凪先生の言葉を思いだして、泣きそうになってしまった。帰ったら、課題の続きをしよう。ひしゃげてしまいそうだったこころが、にわかに奮い立ちはじめた。
* * *
午前1時……だと思ったら真っ昼間だった。いつ眠りに落ちたのか記憶にない。論文を読んでいたはず……なのだが、睡魔に負けてそのまま掛け布団をベッドからずり落として床で寝てしまっていたらしい。腰がこり固まっている。
こんなに眠ってしまうなんて、一体どうしたのだろう。時間を巻き戻していくと、神凪先生のあの優しい顔が浮かんでくる。
「安心しきってしまったから……」
ぼくの足から離れなかった
暖房をつけたまま寝てしまっていたらしい。電気代のことを考えて、すぐに消した。のどがカラカラになっていることに気付き、コップに水道水を流し込んで、一気に飲み干した。
「あ……
まだ風邪が完治していないかもしれない。テキストメッセージで様子を
既読は付くが、返信はない。
文字を見るだけでしんどいのかもしれない。返信があってから要件を話せばいいか。
思いだすのは、あの日――クリスマスの日に見た先輩の姿だ。鮮明に印象に残り続けている。返信がくるのを、待ち遠しく感じる自分を見出してしまう。
目が冴えていくごとに、お腹が空いてくる。冷蔵庫を開けると、ほとんどなにも入っていないことに気付く。これから一週間近く飲食に困らなくて済むように、買い出しに行かなければならない。
解凍したごはんでお茶漬けをつくり、ひどい寝癖をなんとか整えて、寒々しくもどこか晴れやかな空の下、スーパーへと向かっていく。木枯らしの吹く往来は、昨日よりもいっそう冷たく寂しく感じられた。
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