第15話 泥の中の独善


   第十四節 泥の中の独善



 世界は、日本人が優しいと言うけれど、——決してそんな事はない。

 自分達よりもひいでている存在や、知り得る習慣世界から異なハズれるものを決して認めず、容易に叩き伏せる。それが日本の実態だ。

 全体主義者である彼ら日本人の長所は、連帯性に富み、風紀と秩序が優れていること。

 短所は、——一人では何も出来ない弱さだ。


 この国には〝出る杭は打たれる〟なんて言葉があり、皆これを恐れる。


 ——私も、その一人だった。




 伏見玲依は、高知県高知市で生まれ育った。

 両親が歴史学者である玲依は、その影響から様々な文学に触れ、学識を着けていった。

 まだ幼かった彼女は言うまでもなく幼稚であり、得た知識を周囲に自慢して回るような子だった。

 小学生の頃、生徒達が初めて給食の配膳をする事になると、先生が事細かに食材の扱いを教えてくれた。

「お米はね、縦に切れ目を入れるように混ぜないと、固くなっちゃうんだよ。日本人なら知っておこうね」

 しかし、教える先生や聴いていた同級生たちに対して、玲依は一々深掘り加えなければ気が済まなかった。

「お米は日本の主食ってよく言うけど、弥生時代に中国からやって来た水稲農業の文化がなければ、そもそも麦を収穫するなんて習慣さえ生まれなかったんだよ」

 莞爾かんじと笑い、蘊蓄うんちくを語ってはえつに浸った。

「——あ、これ違うよ。作文で話題が変わる時は、段落を一つ落とすんだよ」

 わざわざ授業中に隣人へ釘を刺したりもした。

 時にはクイズ形式で——。

 下校途中、突拍子もなく道端にある塵芥ちりあくたを指差した。

「これな〜んだ! 元素記号でお答えください!」

 見たところ、酸化した何かだと思われたが、一小学生の目にはただの塵にしか見えない。

 行動を共にしていた同級生は皆同じくして眉根を寄せた。

「……え、ただのゴミじゃん……」

「ノンノン! これはFeO——酸化鉄だよ! もしかして知らなかった?」

 これを前にして、皆はどう感じるだろうか——。

 少なくとも、ここに居た子達にとっては不快だった。

 あくる日もあくる日も、玲依は知らず知らずのうちに人を遠ざけていった。

 そしてある日——。

「これなんて読むかわかる?」

 差し出されのは〝強ち〟と書かれたノートの一項。

 大人でも頭を悩ませる難題を前に、子供の頭が働くはずもなく——。

 自身の有識をひけらかしてくる態度に等々いきどおりを隠せなくなった隣人は——。

「おまえいい加減ウザいわ。なに、俺らのこと何も知らねぇアホだってバカにしてんの?」

 当然だが、玲依に悪意はなかった。


 ただ新しく覚えたことを誰かに話したくて——。


「い、いやちが……そうじゃなくて——」


 驚いてもらいたくて——。


「いや違くねぇだろ。自分の知っている物が珍しいことで、自慢したいからそうやってんだろ? それって俺らが知らないことを前提にしないと成り立たねぇ欲求だろ」


 自分と同じように、新しいことを知る喜びを共有したくて——。


「伏見さんさぁ……そういうの、やめた方がいいよ? 友達いなくなるから」


 言う通りだった。


 気がつけば、周りからは誰一人、玲依に近づこうとする人は居なかった。

 それどころか——。


「………なにこれ………」

「なにって、伏見さんが大好きな酸化鉄でしょ? 伏見さんのためにって、皆んな必死になって集めてくれたんだよ?」


 机の上に散らばっていたのは、どこからどう見ても、ただの泥と石ガラクタの山だった。


 以来、伏見玲依は、暗闇に閉じこもるようになった。

 日向を歩けばさじを投げられる。

 人と関われば、また無意識に他者をおとしめてしまう。

 だからこそ、外部との関係を遮断した。


 気がつけば、髪の毛が鬱陶しくなり始めた。

 けれど美容室に行く勇気さえ持てなかった。

 それに、もう人と目を合わせることさえ怖い。

 水気を失い乾燥してしまった紺色の髪は、やがて無作為に延び悩んでいった。

