11. わたしたち「は」デートだから

「あっ、芭蕉ばしょう先輩?」


 コンビニの窓から漏れてくる光が、きらびやかな大通りの灯りに打ち負けそうになっている。その格闘の最前線ともいうべき境界に先輩の姿が見えた。コンビニの軒下は山なりに雪が積もっていて、その後ろで先輩は缶コーヒーを飲んでいた。


 ぼくたちに気付いた芭蕉先輩は、瞬く間に眉をひそめて、

「だれ……そのかたは」

 と、美月みづきの方をじーっと一点に見つめだした。


「はっ、はじめましてっ。ええと、鱗雲うろこぐもくんのバイト仲間の八ツ橋と言います」

「バイト仲間……」

「例の玩具屋おもちゃやさんで一緒に働いているんですよ。というより、美月はオーナーのお孫さんなんですけど」

「なんで……下の名前で呼んでるの?」


 先輩は冷ややかな目つきでこちらを見ている。


「あと、なんでクリスマスに一緒に出かけてるの?」

「えっと、もうバイトは終わりまして、今日は打ち上げというかなんというか、ふたりで食事にきたんですよ」


 先輩は「ふたりで……」と呟き、耐えがたい怒りをためこんでいる様子で、肩をわなわなと震わせている。なにか、気分を害するようなことを言ってしまっただろうか……?


「せっ、先輩は、彼氏さんとデートって言ってましたよね?」

 話題を逸らそうと思いそうたずねると、先輩は顔をバッと上げて、ぼくをキッとにらんだ。


「うん、そうよ。そうだけど。なんか文句ある?」

 昨日、電話でやりとりをしたときに、なにか失礼があったのかもしれない。そういえば、突然、通話を切られたし。


 そのとき、コンビニのドアが開いて、パンパンのビニール袋をふたつ持った男性が現れ、こちらに向かって、「おーい、芭蕉! 寒いから早く帰ろう!」と、辺りにひとがいることに構わず、こちらに聞こえるような声を投げかけてきた。


「わたしたちデートだから」

 先輩は「は」の部分を強調して言い切った。


「おうちデートだから、勘違いしないで。お店の予約が取れなかったから、彼氏の家で食事をしてお酒を飲むの。じゃ、また今度」


 先輩ってお酒を飲まないんじゃなかったっけ?――と疑問に思ったが、とても仲睦まじいふたりの後ろ姿を見ていると、なんだか嫉妬めいたものを感じてしまう。


「鱗雲くん……そろそろ行かない?」


 後ろから美月が呼びかけてくれなかったら、いつまでも向こうの方を眺めていたかもしれない。それにしても、どことなく芭蕉先輩に雰囲気が似ていなくもない男性だったな。類は友を呼ぶの恋人版みたいなものだろうか。


     *     *     *


 バイキング形式のお店を予約した。

 出された料理をすべて食べなければいけない、というプレッシャーが苦手なのだと、美月のお母さんから聞いていたからだ。


 だけど、そういう理由でこの店を選んだということを言ってしまうと、美月は傷ついてしまうと思う。自分のせいで、他人にまで迷惑をかけてしまっていると、自責の念に駆られてしまうかもしれない。そういう繊細さが、美月にはある。


「さっきのひと、鱗雲くんの知り合いなんだよね?」


 サーモンのムニエルが行儀よく皿の上に乗っており、山脈のようにサラダが盛られていて……と、こういうところを見習わなければと、焼き魚とハンバーグがもたれ合っている自分のプレートを見て思う。


「大学院の先輩だよ。博士課程にいて、うちのふたりの院生のうちのひとり」

「そうなんだね……いいなあ」

「なにが?」

「鱗雲くんとふたりきりっていうのが」

「そうかなあ……」


 うん、焼き魚とハンバーグの味が相殺しあっていて、本来の魅力を発揮できていない気がする。


「博士課程ってことは、鱗雲くんが入る前からずっといるってことだよね?」

「ううん。ぼくと同じ年に入学してる。修士号を取ったのは別の大学院だよ」

「へえ。珍しいね」


 そう、珍しいのだ。修士課程で指導をしてくれた先生のもとで、さらに研究を深めていくというのが常識的となっている。別の先生に博士課程の指導をお願いしにいくと、場合によっては「修士課程からやり直してほしい」と言われることもある。


