第54話



『ダンジョンとは生き物である。実に興味深い考え方だ。


 ダンジョンは変化する。

 瘴気の密度は変わる。

 とある冒険者曰く、ダンジョンに存在する瘴気の量が、出現するモンスターの質にかかわっているそうだ。

 では瘴気の量を左右するのは何か。これは推測でしかないが、その地に集まった信仰心の量ではないだろうか。

 たとえば、ガーデンを支配するのは死を司るエロリットである。ヨドゥンに信仰心が集まればかの神が活性化するのではないか。

 神が強くなるとは乱暴かもしれないが、その存在感が増すのではないか。


(一部省略)


 この世界に強く在るということは神にとって大きな意味を持つ。

 他の神より先んじることでより強大な存在成りえるのだ。


(一部省略)


 そも、ダンジョンとは神の庭だ。人の手に触れざる聖域だ。

 我々人類が踏み入ることなどもってのほかであり、また、理解しようとするのも罰当たりなのかもしれない』


 シィオン・ハートショットの手記より抜粋。



◎〇▲☆△△△



 おーおー。やっぱり魔物の数は分かりやすく減っとるな。こりゃあスキャレットさんたち、かなり張り切ってやってくれたに違いない。

「よーしお前ら油断すんなよー」

 もはや俺は完全に手ぶらだった。ここまで瘴気が薄くなってるなら何の危険もない。しかしそれを表情に出すのはこらえた。ベッセルたちにはそれらしいことを言ってダンジョンの恐ろしさを叩き込んどかないといけないからな。

 そう思っていたんだが、呆気なく四層までたどり着く。さーて次は五層だと鼻歌を歌いそうになった時、目の端にあるものを捉えた。通路の端に落ちていたのは布の切れ端だった。緑色の服のように見えた。手に取るより早く、それは消えてなくなってしまう。俺はその場に屈み込んだ。

「……あの、どうしたんです?」

「お腹でも痛くなったんじゃない?」

「食べすぎ?」

「それはあんたでしょ。どうなってんの胃袋」


『勘だ。最初にそいつを信じろ』


 みんなの雑談を聞きながら、俺に冒険者としての手管を教えてくれた人の言葉を思い出す。は? なんで今。

 今、俺は何を考えてた? ……勘? 勘が何? ここでか? 直感に頼ろうとしていた? なんで? だって、四層だぞ? 低階層で雑魚しか出てこねえんだぞ……いや。いや、違う。ここはダンジョンだろ。慣れ親しんでたとしても神さまの庭で魔物の巣窟だ。

「せんせー?」

 ハッとして、俺はベッセルたちを見た。

「戻るぞ」

「……え。どうして、ですか」

 ベッセルは不安げにこっちを見上げる。どうしてと言われても説明はできない。だってそうだろ。神の眷属をやっちまうような存在がいるかもって、どう説明すりゃいいんだ。

 さっきのあの布の切れ端。ありゃあ、眷属のだ。風神アイナスの眷属、ファストワードの……その可能性が高い。いや、というか確ってないか?

「せんせーってば。急に大人しくなったら怖いんですけど」

 ダリから漂う瑞々しい香り。甘くて若い。迷宮には不釣り合いなそれをかき消してしまうような、強烈な臭いが鼻にぶち込まれた。獣の臭い。死の臭い。咄嗟に振り向き、息を呑んだ。自らの存在を隠すかのように、俺の呼吸は独りでに最小限になっていた。

 生徒たちは言葉を発しなかった。とても、運がいい。

 意識して、ゆっくりと息を吐き出す。歯の隙間から丁寧に。雑になるなと言い聞かせる。

「に」

 声を出そうとしたが、途中で止めた。

 それはあまりにも当たり前のように出てきやがった。角を曲がって、その毛むくじゃらは俺たちの前に姿を現した。

 二足の狼だった。黒々とした体毛。頭が通路の天井に届こうかという巨躯。目は白く、感情は読み取れない。爪と、牙と。丸出しの下半身。貫かれた女。息絶えた女が魔物に貫かれたままで。刺さったままで。舌を出して。

