第19話 慈愛の向かう先

   第十八節 慈愛の向かう先



 わたくしが原田さんと出逢ったのは、十七歳の頃——。

 夏真っ盛りの八月で、当時は特に気温が高く蒸し暑い季節でした。

 私は『種子田宝蔵院流槍術』の門下生が減少傾向にあることを憂い、兼ねてより門徒の募集を行っておりました。そんな時、同じ愛媛県内に大層荒々しい暴れ馬がいらっしゃるとの噂を伺って彼女の居る施設に向かいました。

 身寄りのない子供達が国の待遇を受けて育てられる児童養護施設。主に保護者の方が、何らかの理由でいらっしゃらない子が多い印象でした。無論、原田さんもその一人。

 幼少の頃より父親から酷い虐待を受け続け、母親は第二児の出産にて難産を伴い死亡。この時生まれた弟は脳性麻痺の障害が残り、親族は彼に付きっきりの生活。そのため原田さんが受けていた虐待に気づける者は居らず、等々彼女は父親から腹部を刺されるなどと言った危機的状況に直面していました。

 幸い、この時の傷は内臓まで達しておらず、その後彼女は出家をし、万引き行為を繰り返しながら路上生活を送っていたそうです。

 やがて、その犯罪行為を咎められた彼女は児童養護施設に収容されましたが、父親から受けた虐待のトラウマと誰からの救済もなかったことから、彼女は大人に対し、強い怨嗟を持つようになりました。

 施設では子供や大人へ見境なしに暴力を振るい、日常的に問題行動を起こしていたそうです。おそらく、自分を守るための防衛本能だったのでしょう。

 彼女の狂気に見兼ねた施設の方々は、止むを得ず鎮静作用のある薬を彼女に投与。一時的に憔悴しょうすいさせ、個室に幽閉しました。

 原田さんの噂を聴きつけ、私が彼女に逢いに行ったのはちょうどその頃でした。

「——お初にお目に掛かります、原田彩果さやかさん」

 彼女の髪は、真夏にも関わらず雪が積もり始めており、体も酷く冷たかった。

「これよりあなたの身を預からせていただくことになった、来島伊予と申します。どうかよろしくお願いしますね」

 鎮静状態にある彼女は対話するほどの意識を宿しておらず、例えあったとしても猛獣の如く噛み付いていたことでしょう。だからこそ私たちは、彼女の身柄引き渡しを、彼女の有無を聞かずに独断しました。

 そうして私は、冷え切った彼女の手をひいて、施設を後にしました。ところがその時、役員の一人がこう言い残しました。

 〝どうか彼女に、人を尊ぶ心を教えて上げて欲しい〟——。

 この時の私には、まだその言葉の意味が理解出来ていませんでした。



 翌朝。鎮静剤が切れるなり彼女は脱走。これを予見していた私は門下生や近所の方々とあらかじめ結託し、包囲網を敷いていました。お陰で原田さんは脱走して一時間も経たないうちに、私たちの道場『明鏡館』へと落ち戻る事となりました。

 原田さんに正座をさせ、道場の神前へと向かわせた私は、彼女と面と向かって話し合いました。

「——誠に不服でしょうが、あなたの外出は、あなたに相応の教養が身につくまでは許可しかねます」

「ボク、また監禁されるの?」

「人聞きが悪いですね……あくまでも謹慎です。あなたの事は兼ねてより伺っております。この件に関して、あなたに非はありません。あなたを取り巻いた環境が劣悪過ぎたのです。だからこそ、わたくしがあなたを教育し直すことにしました」

「なんで? 赤の他人でしょ?」

「それを仰られてしまっては耳が痛いのですが、正直に申し上げるのであれば、門下生の増加が目的だからです。あなたを我が種子田宝蔵院流槍術の門弟にするためです」

「ボク武術に興味ないけど……」

「それでしたら習って頂かなくても結構です。しかし、原田さんはまだ子供です。誰かがあなたの命を育んで行かなくてはなりません。その役割をわたくしが受け持ったのです。これからはわたくしがあなたのお母さんだと思ってください」

