第20話 実る徒花

   第十九節 実る徒花



 神聖組・第壱番隊・乙宗おとむね ゆかりの家系は一柳家と並ぶ徳川家臣の一席だ。

 幕末——彼らは江戸城を警護するための隠密部隊組織、御庭番衆の筆頭として暗躍していた。よって、その記録は徳川家に秘匿されたもの以外に残ってはいない。ただ唯一証明材料として残っているのは、三つ葉葵の家紋が刻印された御刀。そのはばきのみ——。

 今でも乙宗家と一柳家は、徳川家二十代目当主・徳川菊家の重臣として仕えている。

 ことに、乙宗紫は神道にも精通しており、神と将軍の双方に仕える公武合体派として、現代に名を馳せている。

 剣術流派は柳生新陰流。段位こそ取っていないが、その実力は禍津神を単身で退ける。事実、能登半島巨大地震においては山岳地帯に取り残された飯田小学校の児童全員を救助。迫り来る禍津神の脅威から避難所となっている安全地帯まで見事に護りぬいた。

 石川県・かほく市・加賀看護大学避難所——。

 乙宗紫は、飯田小学校の児童とその教員らを連れて、壱番隊と合流した。

 神聖組・第壱番隊は朝陽あさひ憂奈ゆうなを隊長とし、室伏むろぶし理北りほ、エマ・フランベルジュ、桐野きりの千聖ちさと堀川ほりかわ嘉音かのん、そして、乙宗紫の六人構成だ。

 皆、正絹の膝丈セーラーワンピースに身を包み、一貫した要望をしている。

 隊長のタイだけが赤色で、他隊士は白色だ。

 正門から帰還した乙宗は、隊長である朝陽のもとを訪ねた。

「——副長の予感通り、禍津神は出現していたわ。ただ、下関の時に比べればその規模は小さい物のように思えたかしら。あくまで私個人の感想に過ぎないけれど……」

「ううん。参考には充分な収穫だよ。ありがとう、乙宗さん」

 謙虚な姿勢を見せる乙宗に、朝陽の大光が鮮やかに照る。


 避難所として設置されているのは、壱番隊の居るかほく市と、もう一つ——第弍番隊と副長・月岡愛鐘が駐屯している金沢市だ。

 第弍番隊は、浅山一伝会から引き抜いた、関根せきね暁良あきらを筆頭とし、原田はらだ彩果さやか狭山さやま若葉わかば一柳ひとつやなぎ直哉なおや新城しんじょう琥珀こはく花宮はなみや紗凪さなの六人となる。

 現状、局長である遠星美海と花沢華奈は東京にて通常通りの職務に就いている。


「それじゃあ乙宗さんは、此処で少し休憩しながら、禍津神の規模を副長に連絡してくれるかな。あたし達はまだ避難出来ていない人達を助けてくるね」

 災害発生からすでに三日が経過している今でも、逃げ遅れている被災者は存在しており、行方不明者はもはや数が知れない。

 今回の神聖組の任務は、禍津神を含めた災害の脅威から、被災者達を救うことにある。

「え、いや——」

 朝陽の指示に動揺を見せた乙宗。

「ん? どうかした?」

 現場へ急行せんとする彼女の赤髪が翻ると、乙宗は坐り悪く歯に噛んだ。

「私、携帯を持っていなくて——」

「ふええ?」



 同刻、東京都・新宿区——。

 神聖組の局長が一人、花沢華奈は大層ご満悦に浸り、残された隊士達を連れて新年会を行なっていた。無論、同じ局長である遠星美海も参加しているのだが、元皇族の花沢と、田舎の弱小剣術流派の遠星とでは、その顔の広さに天と地ほどの差があった。よって場の玉座は花沢が握る事となり、遠星美海の存在は蚊帳の外となっていた。