「……せん、せい」

 ベッセルの声。

 俺は安堵した。ああ、よし、よしよし俺だけは助かるぞ。こいつら……この足手まといどもを囮にすれば時間が稼げる。三人のうち、誰かの足を転ばせて野郎の注意を引こう。そいつが襲われてるうちに……ここは四層だよな。三、二、一。死ぬ気で走れば地上に出られる。最短ルートを思い出せ。出さえすればどうにでもなる。魔物だから外までは追ってこられない(本当か。本当にそうか)し、他の冒険者だって近くにいる。そうに決まってる。そいつらと協力して討伐してもいいし任せてもいい。見殺しにしろ。

「……逃げろ」

 俺は、魔物から目をそらさないまま言った。そらせなかった。

「逃げろ逃げろって早く逃げろ逃げろ」

 頼むから早く。

「先生っ」

「行けボケ! 俺が殺すぞ!」

 怒鳴りつけてやると、リーヴェがベッセルの手を引いた。ダリが続き、二人を抱えるような勢いで駆けだす。魔物が反応したが、俺が壁を殴ったことで動きを止める。

「早く早く早く早く早くはーやーくーしーろー」

 あぶねえ。

「早くしろー、さっさとしろー。えー。なんだよー。何なんだかなーもうー」

 危なかった。マジか。ぎりぎりのとこで理性が踏みとどまった。おー……マジか。逃げようとしてたな、今。いや、冒険者としては正しいんだけどさ。

「どうすっかなー、どうすっかなーマジでー」

 独り言がうるさいが止められない。何かしゃべってないと変になりそうだ。

 俺は殴った壁の一部を武器に変えた。以前ダリが使っていた秘蹟の応用である。パクリともいう。咄嗟に創り出したのは片手剣だった。それを掴む手が少し震えていた。唇が渇いている。気休めに舌で舐める。よし。殺す。殺してやる。

 だが、俺の足は下がっていた。退いていた。冗談きつい。が、頭より先に体が動いているのは分かる。俺の中の根っこの部分がこの場から逃れたがっているのだ。

 そりゃそうだ。だってこんなモンスター、見たことねえもん。長いことガーデンに潜って、最下層と言われている試練の間までも何度か行ったが、こんなバケモン・・・・とは一度だって遭遇しなかった。俺以外の誰も知らない。見聞きしたことはないはずだ。

 あ。おい。汗が噴き出てる。何だこの圧。ガーデンの試練よりきついんじゃねえのか? つーか。何だよそれ。どうしてお前、勃起してんだ? あ? 見せつけるように、女の死体にぶち込んだままでここいらを歩き回ってたのか? どんだけ自信があるんだよこいつ。

「……だあ、クソが。クソアマが」

 バケモンのチ○ポケースにされている死体には見覚えがあった。《星の四つ葉》のパーティメンバーだ。午前中に三層で出会ったが、あいつらそのまま下層に降りたのか。そんで、こんなやつを連れてきたってのかよ。ふざけんな。ふざけんなザコが。調子こきやがってクソどもが。クソクソクソクソ終わってる終わってやがる。

 終わってんのは俺だちくしょう! 馬鹿が! 死ね! 油断だ。慢心だ。俺のせいであいつらを殺しそうになった。いや、ファストワードはやられちまった。あの化け物にやられたんだ。俺のせいだ。眷属には死の概念がないだのとミヤマは言ってたが……あぁぁぁあああ。

 よし。殺す。

 軍神クァンプの秘蹟を行使する。弱気になってたテンションを無理やり最高潮に持っていく。出ろアドレナリン。脳みそを麻痺させろ。いい。俺はもう死んでもいい。だが時間を稼げ。あいつらが外へ逃げきるまでは死んでも死ぬな。せめてそれぐらいはやれ。

 正体不明。二足の狼が腕を振り回しながら迫ってくる。ディアップル製の片手剣で受けようとしたが、嵐のような速度に、ぎらぎらに尖がった爪を認めて後ろへ引いた。退くなって!