「……伊予、だっけ? 何歳?」

「十七ですが——」

「二個上か……ならお姉ちゃんでしょ」

「————⁈」

「なに? 急に驚いた顔して……」

「……い、いえ……てっきり勝手に身柄を預かったこと、怒っていらっしゃるのかと思っておりましたが、それでも原田さんはわたくしを〝お姉ちゃん〟と慕ってくれるのですね」

「……いや、別にそういうわけじゃ……。揚げ足とっただけだし……」

「——光栄です」

 〝お姉ちゃん〟と、そう呼ばれた私はこの時、少し高揚していました。何せ噂に伺っていた通りの鬼子が、こんな横暴も甚だしく連れられた道場の女を〝お姉ちゃん〟と仰ったのですから——。それがなぜだかとても愛らしくて——。

 しかし、翌る日も翌る日も、原田さんは懲りずに脱走を繰り返しました。その度に私は彼女を捕え、時には戦闘になり、それはもう手を焼かされる毎日でした。

 私自身も、何故ここまで原田さんに関心を持っていたのか分かりません。

 血縁などなく、彼女の仰っていた通り赤の他人。養う義理も温情も、本来であれば持ち合わせる理由なんて何処にもありません。ですが、それでも何故だか私は、彼女のことを蔑ろにすることが出来ませんでした。

 雨の日はもちろん、台風さえもお構いなしに彼女はいつだって脱走を謀りました。驚異的なまでの体力と執念に、私はもはや彼女に感心しつつありました。

 そして、秋も暮れ、原田さんの髪が真っ白に染まった頃、突然彼女は私に告げました。

「——伊予、ボクに武術を教えてほしい」

 驚きのあまり、私は思わず言葉を失いました。

 武術には興味がないと、あれだけ私の下を離れようとしていた彼女が、藪から棒にそう言い出したのですから——。

「え、ええ……もちろん構いませんけど、どうしたんですか急に……」

「伊予はさ、ボクが脱走するたび、いつもボクを捕まえに来てくれるでしょ。ボクがどれだけ抵抗しても、全く通用しない。それで思ったんだ。誰にも阻まれず、自由になるためには、誰にも負けない強い力が必要だって。だから伊予から解放されるためには、伊予を倒さなくちゃ行けない。それまで脱走はお預け——」

 おそらく、彼女がこれほどまで自由へ固執するのには、父親から受けていた虐待に理由の所在があるのでしょう。また同じ苦しみを味合わないために——。

「ふっ、ふふふふっ! いいですね、それ。——ええ、承知致しました。では原田さんの外出は、わたくしから一本取れたら許可いたしましょう。その後は原田さんが何処でどのように過ごそうと、全て原田さんのご意思に一任いたします」