 花沢は、歌舞伎町のとある高級和食店にて特待室を貸し切り、酒を汲んでいた。

「副長が不在ともなると、組の統率は私が取らなくてはね。まったく、面倒なことを押し付けてくれたものね」

 言葉とは裏腹に、たるみきった笑みを絶やさない花沢。空になった彼女のさかずきへ、頻りに酒がくべられる。

 遠星は、そんな怠慢ここに極まった花沢へ半ば反抗的な目を突きつけた。

「花沢さん。差し出がましいとは存じますが、今は災害の渦中。困窮している方々が大勢いらっしゃる中、我々のような役人がこのような優待を謳歌していては組の大義が見失われかねません。どうかこの辺で——」

「相変わらず堅いわね、美海。今は口うるさい副長も居ないのだから、もう少し楽しみましょう?」

 花沢派の隊士に酒を勧められるも、美海はこれを一瞥することさえ良しとせず、無言で断った。

 酒に呑まれた花沢の舌が、矢継ぎ早に舞う。

「美海? 私たちは隠密よ? 大義だなんだ——そんな物を掲げていても、所詮は空虚なハリボテに過ぎないの。私たちに任された御役目は攘夷派の鏖殺ただ一重。それ以外のことにうつつを抜かす必要なんかないわ。それに、どうせ被災地では壱番隊と弍番隊が身を粉にして頑張ってくれているのだから、あなたが今回の災害において懸念を抱くことは、ただ精神を磨耗させるだけの無駄骨よ。——役割の分担。それが、副長が私たちを東京に残した理由でしょ? 違わなくて?」

「しかし、我々は御国から正式に御役目を任されている身。花沢さんがおっしゃるような心持ちでは、隊の士道に障ります」

「士道……?」

 上機嫌だった花沢の目が一瞬にして曇った。忌々しげに眉根を寄せ、美海を睨み上げる。

「月岡もよくのたまっていたわね。田舎侍の分際で士道を語るなんて片腹痛いと、私は思うのだけれど——こと美海にとっての士道とはなに?」

「………………」

「あなたが信念とする武士道とは、いったい何なのかしら。答えてみなさい」

「…………。……士道は士道です」

「はっ、田舎の浅知恵だな」

 思わず、傍らから失笑が飛び交う。花沢一派の一人——山内悠真だ。

 だが美海は気に留めない。

「では花沢さんが思う士道とは——」

 続いた彼女の発言に、山内はさらに大口を開き、呆然と嘲笑を交えたような態度を見せつけた。

 花沢は、もはや美海から焦点を逸らす。

「その解えを他者に委ねてしまっては、それこそ貴方の士道に障るのではなくて?」

「————っ⁈」

 意表を突かれる美海。——図星だ。美海としては純粋に花沢の意見を訊きたかっただけだったのだが、自身が答えられぬモノの解答こたえを他者に問うなど、身の程に余ることこの上ない。

 膝の上に置かれた小さな手に、生温い汗が滲む。後悔と焦燥——そして劣等感の全てを閉じ込めた蹉跌さてつとりで

 己の情けなさだけが足先から身体を冷やしていき、もはやおもてを向けることさえいさぎよしとは出来なかった。

 とは言え、美海はまだ十八で、花沢は二十九だ。社会経験も含め、その差は歴然だろう。

 しかし、歳の差を言い訳に自己を肯定出来るほど、美海は自身に甘くなかった。

 長らくして、花沢の口から溜め息がこぼれた。

「まぁ、副長が居ない今、こうして腹を割って話せることも少ないでしょう。——いいわ。教えてあげる」

 常時持ち続けていた盃が置かれ、花沢の目に力強い熱が灯る。

「士道とは即ち、武き者の道よ。故におよそ一般的とされる者達よりも勇ましくなくてはならない。万事臆せず万事邪悪を勇んで正す。ないし、その先駆けたらんとする志の道。その点で言えば、五月雨はまさしく武き者よね。けれど誤解してはいけない。彼らはただ無作為に敵を斬っている殺戮者に過ぎないわ。例えば、敵が複数人居る場合、短期決戦を狙うには如何なる戦術が正道だと思う?」