 今度は俺から前へ。詰める。瘴気が濃い。濃過ぎる。久しくなかった、水の中でもがくような感覚。大上段から剣を振るう。魔物は腕で受け止めた。アホが。まずは一本ちょん切ったかと思ったが、体毛がかてえ。即座にクァンプの秘蹟で筋力を。エングゥリンの秘蹟で得物を強化したがそれでもなお通らない。力比べじゃ分が悪いか。っていうか急所丸見えじゃん。俺は野郎の陰部。その根元を断ち切ってやろうとフルスイングした。が、相手は後ろへ跳躍。こちらの狙いは見事に空ぶった。

 巨大な狼の魔物は急所を狙われているのを悟ったのか、入れっぱなしだった女をずるり・・・と抜いた。ぽいと投げ捨てられたその骸は死後も散々に穢されたであろう残滓がこびり付いていて、さすがに同情した。この女にも、その仲間にも喧嘩を吹っかけられたし、さっきも煽られたが、それでもこんな風に殺されるほど悪いことをしたとは思えない。仇を取ろうとは思えないが。俺はシルバースターほど甘ちゃんじゃない。

「はー……あー、昼食い過ぎたー……」

 落ち着け。

 この二足の狼には力がある。動きも早いし体も堅い。知恵もありそう。こいつは強敵だ。俺はほとんど詰んでいる。初見の敵からは逃げるのが正解だ。あるいは秒殺するしかない。が、ここまで来たらやるしかない。真っ向から至極真っ当に戦うほかない。戦いか……嫌すぎる。念を入れて信仰心のたまっている報酬石を持ってきていてよかった。確実に蘇生できるし、何だったら神さまも呼べる。いける。いけるぞ。自らを騙して奮い立たせる。別に俺以外の誰かの礎になる気はないが、分からんもんはある程度はっきりさせなきゃならない。ガーデンは俺たちの狩り場だ。俺たち冒険者が優位でなくちゃいけねえ。鼻くそほじりながら信仰心を稼げる場でなくちゃならねえんだ。だからこいつがどこのどなたでどっから来たのか。それを確かめなきゃならん。

 息を吐く。深く。長く。

「ミヤマァァァアア!」

 返事はない。だが、彼女には聞こえている。昨日も頼み込んだんだ。近くにいるはず。そう信じる。

「俺はいい! あの子らを頼む! 甘いもんでもなんでも貢いでやるからよ!」

 それから、次に会ったらファストワードにも謝らなきゃいけないな。

 あー。ちくしょうブッ殺す。戦いだと? ふざけんな。俺とこいつが同レベルなはずあるかよ。俺が上でこいつが下だ。魔物ごときが俺に歯向かってんじゃねえ。



◎〇▲☆△△△



「戻ろう」

 ベッセルが言ったので、ダリは思わず彼の頬を叩いた。

「ばかっ、殺されちゃうって」

「カシワギさんが死んじゃう。それはだめ。だめだよ」

 なぜだ。ダリは混乱していた。

 あの男は曲がりなりにも勇者だ。自分たちより腕が立つ。

「逃げろって言われたし……あっ、ほら、生き返れるって言ってたし。死んでも大丈夫だって」

 だめ。そう言ってベッセルはダリの肩を押した。

「どいて」

「退くわけないって……」

 自分たちが戻ってもどうしようもない。みな見たはずだ。あの魔物を。あの威容を。あの異常さを。

 足手まといになるだけだ。カシワギ・ケイジもそれを分かっているはずだ。

「ダリちゃんだってカシワギさんのこと好きでしょ」

「はあ?」

「死んでもいいなんておかしいって言ってたじゃない」

 ベッセルの白い肌に赤みがさしている。強い口調に、真剣さの宿った視線。神学校では見たことのない表情だった。

「それは、そうかもしんないけど。今それカンケーなくない?」

 確かにケイジは好ましい存在だった。ティンバーラインの名を聞けば誰もが顔色を変える。王家に匹敵する家名は、大陸で起こった戦争の折、最前線で矛を交えて国敵を打ち払った実績もあり、今でもなお特別視されている。