「やった。約束だよ」


 そうして、私は原田さんに様々なことを教えました。

 一般的な勉学はもちろん、教養やマナー、食卓に於ける作法など、彼女が独立する上で必要とされるものは全て教えて行ったつもりです。

 そして六年後。あの赤い令状が私たちのもとへと届きました。


「——招集に従う? 人嫌いの原田さんが、これまたどうして……」

「面白そうだから」

 曇りのない眼で微笑む彼女に、私は少し呆れました。

「原田さん。こう言った組織は、とても厳しい掟があり、集団行動における相応の教養が無くてはやっていけませんよ? 今の原田さんにそれは——」

「だから、伊予が居るんじゃん」

「————⁈」

「ボクを止められるのは、伊予だけだから。それにまだボクは伊予から一本も取れてない。だから一緒に来てよ、伊予」

 仕切りに、蓋をしていた苦い記憶がこじ開けられた。


『——伊予ちゃん、いつも体動かす遊びばかりするけど、私たちはゲームの方がやってて楽しいし……』

『——勉強も運動も出来る伊予ちゃんには分からないよね。ゲームの楽しさなんて』

『——むしろ私たちは、伊予ちゃんと居ることの方が〝楽しくない〟』


 不必要だと、今まで散々間引かれて来た。

 だけど、原田さんは——。

「へぇ〜何それ面白い! もっかいやって‼︎」

「なるほど……じゃあ坂本龍馬はただの武器商人だったんだ。なんで英雄視されてんの?」

「伊予! これ教えて‼︎」

 彼女だけは、いつも私を必要としてくれた。

 勉強と、武術にしか取り柄のない私を、それでも慕ってくれた。

 きっと原田さんだって、普通の子達のようにゲームをして、他愛ない話で盛り上がって、およそ一般的とされる〝普通〟の日々を過ごしたかったでしょう。

 私も、そう思っておりました。

 武家や氏族の歴史を持つ家庭は、その悉くが現代では異端として扱われる。

 刀を持つことも、それを慣わしとしていることも、それら全てをいくら国が許そうと、世論は蔑んだ。危ないモノだと——。

 けれど、一度魅了されてしまえば、それは伝統と呼ばれる美しきモノ。私はその異端とされる概念への関心を捨て去ることは出来ませんでした。だからこそなのでしょう。私はやがて孤立した。

 願わくば、武術や氏族の様式美に阻まれることなんてなく〝普通〟に生きることを幸せだと思える人間に育ちたかった。

 だけど、今の私は幸せですよ。

 だって、原田さんが、こんな私でも必要としてくださいますから——。

「ふふふっ! そうなると、しばらく明鏡館の門は閉めなくてはなりませんね」


 私は、原田さんの自由を望んでいます。

 そして私自身も、私のような人間を育みたくはありません。

 私は原田さんが居てくださったから良いですが、〝異常〟を身近にしてきた方々が必ずしも同じような方と出逢えるわけではありません。

 だからこそ、誰もが〝普通〟であれる世の中を創りたい。

 その為に——。



 長らく閉じていた伊予の目蓋が、ゆっくりと光を浴び始める。

「——あなた方のやろうとしていることは、人々の日常を瓦解させ兼ねません。いいじゃないですか、弱くたって。大事なのは、そんな軟弱かつ脆弱な彼らでも、楽天的に生きることの出来る世の中ではありませんか? 安全圏から不満を宣うだけで生きていけているのなら、何であろうと今の日本人はとても幸福だと思いますけどね」