「…………」

 黙り込む美海。その渦中に、月岡愛鐘の姿を思い返した。

 敵の中腹に飛び込み、最も力のある人間を捩じ伏せ、取り巻き達が降参していく田舎の喧嘩戦術——。

「……やはり、長と思しき人物を討つことでしょうか」

「御名答。戦国の合戦に於いても、長を獲られた者達はその悉くが戦意を喪失し、その後捕虜となるか処刑されるかしているわ。代表的な例で言えば『桶狭間の戦い』かしらね。織田信長が狙っていたのは、当時最も天下に近しい大名だった今川義元ただ一人。しかしその戦力差は織田兵が五千に対し、今川兵は二万五千。普通に考えれば、無謀な戦よね。けれど信長は、標的を今川の首一つに限定することで、他の有象無象を情報操作によって各地へ散らし、見事作戦を成功させた。このような〝一人を殺して多くを救う〟戦い方を武士の世では〝一殺多生〟と言うのよ。凡人には出来ないことを勇んで行い、如何なる業も背負う気概と覚悟。士道においてはそれを惜しんではならない。自身が信じるもの——延いては正義のためなら、技術を行使して道を斬り開くの。かつて幕末に於いて、多くの有能志士達を輩出した吉田松陰は、生前こう言い残しているわ。〝志を立てるためには、他者と異なる事を恐れてはならない〟とね。全くもってその通りだと思うわ。万民と同じ土俵に立っていては、世は変えられない。だからこそ武士は持ち得る兵法の全てを信念と共に道に据え、明るい未来を斬り開くべく先駆けとならなくてはならない。ある人はこの考え方を〝夫兵法は国を治めるの利器也〟と唱えたわ。武士はそのためにいる。士道とはすなわち、これらを勇んで行う、志のことなのよ」

「————」

 見事な弁舌だった。

 思わず言葉を失った。

 想定していたよりも遥かに論理的で文学的。

 感服さえするほどの思想——。

 けれど——。

 美海が抱いた思いを察したかのように、花沢は絶えず言を連ねた。

「——でもね、これを現代では〝異端者〟と謂うのよ。百年以上もの間、長きにわたって続いた安寧によって、日本人は衰退したわ。士道なんて望むべくもなく、自分ではない、他の何かのために本気で挑もうとする勇気なんて、もうこの国にはない。それを有している者のことを彼らは異端と蔑み貶める。延いては犯罪者だのテロリストだのと酷な肩書を背負わせてね……」

 仕切りに一瞥される、花沢の刀——。会津漆による石目塗拵。その存在がこの酒盛りの場においては酷く空虚に見えた。

「攘夷派が台頭するよりも前、東京の秋葉原で無差別殺傷事件があったのを知っている?」

「……聴いたことはあります。歩行者天国の中で起こった強行だって——。けど被害者は一人も出なかったと伺っております」

「そうよ。警備に当たっていた警察の迅速な対応が功を奏したって、表向きはね——」

「おもてむき?」

 おうむ返しする美海に、花沢は一泊置いてから答えた。

「——あの場を治めたのは私の妹、有栖川花帆よ」


 東京都民でなければ知らないことだ。

 秋葉原の歩行者天国は、警察による警備など行われていない。ただ居るのは武装を許可されていない一般警備会社の警備員。彼らの主な役割は、歩行者天国中に於ける自転車走行の取り締まりや、侵入する車両の通行規制。

