09. メリークリスマス

「大丈夫ですよ。どうしました?」

 芭蕉ばしょう先輩から電話をかけてくるのは、珍しい。

『ええと、その……来年、何人くらい、うちの研究科に入学してくるか知ってる? 入学を決めた人は、ひとりでもいるのかなって気になって』

 本当にそのことを聞きたいと思って連絡してきたのか、不思議になるような、どこかふわふわとした感じのする声だった。


「ひとり入ってくるって聞きましたよ。藍染あいぞめ先生から」

『そう……来年からもふたりきりなのかなって、ちょっとは思ってたのだけど』

「三人になりそうですね。仲よくがんばってほしいって、藍染先生がおっしゃっていました。芭蕉先輩も、ぼくだけだと物足りないでしょうし、ひとり入ってくれるとなにかと――」

『そっ、そんなことない!』

 先輩の急な大声に、スマホを耳から離してしまった。


『そういうことは思ってないから。わたしは、鱗雲うろこぐもくんと一緒でも楽しいから。助かってるから』

 少し気まずい雰囲気が流れだしたので、話題を「研究科長」が交代することに変えた。すると、小さなため息が聞こえてきた。

 そして先輩は、こんなことを教えてくれた。


 大学院を取り仕切る「研究科長」は二年ごとに交代することになっており、ぼくや芭蕉先輩が入る前に大学院生がひとりもいなかったのは、琥珀紋学院こはくもんがくいん大学の文学部に大学院は不要だと思っている先生が「研究科長」だったからなのだという。

 だけど、神凪かんなぎ先生が「研究科長」になると、大学院の運営に積極的な先生が少しは増えるようになり、その結果、三年ぶりに大学院生が入学し、しかも、八年ぶりに博士課程の入学者が現れた。


 それでも、少数の大学院生のためだけに授業を開くことは負担が大きいため、制度上は受講が可能なのに、なにかと理由をつけて断る先生は少なくない。

 先輩もぼくも、授業を開いてくれるようお願いしたのに、「一カ月に一度くらいなら」とか、「学部の授業に出席するという形にして」などと、やんわりと断られてしまうこともあった。


 むかしから、うちの大学院に入学したいという学生は、少しはいたみたいだけれど、指導をしてほしいというお願いを突っぱねる先生が多くて、評判が悪くなってしまったらしい。

 しかし、「どうしてもこの先生のもとで学びたい」という、やる気のある学生の人生をくじいてしまうことに耐えきれない神凪先生が、大学院改革に乗り出したのだという。

 先輩がこうした事情に精通しているのは、そのような話題を院生に提供してくれる、藍染先生が主査だからだろう。


胡桃ことう先生とか、藍染先生とか、わたしたちを指導して下さっている先生方は、神凪先生と同じ気持ちでいてくれていたみたいだけど、その他の多くの先生は、いまでも全然乗り気じゃないから……』

「そうだったんですね。じゃあ、来年度からは――」

『年二回の研究発表会も、一回に減らされるかもしれないし、もしかしたら開催されないかもしれない』


 研究発表会は、自分の研究に対してアドバイスをもらえる貴重なチャンスだし、神凪先生たちのがんばりのおかげで、学部生たちも少しは聞きにきてくれていた。

 あまりぴんと来ていなかったけれど、「研究科長」が変わるということは、とても深刻な問題を含んでいることが分かった。


『あと、図書館に購入してほしい本とかがあったら、いまのうちに頼んだ方がいいと思う。大学院の予算で買ってくれる約束なのに、迅速じんそくに動いてくれないかもしれないから』

 大学院生は、研究に必要な本を、一年に二十冊を限度に大学図書館の方で購入してもらえるという制度があり、普通なら、かなり早く入荷してもらえる。大幅に遅れてしまうとなると、論文の執筆などに影響がでてしまう。


『ところで……』

 と前置きをし、先輩は急に話題を変えてきた。

『明日はクリスマスだけど、鱗雲くんは、アルバイトなのよね?』

「そうです。夕方までですけど」

『夕方まで? 玩具屋おもちゃやさんって、夜が忙しいイメージがあるのだけど』

「ぼくが働いているところは、海の近くにある、あまりひとがこないところなので」

『じゃっ、じゃあ! その後は、なにも予定がないってことでいいの?』


 バイトの後は、美月みづきと食事に行く予定になっている。そのことを伝えようとしたのだが、先輩は言葉をたたみかけてくる。


『鱗雲くんがよかったらだけど、一緒に食事とか……どう?』

「えっ? でも、先輩は彼氏さんと過ごすんじゃ――」

『風邪を引いたから、家からでられないの! だから!』

「でも、彼氏さんがいるのに、他のオトコと食事に行くのは、まずくないですか。それにその日は――」

『もういい!』


 いきなり電話を切られてしまった。

 折り返しの電話をいれてみたが、先輩はでてくれなかった。なにか、気にさわるようなことを言ってしまっただろうか。

 本棚の上のデジタル時計を見ると、もう間もなく日付が変わろうとしていた。

 明日のこともあるし、寝支度ねじたくをしようと、机を軽く片付けて、洗面所へ行こうとしたところで、先輩からテキストメッセージが送られてきた。


《メリークリスマス》


 デジタル時計を見ると、もう二十五日になっていた。ぼくは急いで、〈メリークリスマスです〉と返信した。

 すると、かわいらしい熊さんのスタンプが返ってきた。



(2025/01/09 加筆修正)

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