 彼女の発言に、赤尾の瞳が曇る。

「それ、本気で言ってるの? イヨちゃん。国民が不満を抱くことが幸福だって?」

「不満のない人間なんていらっしゃいませんよ。それを匿名で影からおっしゃるだけなら、今の日本はとても平和ですよ」

 皮肉めいた笑みを浮かべる伊予に、赤尾の形相が鋭く歪む。

 日光を反射させていた太刀の光は淡い映りへと豹変し、鎬の中で静かに燃ゆる。

「あ〜あ。なら解らせてあげるよ。不満を持て余した者が平和を破壊する瞬間をね‼︎」

 途端、大気が震撼を始めた。

 夥しいほどの死の気配が、辺り一帯に充満する。

 伊予は彼の気配に、和らげていた口角を緊張させた。

「一柳さん。弘道館に行って、関根さん方を呼んできて頂けますか? わたくし一人では、神格化している彼を抑え切ることはままならないでしょうから」

「そ、それじゃあ来島さんは?」

「増援がいらっしゃるまで、わたくしは命に換えても、彼を喰い止めます!」

 伊予の気迫に呼応し、赤尾の体が疾駆する。

 戦慄していた大気は渦を巻き、直立していた男の体躯を一直線に跳ね上げた。

 応じて地面を踏み込む伊予。

「はああぁぁ————ッッ‼︎」

 主力の全てを地表に預け、力強く目前の脅威へと挑み込む。さながら破魔矢の如し。

 交錯する、殃禍と栄華。

 振り仕切られる包平の如き太刀に、槍の穂先が喰らいつく。

 幾重にも衝突を繰り返す互いの究極。

 重なり合う鋼の鼓動が、安寧の秩序を斬り崩す。

 蟠を巻くように旋回する伊予の槍に、赤尾の太刀は烈風を刻む。

 しかし、槍の本領は穂先だけでは無く、その長さにこそある。

 振り切った端から、伊予は槍を反転。柄頭を赤尾の鳩尾へと打ち込んだ。

 渾身の力を持って突き上げ、彼の肉体を遥か上空へと撥ね上げる。

 されど、嬉々として口端を吊り上げる赤尾。

 虚空を跳ね回る我が身の自由を取り戻し、急上昇する蜂鳥を迎え討つ。

「ゼァ——ッ‼︎」

 滞空する互いの翼撃。

 暴れ回るの嘴を太刀の反りに乗せて真っ逆様に落ち伸ばす。

 横転し、流れに乗って再度降る縦一文字。

 間一髪で掲げた柄に、その一撃が進撃する。

 急降下する伊予の肉体。

 虚空を駆け抜け、地表を激しく穿った。

「攘夷イイイィィィィィ————ッッ⁈」

 着地した赤尾の目が、標的を転覆させた。

 逃げ惑う民衆に紛れた、異国の大使。最初から彼はこれを狙っていたのか——。

「行かせません——ッ‼︎」

 頭蓋から血を流しながらも、これを阻止せんと先駆する伊予。

 追撃し、赤尾の太刀を傍らから割る。

 しかし、逆に伊予の槍が弾かれ、続く二の太刀が彼女の懐へと疾った。

 旋回した槍の柄が寸前でこれを阻み、仰け反る伊予の目前で激しい火花を散らす。

「く、ぐゔぅ——ッ⁈」

 体制が悪く、槍に力を入れられない伊予。背後には逃げ遅れた人々が恐怖のあまり体を硬直させている。

 長くは持たない。

「お行きなさい‼︎ 早く——ッ⁈」

 瞬間、鈍い音が天地に轟いた。

 木材が斬り崩れる音と、何かが抉れる音。——そして、炭酸水を噴かしたような噴出音。

 正体は一目瞭然だった。

 伊予の持つ槍の朴の柄が赤尾の太刀にやぶれたのだ。

 そして、勢いに乗って駆け抜けたその刃が、あえなく彼女の胴体を斬り裂いた。