 警察は、万世橋警察署の交通課が出向いてはいるが、それぞれが歩行者天国区域の最端、万世橋と末広町の交差点付近で待機となっている。

 有栖川花帆は、近年増加傾向にあった外国人への対応に、有志で出向いていた。

 歩行者天国終了時、警察によるアナウンスは悉くが日本語であるため、言語理解のない外国人が車道に残るケースが度々見受けられた。これをスムーズに解決するため、有栖川花帆は出向いたのだ。無論、警察へ直接苦情を入れることも考えたが、勇んで行動で示すことこそが、有栖川家の令嬢たる心意気だった。その最中、事件は起こった。

 午後十五時頃——。

 一人の男が二尺五寸ばかりある日本刀を振りかざし、民衆を無差別に襲ったのだ。

 平成の前期に起こった『秋葉原無差別殺傷事件』の模倣犯だが、その後の供述によると出来る限り多くの命を奪うため、ナイフではなく刀を用いたらしい。

 この時、有栖川花帆は居合刀(拵のみが真剣仕様で、刀身は亜鉛合金による非刃)を、万が一に備え携帯しており、この時、彼女はそれを抜いた。

「付近に居る方々は安易に背を向けてはなりません‼︎ 脅威の姿を目で捉えながら、落ち着いて間合いの外へと逃げてください‼︎ 彼の間合いに居ない者は全力疾走‼︎」

 そう呼びかけながら、彼女の存在へ気づき、刀を振り下ろして来る男へ、花帆は勇ましく踏み込んだ。

 相手が刀であったことが、剣術家の花帆にとっては好都合だった。

 振り下ろされた刀を左上段で受け止め、棟を向けながら刀身と柄の上下を反転させた。すると瞬く間に相手の刀は奈落を向き、懐が開く。その小手目掛けて、旋回させた居合刀を振り下ろした。

 罅は入っただろう。

 衝撃で男の手から刀は離れ、花帆はこれ見よがしに彼の首元へ居合刀を入れ、胸ぐらを掴んだ。そのまま居合刀で脅しつつ、彼の膝裏を自身の右足で折り、人体を倒す。これで制圧は完了した。

 警察が駆けつけたのはそれから間も無くした頃——。

 だが、有栖川花帆は銃刀法違反の容疑で取り締まられる事となり、被害者を出さず犯人を鎮圧したという栄華は見事警察の手によって掠め取られた。

 一強者が、正しく技術を行使した結果がこれだ。

 この時の有栖川華奈にとって、この政府の対応は憤慨を覚えるに足るものだった。


 そして、唐沢癒雨を主体とした攘夷の始まり——。


 斎場首相が暗殺され、その後、麻倉副大臣とその一派までもが惨殺された。以降、東京は上野、秋葉原、水道橋、お台場を中心に外国人への攘夷運動が肥大化。

 有栖川花帆は、これを弾圧すべく武力行使を政府に申請した。

 しかし、政府がもたついている間に花帆の動向が攘夷派に知れ、彼女はその短い人生に幕を下ろした。

 現代の坂本龍馬——有栖川花帆をそうののしる者が現れたのは、それからすぐの事だった。



 会計を済ませ、宴会を終えた遠星美海と花沢華奈ら神聖組は帰路に着いていた。

「——とにもかくにも、貴方も武士に憧れを抱くのなら、一般的な考えからは解放されるべきよ。そのままじゃ何も斬れないし、何も守れないもの」

 花沢の言葉は、美海本人ではなく、彼女の腰に差された刀を見ていた。まるで、それが飾りであるかと問うように——。

 ——後日、花沢華奈はとある宿屋を訪ねていた。目的は、五月雨隊員の追跡。攘夷派の浪士と思しき人物が出入りしていたと噂される宿屋を、花沢華奈や他の隊員達は、しらみ潰しに散策していた。

「何か、大きな荷物を持った客が出入りしませんでしたか? ギターケースとか、ゴルフバッグとか——」

 しかし、当然ながらどこも首を横に振られる始末。

 訪問調査は広範囲に亘った。

 神聖組の拠点が位置する渋谷区はもちろん、治安が悪く反社会的組織が紛れ込みやすい新宿区や、事件のあった港区——。他にも、外国人による治安悪化が懸念されている千代田区や台東区、墨田区なども巡察がてらに廻った。