 だが、ケイジはそれを屁とも思っていなかった。というか知らなかった。大人だろうと学校の教師だろうと、公爵家の威光にひれ伏すのがほとんどだ。少なくとも今までに出会ったのはそんなものたちばかりだ。ダリは思い返す。ケイジは自分のことをただの子どもとして扱った。それが妙に心地よかった。


(そう。私はただの三男坊に過ぎない。私個人には何の力もない)


「いや、でも……」

 ちら、と、リーヴェに目をやった。彼女(彼かもしれない。性別は誰も知らない)は腕を組んだままむっすりと黙り込んでいた。

「ねえ。あんたからも何か言ってよ」

「あの斧は、私たちの分も用意できる?」

「へ」

「大地の神の秘蹟を使って。それから、軍神の秘蹟も。あれ、自分以外にも使えるでしょ」

 そうだ。その通り。しかし、それをどうして知っている。

 す、と、リーヴェがダリを見据えた。

「ダリ・ティンバーライン。あなたは頑張ることを嫌っている。めんどくさいことから逃げている。でも本当は、本気を出すのが怖いだけ」

 リーヴェの目は何もかもを射抜いているように感じられた。

「本気を出して、それが通用しなかったらどうしようって怖がってる」

「うあ……?」

 がらがらと、足元から崩れそうになる思いだった。こいつはどうしてこんなにも嫌なことを言うのだろうとダリは戸惑った。

「私はベッセル・カウリに賛同する」

「は、なんで」

 リーヴェは少しの間だけ言い淀んでいたが、決心したように口を開いた。

「勇者を死なせるわけにはいかない。たとえ死の神の秘蹟で生き返ると分かっていても。それでも」

 マイペースでつかみどころのないリーヴェが、初めて見せた強い意志だった。

 学校では薄ぼんやりとしていたリーヴェも、いじめられっ子で病弱で頼りないはずのベッセルも、ダリの目には今だけは違って映る。


(全部あの人のせいじゃん)


 ケイジの影響を受けてこうなったのか? 迷惑だ。甚だ不本意だ。

「……あの化け物じみた強さの人が、そう簡単に負けるわけない」

 願望だ。ダリは自分で口にして、それを信じることにした。

 自分たちが上手くサポートすれば誰も死なずに済むかもしれない。第一、ここで逃げたのが露見したらどうなる。ティンバーライン家の者はみな、自分を蔑むだろう。ふざけるな。そうはさせない。



◎〇▲☆△△△



「おう。どうしたよ。なんで戻ってきたんだ?」

「……何それ」

 ベッセルたちが指さす先には舌をべろんと出して無様に死んでる魔物。

「全然人の言うこと聞かないのな。お前ら。逃げろって言ったのによ」

 俺は頭をかきながら、出来の悪い連中を睨んだ。

「え、え、え、何してんの?」

「見りゃ分かんだろ。素材をはぎ取ってんだよ」

 さっきまで生きてた狼の魔物を、ごりごり苦労しながらも切り分けていたのだ。この野郎、死んでも厄介だな。大人しくすっぱりしてろってんだ。

「なんで生きてんの!?」

「いき……俺? 俺のこと言ってんのか?」

「だって先生、死んじゃいそうな感じだったのに」

「勝手に人を殺すな」

 そりゃ最初こそ初見の相手にビビったけどな。そう簡単にやられてたまるかよ。というかベッセル。くっついてくるなよ邪魔だから。

「よかった。よかったです」

 すりすりと背中に乗っかかってくるベッセル。いい加減にしろとキレそうになったが、寝息を立てられては怒る気力も失せるというものだった。

「体力ないくせに無理するから」

「うおーい、マジか。どうすんだよ」

 人の背中で寝るな。子どもか。子どもだった。

「はァー……ね、もう帰ろうよ」

 ダリが手を差し伸べてきた。俺は何となくそれを握った。

「お前……」

「なんですかー」

「意外と手の平ゴツイな」

「ゴツイ言うな。気にしてるんです」

 しゃあない。後はほかの連中に任すか。

 立ち上がるも、リーヴェは魔物の死体をじっと眺めていた。

「おーい、どうした」

「……いいえ。なんでも」

 だあ。久しぶりに疲れたな。なんか、無性にシルヴィの飯が食いたくなった。

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