 噴き上がったのは、真っ赤な鮮血に他ならない。

 共に、柄の残骸さえ天宙を舞う。

 悲鳴が上がる。

 否、これはもはや断末魔と呼ぶべきだ。

 民衆の口から出たのは、およそ人間のものとは思えないほど野太い咆哮。

「——まだだッ‼︎」

 伊予の喉笛が火事場の最良を鳴らす。

 手元に残った螻蛄首を強く握り締め、彼女は大笹穂の刃を雄渾に撃ち放った。

 同じくして烈空する朱染めの太刀。

 互いに形容し難い不協和音を、天上へと手向けた。



 悪寒に駆られた原田は、報告を狭山に丸投げし、一人戦場へと舞い戻っていた。

 しかし、彼女が現着した時にはすでに、戦いは終結していた。

「————っ⁈」

 互いに胸部を貫かれた二つの人体。

 一つは赤尾隆輝。

 もう一つは——。

「……い、いよ……?」

 来島伊予の姿だった。



 痛いのは嫌い。辛いのも嫌い。

 だけど、人を痛ぶっておいて、自分だけは大丈夫だと思っているヤツが、ボクはもっと嫌いだった。

 思えば蘇る、体中に刻まれた傷の痛み。

 まるで記録されているかのように残留しては、時として痛み出す。

 髪の毛を引っ張られ、頬を殴られ、背中を踏みつけられ、骨を折られる。

 ボクが父から教わった事は、最も強い人間が他者を支配でき、自由になれるということ。

 そして、母代わりだった親戚のおばさん達から教わったことは、何もない。

 存在は否定され、尊厳は放棄される。それが、ボクの育った環境だった。だからボクは、独りで居ることを選んだんだ。

 誰かに触れて、だけと分かり合えなくて、傷つくことが怖かったから。


 だけど、いつからだろう。独りで居ることを恐れるようになったのは——。


 止まったままの時間が、いつしか動き始めた。

「——見つけましたよ、原田さん。毎度毎度懲りない方ですね、あなたは」

 伊予は、いつだってボクを見つけてくれた。嵐の中でさえも、それは変わらなかった。それがどうしてだか嬉しくて、もっと走り出したくなった。

「原田さん、日に日に足が速くなっていませんか? 数十分足らずで県境を跨いでしまうなんて、驚天動地もいいところですよ」

 どうしてかは——わからなかった。

 その意味に、もっと早く気づけていたなら——。



 令和二十四年。十一月二十二日。土曜日。

 秋の終わりが近づき、冬の寒さが訪れたばかりのころ。神聖組と五月雨、互いに死者を伴った最初の戦い〝水戸の戦乱〟が起こった。



 東京へ戻った原田達は、徳川菊家管轄のもと、増上寺にて来島伊予の葬儀を行った。

 元々、来島家は長らく徳川と縁のある家系だったらしく、神聖組の招集もあった事から是非とも徳川宗家が花を手向けたいと申したのだ。

 原田は、終始言葉を発することはなく、ただずっと無言で死化粧の掛けられた伊予を、空虚に見つめていた。

 副長である月岡愛鐘は、徳川宗家に礼を入れるため、菊家のもとを訪れた。

「本日は、来島さんの葬儀を準備していただいて、誠にありがとうございます。きっと、来島さんも光栄に思っていることでしょう」

「来島家は二百年前、幕臣として私たちに仕えておりました故、慶喜公よしのぶこうの敵前逃亡に際し、何かお詫び出来ればと常日頃から思っていた次第であります。まさかまた再び御国の為に御尽力頂けるとは、恐悦至極にございます」