 しかし、どこも不発——。やはりそう容易く痕跡を残したりはしていないようだ。

 日が暮れ始めた頃、台東区と墨田区を隔てる大河——隅田川に架かる桜橋を渡っていた花沢華奈と逢野賢志。浅草駅を望み、銀座線に乗って渋谷へと帰る予定だった。

「——〈水戸の戦乱〉以降、突然動きを見せなくなったわね、五月雨」

「度々、攘夷派の人達による外国人差別は見掛けるけどね。彼らは所詮便乗者に過ぎない。五月雨の情報は完全に隠蔽されているようだ」

「そもそも、私たち神聖組が本格的に組織されてから、五月雨は特段目立った事件を起こさなくなったわよね。〈水戸の戦乱〉も、被害に遭った外国人はただの観光客だったし……五月雨がそんな無意味なことをするとは思えない」

「それをするのは、さっきのような便乗者がほとんどだもんね」

「……………」

 顎に指を当て、桜橋の回廊をゆっくりと進んで行く花沢。考えごとをしているせいか、彼女の歩幅は次第に縮小していく。それでも賢志は、依然としてその傍らに並んだ。

「どこかの国の大使が居たみたいだけど、あれは全くの偶然だったようだしね。なぜなら、最初から彼が目的なら、無闇に騒ぎを起こすことは得策ではない。伊予ちゃん達はあの場に呼び寄せられたんじゃないかと、僕は考えているんだ」