 修士課程で共に築き上げたものを、博士課程に持っていくのが普通なのだ。博士課程から面倒を見るというのは、先生にとって大きな負担となる。それでも、芭蕉先輩は別の大学院にいくことを決意した。そして指導教員の藍染あいぞめ先生もそれを受け入れてくれた。


 胡桃ことう先生も神凪かんなぎ先生も、「兎花うかは国内外から引っ張りだこだから。いまでも引き抜きがきてる。でも、ずっとここにいてくれてる」と言っていた。


 研究のための設備も、有名大学に比べれば極端な差があり不便だ。院生の数は少なく、ゼロのときもある。それに、大学のブランドにも魅力がない――とも言われる。「Fラン大学」だと蔑まれる。


 そんなことだから、芭蕉先輩も、一時はためらったかもしれない。だけど、藍染先生の下へ行く決意を決めたのは、先生の著作『西洋近現代哲学入門-哲学者のテクストの精読を通して-』を読んで衝撃を受けたからだという。


 この新書の帯には「中学生でも分かる哲学!」といううたい文句があった。


 そんなわけがないと思って読んでみると、主要な哲学者の考え方はもちろん、あの難解な後期デリダのテキストまで、などの遊びを手がかりにして、明快に、ひょっとしたら小学校高学年の生徒にも分かるように、恣意的しいてきな要約もなく説明されていた。


 藍染先生の研究はあまりにもクセが強いので、一部の研究者からは鼻白まれているらしいが、それでも、いま大注目の研究者となっている。


 "Menko, Bēgoma and Hanaichimonme: Introduction of Post-modern Melancholy”


 とくに、奇妙なタイトルを付けられたこの論文は、検索エンジンを使うと、たくさんの研究者の論文に引用されていることが分かる。


「ところで、鱗雲くん」

 美月はバッグから、赤と白が織りなす包装に緑色のリボンが結んである、小さな袋のようなものを取り出して、

「メリークリスマス。これ、わたしからのクリスマスプレゼント」

 と、ぼくにだけ聞こえるような声で言い、目の前に差しだしてきた。


 クリスマスプレゼント……? ぼくに……?


「ありがとう。とても嬉しい。でも、ぼくはなんにも用意してなくて」

「ううん。いいの。これは、日頃の感謝というか、なんというか……」

「開けていい?」

「ダメ」


 そう言われると、ますます中身が気になってしまうけれど……。


「じゃあ、家に帰ったら開けるね。でもやっぱり、お礼がしたいというか。なにか、ほしいものとかある?」

「ううん、そういうのじゃないんだ。でも、そうだなあ……ううん……あっ、じゃあ、もし鱗雲くんがよければ、来年……鱗雲くんの実家に遊びにいっていい?」


「ぼくの家に?」

「うん。わたし、むかしから遠出とか難しくて、家族と一緒なら安心できるんだけど、もう家族旅行ができるような感じでもなくなって。でもたまに、遠くに遊びにいきたいなって思うことがあるの。家族じゃなくても、鱗雲くんと一緒なら安心できるから」


「それなら、ぼくの実家じゃなくても、べつにいいんじゃない?」

「ううん、そうなんだけど……」


 美月は少しだけうつむいて、なにかつぶやいた。ぼくに聞き取れたのは「もう少し勘がよくても……」みたいなことだったけれど、とにかく、傷つけてしまったのは確かだろう。


「ごめん……ぼくの実家でもいいんだけど、逆に落ち着かないかなって思ったから。両親は、けっこうお節介とかしちゃうかもだし。でも、美月がそれでよければ、ぜんぜんうちでも大丈夫だよ。あまり観光名所があるところではないけど」


 顔を上げた美月は、ぼくの前に小指をさしだす。

「約束」

 もうこんなことをするような歳ではない気がするけど、絶対に約束を破らないようにとの自戒をこめて、小指をさしだし、からめる。


 そして小指をほどいたとき、どこからか視線を感じた。


 窓の外を見ると、スーパーのビニール袋を持った芭蕉先輩がいた。戸惑ったような表情で、こちらを見ていた。

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