 徳川慶喜の、鳥羽伏見における敵前逃亡か——。

 後ろから伏見玲依からのとてつもない怨念を感じるのは、きっと気のせいだろう。

 しばらく伊予の遺影を拝んでいた菊家の顔が、愛鐘の美貌へと傾く。

「御国のために御尽力頂いているのは、月岡さんも同じでしたね。聞くところによると、隊士を集めているとか——」

「ええ。五月雨の戦力は増加傾向にありますから——。神格化している者が居るとなれば、尚のこと、手練れの強者が必要です」

 果断でありながらも、どこか奥ゆかしく微笑む愛鐘。いつ見ても、この白銀の美貌は、鬼小町の名には相応しくないほど美しい。

 菊家は、愛鐘の解答を期待通りと言わんばかりに慢心を誇った。

「——では一人ご紹介致しましょう。巫女として御役職に務め、神様に仕える立場でありながら、剣術の才にも恵まれた〝御剣みつるぎの姫〟を——」



 〈水戸の戦乱〉以降、五月雨はしばらく目立った動きを見せなくなり、神聖組も、総勢五十名を越える隊士達を各部隊に分け、市中巡察による治安維持に務めた。

 しかし、それから間も無くしたころ。

 年が明けた、令和二十五年の元旦——。再び禍いが巻き起こった。

 中部地方に甚大な被害を齎らしたマグニチュード八点〇の大地震〈能登半島巨大地震〉の発生。震源の深さは十六キロメートル。最大震度は七。

 この間、政府は対策にごたつきを見せていた。

 災害の混乱に乗じた攘夷派の台頭を恐れていたからだ。

 若き自衛隊の隊員達はそんな無能な政府を待たずして独断で被災地へ急行。現場からの距離が近く、比較的被害が少なかった石川県・かほく市や金沢市に避難所を設置した。

「まだまだ沢山ありますので、ゆっくり、列を乱さないで‼︎ 順番にお並びください‼︎」

 自衛隊管轄のもと行われた炊き出しには、多くの被災者達がこぞって訪れた。

 しかし、まだ避難し切れていない者達も多く、自衛隊は被災地での救援部隊と避難所での支援部隊の二手に分かれていた。

「——にしても、下関での化け物たち、出ないといいですね」

「バカおまえ、滅多なこと言うもんじゃねぇよ。あれは政府が合成映像によるフェイクだと報道したんだ。もし真実であることが露見すれば、国民は海外へ逃げ、観光客は激減し、日本は軒並み衰退の一途を辿っていくからな。国民の税金を食い扶持に何不自由なく生活しているお偉方にとっちゃ、その顛末は不都合極まりないってもんよ。あんまり口が軽いようだと抹殺されるぞお前」

「けど、もっかいあのバケモノが現れたら、今度こそ隠し通すのは無理なんじゃ……」

「そのために神聖組が組織されたんだろ? 公にされねぇ暗躍組織であり、且つあの下関戦争を治めたヤツが何人か居るみてぇだしな。おそらくそういうこったろうよ」

 自衛隊員の脳裏に刻まれた、一年前の下関戦争。

 今回の〈能登半島巨大地震〉においても、同じことが起こるのではないかと懸念されていた。

 事実、今回の任務における救援部隊の立候補者は然程多くはなかった。みな、あの怪異、〝禍津神〟を警戒しているのだ。

「——何事もないといいな。あっちには訓練生時代からのヤツも居るからさ……」

 不思議なほど良く晴れた空を見上げ、仲間の無事を祈る隊員達。

 吹き付ける風は冷たく、冬の気配を一身に感じさせる。

「同じ空の下なのに、俺達に出来ることはたったこれだけだと思うと歯痒いよな。下関での子達みたいに、俺らにも特別な力があればいいのに——」

 胸懐に秘めた劣等感を打ち明ける隊員。

 己の無力さを悲観し、蒼穹に空想を思い描く彼の姿は、どこか儚かった。

 すると、一際体躯の良い男が、何やら巨大なダンボールを持ってやってくる。

「コレも大事なことだぞ。災害で財産を失った人達は大勢居るんだ。そんな彼らに食べる物を与えてやれるのは、俺達しか居ないだろ? 他にも色んな支援物資を送ってくれる他地方の方々や、募金に協力してくれる人たちもいる。同じ空の下、出来ることが違うからこそ、それぞれの主力を尽くして協力し合うんだろうが。〝個を敬い、繋を旨とする〟。個々の能力や特性を尊重しながら、互いに連繋することが大切だって、昔、オレの恩師が言ってたよ。それでも自分の非力さに憂うんなら、お前もこれ運べ」

