福袋の中の研究者たち－*1 ぼくたちの研究と恋の行方について－

10. 人生で一番つらくて悲しい事件

「怖くなったらすぐに言ってね」

「うん、ありがとう」

　アルバイトが終わると、ぼくたちはバスに乗り、市街地の方へと向かった。

　雪は降ったり止んだりを、朝から繰り返していた。幸いなことに、風はそれほど強く吹いていない。もし吹雪（ふぶ）いていたとしたら、美月（みづき）は外にでるのが厳しかったかもしれない。

「薬は持ってるよね？」

「うん、持ってきてるよ。水筒（すいとう）もちゃんと、バッグに入ってる」

　混雑しているバスも、美月はあまり得意ではない。すぐにバスから出られないという状態が、パニックのトリガーになることがあるからだ。

　美月の場合、大学院に行くのも、フィールドワークに出かけるのも、少なからず困難がともなう。だけど、どうしても民俗学を学びたいとの意志を、家族のみんなが尊重してくれたのだと、美月は言っていた。

「どういう状況になると怖くなるのかとか、そういうことを分かってると、対処ができるから。いまは、怖くなくなる薬も処方してもらってるし。もちろん、薬が効（き）くまでのあいだは、ちょっと我慢が必要になるけど」

　美月は少し前に、そう話してくれた。

「だけど小学生のときは、死ぬんじゃないかって思うような怖さを、毎日のように味わってた。そのせいで、何度か学校にも行けなくなった。雨が降るだけで、パニックになるくらいだったから。泣いているわたしを、みんなが嗤（わら）うの。地獄だった。先生もあきれて、わたしを叱（しか）ることがあった」

　――とも。

　そういう暗い過去のことを、家族でもなく、お医者さんでもないぼくに話してくれるようになったのは、一体、なにがきっかけだったのだろう。振り返ってみても、はっきりとこれといえる出来事は、なかったように思う。

　　　　　*　　　　　*　　　　　*

　ぼくは、大学生のときに、いままでの人生で一番つらくて悲しい事件を経験した。

　妹の死の報（しら）せを受け取ったのは、ゼミで理不尽な理屈で怒られたあとの帰り道、下宿近くにあるスーパーの前だった。店先には、鮮やかな檸檬（れもん）が積まれていたのを覚えている。

　すぐに支度（したく）をして電車に駆け込み、大海を臨（のぞ）む高台にある実家へと息を切らして走った。

　自殺だった。死んでいる妹を見つけた母さんは、具合が悪くなって、誰にも見えないところで休んでいた。

　父さんは気力を振（ふ）り絞（しぼ）って、妹の火葬をすませた。弟は泣いているだけで、忙しさに悲しみを溶（と）かされていた父さんに、叱られることもあった。

　妹の通っていた学校で、全校生徒への聞き取り調査があり、その結果、いじめはなかったという結論がでた。だけど父さんは、それに納得しなかった。

　なぜ、妹が死んでしまったのかということを、うまく説明できるひとは、誰もいなかった。ぼくもまた、そのひとりだった。

　大学生になってからというもの、盆と正月にしか帰っていなかったぼくは、実家にいる家族のことを分析できる材料を、ほとんど持ち合わせていなかったから。

　妹も頻繁（ひんぱん）にパニックに陥（おちい）る症状を持っていた。それなのに、そんな妹に対して、ちゃんと寄（よ）り添（そ）ってあげられたのは、ぼくだけだったと思う。

　父さんや母さんの妹への態度は、どこか空回りをしていた。冷たく接していたわけでは決してない。ふたりとも、うまく妹と意思疎通（いしそつう）ができないことに、苦しんでいた。

　ぼくたちは何度も家族会議を開いた。どれだけ知識を共有しても、ぼくしか妹を安心させることはできなかった。相性のようなものがあるのかもしれない。妹はどこへ行くときでも、ぼくが一緒にいることをせがんだ。

　だけどぼくは、大学進学とともに実家を離れて、盆と正月くらいしか帰らなくなった。電話越しから聞こえてくる「大丈夫だよ」という妹の声の裏に、寂しさや不安が含まれているのは、なんとなく感じ取っていたのに。

　だとしても、そう簡単に帰省できない場所で、ぼくはひとりで大学生活を送っていたのだ。

　もしかしたら、妹が自殺したのは、ぼくのせいなのかもしれない。ある時からぼくは、そんな可能性について考えるようになった。

　もしそうだとしたら、ぼくは、なんらかの形で裁かれるべきではないのだろうか？

　　　　　*　　　　　*　　　　　*

　バスは何度も信号に引っかかった。市街地に近づくにつれて、道路は混雑していった。

「予約したお店の時間は大丈夫？」

　決して明るいとは言えない車内。心配そうな美月の顔がよりいっそう深刻に見える。

「大丈夫、安心して。どう？　お腹はすいてる？」

「うん、お昼はあまり食べなかったから。鱗雲（うろこぐも）くんは？」

「ぼくもぺこぺこだよ」

　灰凪（はいなぎ）駅にバスが着いたころには、もう七時になりかけていた。雪はちらちらと降っていたけれど、相変わらず吹雪く気配はなかった。

　駅前の大通りは雪空の下で眩（まばゆ）く煌（きら）めいていて、サンタクロースの人形や、イルミネーションに身を包んだ樹木が、喧噪（けんそう）のなかにクリスマスの訪れを織りこんでいた。

　行（ゆ）き交（か）う人たちの中には、ぼくたちへと無遠慮（ぶえんりょ）に視線を投げかけてくるひともいた。もちろん、彼らの視線を釘付けにしているのは、美月の方だ。

　そしてその視線には、「なんでこんな冴（さ）えないやつが、あれほどの美少女と付き合うことができるんだ？」という、嫉妬（しっと）や苛立（いらだ）ちのようなものも含まれているようだった。

　ぼくは美月の恋人ではないのだけれど、すっかり、縮（ちぢ）こまってしまっていた。

（2025/01/09 加筆修正）