「やっぱり賢志もそう思う?」

「もちろん。多分どこかで、僕たちの存在が五月雨に漏れているよ。——でなきゃこんな往来で、帯刀した人間が僕達の前に現れるはずがないからね」

 おもむろに抜刀を始める賢志。彼の視線の延長線上には、真っ黒な和装に身を包んだ、黒笠の男が居た。その腰には、当然のように大小二振りの刀が携帯されている。

「どちら様かな? そんな如何にもな格好して、よくお巡りさんに止められなかったね。どこかのお役者さんかな? それとも——」

 続きを吐こうとした彼の口を閉ざすように、黒笠の男は発声する。

「——有栖川華奈とお見受けする」

「「————ッ⁈」」「「(どうしてそれを——⁈)」」

 互いの心中が調和した。

 驚嘆の所在は同じだ。

 花沢華奈の姿を見て、有栖川の名を出したこと——。その事実を知っているのは、ごく一部の限られた人間だけだ。——他ならぬ、我らが神聖組である。

 わずかに動揺を見せたが、賢志は強気な姿勢を崩さない。

「へぇ〜、ひょっとしてストーカーさんかな? 三十路近い女の素性を詮索するなんて、悪趣味にも程があるんじゃないかな」

「おい」

 一言余計だこのスケコマシ。

「——有栖川華奈。私はお前に真実を伝えに来たまでだ」

 賢志の挑発には聞く耳を持たず、彼は差していた刀の一振りを差し出してきた。

「それは——っ⁈」

 見覚えのある、紺青色の溜塗鞘拵。

 紛れもない、有栖川花帆の佩刀だったもの。

 生前、彼女が唯一有していた一振りに相違ない。

 華奈の体内温度が上昇を始め、血が、滞留を起こす。

「どういうつもりよッ‼︎ そんな物を見せつけて、殺されに来たとでも言うのかッ⁈」

 赤く沸騰する華奈の形相。今にも隅田川の水を氾濫させんとばかりに灼熱する。

 しかし、男は刀を投げ渡し、あろうことか返却した。

「は——?」

 よくよく見てみれば、鞘には生々しい刀疵が刻まれている。かなり深い。刀身の片鱗が垣間見えるほどの大きな傷——。

 花帆が殺された当初のまま、手入れはされていないようだ。きっと刀身には、赤茶けた錆が出ているだろう。

「……な、なんのつもり……?」

 困惑する華奈。

 被害者の遺品を、遺族に還すなどという良心が彼らにあるとは思えなかったからだ。

 きっと何か続きがある。だからこそ問いた。

 男は、淡白な声音で告げる。

「有栖川花帆を殺したのは私たちの意思ではない」

「は……?」

 この期に及んで紛うことなき容疑を否認するつもりか——。

 再び怒号を張り上げんと喉元を開きかけた華奈。

 されどその直前を、男の真実が両断する。

「内閣府副大臣・乃木辰則たつのりら以下二名だ」

「————⁈」

 燃え上がっていたものが、一瞬にして凍結を始めた。

 今までに身に覚えたことのない寒波が体中を逆流する。

 圧倒的なまでの絶対零度。

 華奈の怒りは瞬く間に青く凍りついた。

「耳を貸すな華奈‼︎ 敵の戯言だ‼︎」

 賢志の声が、遥か彼方から微かに耳を打つ。

 いや、しかしそれならば全ての辻褄が合ってしまう。華奈はそれを理解している。

 花帆が殺された日、令和二十三年・十二月十日の夜——。

 彼女は兼ねてより申請していた武力行使に勅許を出すとして、内閣府副大臣の一人から、虎ノ門にあるホテルに呼び出されていた。

「遅いなぁ、乃木さん……。もう待ち合わせ時間はとっくに過ぎているのに……。けど、この勅命が叶えば、五月雨を一網打尽に出来るよね。どうせこのままじゃ、五月雨怖さに観光客だって減る一方だし、きっと政府もそれは解ってくれてるはず——」

 花帆以外、人の気配を感じさせない閑静な一室。

 今一度自身の決断の正当性を自問自答しながら、彼女は独白を繰り返していた。

 その時、一室の扉が開いた。

「あ、乃木さん——」

 一瞬、期待に胸を膨らませた。

 しかし、現れたのは花帆の知る人物ではなかった。

 まだ二十代前半ほどと見られる、見知らぬ男性。背中には二尺半ほどある大きな荷物を背負っている。

「どちら様ですか?」

 怪訝に思いながらも、朗らかに尋ねる花帆へ、男も陽気な微笑みで応じる。

「いやぁ〜、副大臣ともなると乃木さんも多忙なのでしょうね。少々お仕事に手間取って居られるようでして、代わりに私が参った次第で御座います。話は兼ねてより伺っております。軍事兵装開業許可の勅許だとか——。今書類をお出ししますね」