「おも——ッ⁈」

 同じ空の下、皆んな必ずどこかで繋がっている。

 隊員は、この時わずかながらに、自身の仕事へ誇りを見出した。



 石川県・珠洲市——。

 飯田湾から押し寄せた津波によって、街のほぼ全てが壊滅した地域だ。

 町人のほとんどは山中へと逃げ延び、かろうじて津波からは逃れたが、土砂災害などの二次被害に遭い、残りの生存者も悉くが間引かれた。

 ことに、山岳が障壁となり、津波の被害を受けていなかった飯田小学校の児童数百名とその教員らは、学校に取り残されたまま校庭に蔓延る〝禍津神〟の脅威に瀕していた。

 昇降口には椅子や机が隙間なく積み上げられ、扉を完全に封鎖している。禍津神の侵入を拒むためのものだろう。

「な、何なんだよあのバケモノども‼︎ 下関のヤツはフェイクじゃなかったのか‼︎」

「あんなんで昇降口固めても時間の問題だろ‼︎ どうすんだよ‼︎」

「私たちが狼狽えていては、生徒達の不安を煽るだけだ‼︎ ともかく今は救援が来るまで生徒達の安全を第一に考え行動しよう‼︎」

 各教室に取り残された児童達を差し置いて、廊下で話し合う教員達。

 しかし等々、その均衡は崩壊を始めてしまった。

「——伝令‼︎ 昇降口が突破されました‼︎ バケモノ共が入って来ます‼︎」

 見張りをしていた体育教師が全速力で駆け上がってくると、血走った形相で告げてきた。

「なに⁈」

「すぐに生徒達を裏口から避難させろ‼︎ 山間道路を歩き飯田町をくだる‼︎」

「しかしその途中でバケモノに襲撃されては——‼︎」

「このままグズグズしていても袋の鼠だ‼︎ ならば少しでも生き延びる選択に賭けるしかないだろ‼︎」

 もはや一刻の猶予もない。

 階段を登ることさえ惜しまれる。

 教員らは渾身の雄叫びをあげ、各階の教室に籠る生徒達へ指示を出した。

「——西階段を利用して裏の非常口から避難します‼︎ すぐに移動を始めてください‼︎」

 禍津神の侵入はあえて隠した。報じれば、確実に混乱が起き、避難にとどこおりが出るからだ。

 生徒達は廊下側から聴こえた教員らの指示に従い、各クラスの学級委員を戦闘にして、移動を開始した。

 月に一回行われていた避難訓練の成果もあり、避難は順調に進んだ。

 何事もなく無事に非常口から外へと出ると、教員の誘導に従い、校長と副校長を先頭にして山間道路を降りていく。

「慌てず落ち着いて‼︎」

 無事に全ての生徒が脱出し、その後を残りの教員達がついて行く。言ってしまえば彼らは殿しんがりだ。いざという時、追ってくる禍津神から生徒を守るための盾となる。

 全てが順調に事が進んでいた。あまりの順調さに違和感を覚えるほど——。それに気が付いたのは、一人の女教師だった。

「——待ってください! 夏帆ちゃんが‼︎ 夏帆ちゃんを見ていません‼︎」

 夏帆——と言う生徒が、非常口から出てくる生徒達の中に含まれていなかったのだ。

「なんだって⁈」

「あの元気な子か……。そう言えば見てないな」

 この飯田小学校では一際目立つほどの明るい子だった。だからこそ、居ないことに気がついた。

「ワンチャン、他にも逃げ遅れている生徒が居るかも知れんな」

「どうしますか、教頭先生」

「いいだろう。校内へは私が戻る。君たちは生徒達と共に逃げなさい」



 校内——。

 静まり返った校舎を、一人の少女が徘徊していた。

「みんなどこ行っちゃったの……? ねぇ……‼︎」

 震えた声で、されど懸命に呼びかける少女。胸の名札には『夏帆』と名が打たれている。言わずもがな、逃げ遅れた生徒だ。

 彼女は意外にも賢く、もう既に校内には誰も居ないことを悟った。

 先に避難したのだろう——。

 昇降口のバリケードを破ったにしては避難が迅速すぎる。裏の非常口からか——。

 案の定、非常口が開放していた。

 内と外との境界を跨ぎ、一歩を踏み出した彼女を待っていたのは——。

「————ッ⁈」

 身の毛もよだつ怪物だった。

 直径にして二メートル近くはあるであろう巨大な口腔を開き、唾液に塗れたその牙で、出てきた少女を傍らから待ち伏せていた。

 少女は、その異質なほど白い巨躯に寸前で気付き振り向くも時既に遅し——。回避する猶予はおろか、恐怖する一時の須臾しゅゆさえ許されなかった。


 ——刹那、天頂から真っ白な彗星が落ちる。


 まさしく光の速度だった。

 傍らから忍び寄る怪異に気付いた少女がまばたき、声を上げる瞬間さえ待たぬ一閃。

 落下した光は少女を喰らわんとしていた異形を造作も無く穿ち抜き、地表に漂着した。

 異形の体液と衝撃による粉塵が際限なく溢れ出る中、ソレはゆっくりと姿を起こす。

 ——少女だ。それも、まだ十代半ばほどと見られる可憐な仙女。

 奥ゆかしく、非常に上品な佇まいをした王妃のような風貌だった。

 流水のように潤滑かつ高鮮度な黒髪は宇宙の如く広く底知れず、黒曜石の如く高濃度。されど実に雅やかで、彼女の小さな半身を丸々覆っている、さながら、奥に秘めたものを隠すように。

 飾り毛のない自然な前髪の下に麗らかな赤い眼孔を宿し、伸びるまつ毛は高らかに天を仰ぐ。

 前頭部に飾られた純白のカチューシャが、童心的な女性らしさを感じさせ、愛らしい。

 服装は、何処ぞのお嬢様学校のような制服だ。

 正絹で織り込まれた黒の膝丈セーラーワンピースで、胸元に飾られたタイの色は白い。腰には伸縮性のあるベルトが備え付けられており、ここには大小揃えの刀が差されていた。大刀の方は既に抜かれており、彼女はそれで異形を貫いたのだ。

 少女は、今や骸となった怪物から、その突き刺さった刀をゆっくりと抜く。

 刀——日本刀だ。

 刃長二尺四寸五分五厘。身幅一寸一分。反り七分九厘の鎬造の庵棟。

 黒く艶やかな地鉄は明るく冴え、総じて詰んだ板目肌が誠に精緻な姿を浮かべている。

 豊富な地沸に恵まれ、随所に杢目が交じり、太々しい地景と金筋もわずかに粟立つ。

 白く、匂口が瞭然と冴え渡った刃には瓢箪刃ひょうたんばと呼ばれる刃文が敷かれ、大小の互の目が一組になった模様を焼いている。

 帽子はやや湾たれ、小丸に返っている。

 銘は『長曾祢興里入道乕徹ながそねおきさとにゅうどうこてつ』——。

 はばきに刻印された三つ葉葵の紋章が一際鮮やかに光る。これは徳川家に伝わる由緒正しき称号であり、徳川家の嫡子、乃而ないし、彼らに認められ直々に拝命を受けた者のみが刻むことを許された特別なものだ。それを有しているということは、この女の身分は只者ではない。

 彼女は異形に突き刺していたその大それた刀を抜き、鞘へと納める。

「——ごめんなさいね。驚かせてしまったかしら」

 骸から降りると、連動して、艶麗な黒髪がベールのようにたなびいた。

 華麗な着地を見せ、その足で夏帆と名の付いた少女へと歩み寄る。

 夏帆は警戒しない。何せ、迎える少女の出で立ちがあまりにもお淑やかだったからだ。

 一般的なごく普通の小学生女児が、本能的に味方であると認識出来てしまう程の気品が、女にはあった。

 間合いまで詰め寄ると、彼女はスカートの裾を抑えて屈み込み、夏帆と目線を合わせる。

「あなた一人だけ? お友達や先生、保護者の方とは一緒じゃないの?」

「……………」

 夏帆は首を縦に振った。

「お姉ちゃん誰? 下関の人?」

 ——あ、知ってるんだ、あの事件。

 まぁ今は小学生でもSNSを見るほどの情報社会だし、当然か——。

「いいえ、下関の件はまた別の子達なの。わたくしは政府の要請を承けてあなた達を助けに来た御役人よ」

 言いながら、少女の様相を観察する。

 目立った外傷は無し。靴は上履きのままでソレほど汚れていない。

「(大方、山岳に囲まれていたこの学校で取り残されていたのね。他の生徒達は先に避難したのかしら——)」

 女は再び視線を合わせ、怪訝そうに見つめてくる夏帆へ穏やかに微笑んだ。

「一人で怖かったわよね。頑張ったわね」

 そう言って頭を撫でると、夏帆はわずかに頬に熱を灯した。


 令和二十五年一月三日。

 神聖組は副長・月岡愛鐘を主体とし、壱番隊と弍番隊の精鋭を能登半島巨大地震に派遣。

 壱番隊の隊士・乙宗おとむね ゆかりよって、飯田小学校の児童六八四名が救助された。

 

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