 おもむろに荷物を下ろし、そのケースを開き始める男。

 この時すでに、花帆は違和感を持っていた。

 内閣府からの勅命という重大な契約において、第三者を入れてきたこと。

 加えて、男が持っている荷物の大きさは、書類を封入して置くにはあまりにも身に余る。

 花帆は、傍らに掛けてあった自身の刀へ手を掛けた。

 刹那、飛び跳ねるような一閃が、口を開けた男の鞄から花帆の霞を目掛けて抜き打ちに走った。

 自衛が間に合わず、これをまともに喰らってしまう花帆。斬り抉られた顳顬こめかみから、真っ赤な鮮血が勢いよく噴出し、備え付けられていた花瓶を汚す。

「ゔぅ——ッ⁈」

 坐禅が崩れ倒れ込む花帆へ、男は間髪入れずに小太刀を振り下ろす。

 反転する花帆の人体。彼女は負けじと、手に取った自身の刀でこれを防いだ。

 溜塗の敷かれた呂鞘に、鋭い太刀が深々とのめり込む。

「ぐゔぅ——ッ⁈」

 渾身の力を以って踏ん張る花帆。

 しきりに、風穴を空けた顳顬から激痛が轟いた。

 あえなく、花帆は立ち向かう力を失ってしまう。

「ゔあァ——ッ‼︎」

 圧され、倒れ込む彼女の水月へ、男は躊躇なく小太刀を叩き込んだ。

「————ッ⁈」

 心臓への寸分の狂いなき一刺し。

 逆流する体内の血液。

 花帆の口から、わずかに黒ずんだ赤い濁液が、勢いよく溢れ出る。

 呼吸が出来ない。

 息が詰まって苦しい。

「——っ、——あッ、——‼︎」

 視界が霞んで行く。

 何も聴こえなくなっていく。


 やがて、有栖川花帆の目は何も映さなくなった。


 この事件の疑問点は二つ——。

 なぜ、虎ノ門のような高級ホテルの一室に容易く立ち入ることが出来たのか——。

 なぜ、副大臣だけは見逃されたのか——。

 国家公認の武力を恐れたのならば、彼らこそ殺すべきではなかったのか——。

 黒笠の言葉で、全ての合点が入ってしまった。

 侵入が可能だったのは、あらかじめ鍵を持っていたこと。

 副大臣が見逃されたのは、彼らが依頼主だったから。

 自らの保身のために、五月雨と結託し、妹の命を奪った。

 そして、いずれにせよ目障りだった五月雨を打倒するため、神聖組を暗躍させた。

 全部全部全部、自分たちの権威と命のため——。

 そして、黒笠は最後の手札を落としていった。

「信じられぬと言うのなら証拠をやる。我々と内閣府の結託を録音したものだ」


『——武力行使を認めてしまっては内戦は避けられない。そうなれば諸外国からの信用は失墜する。今や多くの観光客達で賑わいを見せる日本。彼らが日本を気に入り、この国で過ごしたいと思ってくれなくては、連合国家はつくれない。同時に、彼らの力無くしてはこの国の経済は回らない。しかし、皇族である有栖川嬢の言うことも無碍には出来ない。だから奇しくもお前達に頼らざるを得なくなったのだ。これで、我々内閣府は、君たちへ武力を向けることはない。武士ならば、そんな無力な相手の命を、一方的に脅かすような真似はしないだろう?』

『——さぁ、どうかな。それは唐沢さん次第だ。でもまぁ確かに請けたぜ。有栖川花帆の暗殺。しかと遂行させて見せましょう』

『笑いもんだな。皇族に出すはずの密勅が、まさか敵さんに明け渡すとはねぇ。この国もここまで来ちまったか。怖いねぇ……政治家ってのは』


 この時、花沢華奈の中にあったたった一つの士道は、完全に崩壊した。


 令和二十五年 一月十日——。

 報道は何の前触れもなく行われた。


『——速報です‼︎ 内閣府の副大臣三名が何者かによって殺害されました‼︎ 犯人は未だ逮捕には至っておらず、殺害されたのは内閣府副大臣の乃木辰則さん。同じく副大臣の、工藤彰彦さん。そして、賀茂篤さんの三名です‼︎ 被害が遭ったのはそれぞれのご自宅。いずれも刃物のようなもので斬りつけられており、その場で死亡が確認されました‼︎』



 能登半島巨大地震に際し、被災者救援のため現地を訪問していた月岡愛鐘ら一派にも、当然ながらその訃報は伝わっていた。

 周囲からは五月雨の犯行という憶測が真っ先に上がっていたが、結城友成から愛鐘達の耳に直接飛び込んで来たのは、全く別の真実——。

「結城さん? 如何なさいましたか?」

『月岡くん、ニュースはもう観たかな?』

「えっと、内閣副大臣の方々の件ですか?」

『ああ。——いいか、これから言うことは機密事項だ。いずれ秘匿的に処分を下す。よって口外は一切無用だ』

「————?」

『現場に残された毛髪を鑑定したところ、彼ら副大臣を殺したのは、神聖組の局長が一人——花沢華奈と断定された』


 派遣されていた神聖組一味に、東京への帰還命令が下された。

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