 その酷さは、自分で見ても容易に解る。

 自力で散髪を行ったせいで、不規則かつ不揃いな、ひっちゃかめっちゃかの醜い頭へと変貌し、左の目を覆った姿は極めて陰鬱。

 加えて目つきも最悪。

 やや上向きに横一文字を刻んだ目蓋は穏やかさもへったくれもない。

 無駄に多くて長いまつの毛束がより一層、醜悪な目を形造った。

「………………」

 だが気にする必要はない。

 どうせもう人前には出ないのだから。

 玲依はカーテンを閉め切り、一人暗黒の世界へと身を投じた。



 ある時、通知表を受け取ることを口実に、母親と共に学校へと呼び出された。

 歴史学者——もとい冒険家の親は世界を飛び回ってばかりだが、夏の時期は一度帰ってくる。学校側もこれを把握していたのだろう。

「——しばらく登校しておられませんでしたので、形だけの通知表ですが、はい——」

 パーカーの頭巾ずきんで深々と頭を覆い、醜いその姿を隠蔽した玲依。通知表を受け取ると、やはり目は合わせずに、軽く会釈した。

 担任は一度困ったように苦笑すると、視線を母へと移す。

「えっと、お母様。単刀直入に伺いますが、玲依ちゃんを復帰させるおつもりは——」

「玲依が行きたくないと言っているんですから、ありませんよ? そんなもの……」

 即答だった。

 これまで、世界中のあらゆる歴史と文化をその足で踏み荒らしてきた彼女——。元より一般的な価値観など望むべくもない。

 どこにも属さず、修学した歴史のことごとくを本に書き記すだけの彼女の世界は、集団活動や協調性など無用の長物だった。

 学識は今の玲依を見れば一目瞭然。学校に通わずとも身につく。

 母の中には、学校という教育制度に、子供の成長を依存させる道理は全くなかったのだ。

 しかし、教員といえど立場がある。

 事実として伏見玲依が当学園の在籍下にある以上、登校させるのが彼女の仕事。

「で、ですが、それではこれから先の進学に影響が出てしまいます」

「とおっしゃられましても、そこで人間関係が上手くいかず仕舞いでは、いずれにせよ内申書の中身は真っ赤になりますよね?」

「それでしたら、何も此処で受講する必要はありません。玲依ちゃんには玲依ちゃん用の個人クラスを用意させていただきます」

「なら学習塾でよくありません? 最近流行ってますよね! 〝授業をしない塾〟!」

「ぐ、ぐぬぬ……」

 話を聴いていて玲依は思った。

 世の中、本当にご都合主義なのだと。

 進学には学力が必要不可欠。

 けれど此処には、今の玲依の学識を許容できるほどの人材が居ない。あまつさえ彼らは玲依へ匙を投げる始末だ。

 さて、ここで最初に話を戻そう。

 日本人が優しいと言われている件についてだ。

 そんなわけあるか。

 日の本の国なんて言っていても、所詮は口先だけのハリボテだ。

 実際は光を疎み、陰で編み張り、どんな過程であれ、その領域を脅かそうとする者へは一斉に針を刺す。——獰猛な蜂のような存在だ。

 玲依はよわい十歳にして、この事実に気がついた。

 息苦しさを覚える玲依。

 母はそんな彼女の頭を優しく撫でた。

「——玲依はもう帰りなさい。あとはお母さんと先生で話をします」

「は——? ちょっ……そんな勝手に——‼︎」

「いや、だって玲依の返答は決まっているんですよ? それなら、あとは親権者である私と先生のお話ではなくて?」

「ゔぅ……っ」

 この人議論に弱いな。

 大学を出て、社会経験もなくすぐに教師になった人はこんなものか——。

 担任に対する落胆をわずかに抱き、玲依は教室をあとにした。


 そして——。


「ほらほら‼︎ これで少しはマシになっただろ‼︎」

 裏庭から、何やら賑やかな声が聴こえてきた。

 生徒——?

 とっくに下校時刻は過ぎているはずだが、まだ残っていたのか。

 つい気になってしまった玲依は、物陰からその様子を覗き見た。


 ——それは、凄まじいほどに胸糞悪かった。


「あっははは‼︎ こりゃ傑作だ‼︎ あんなに肌白いと、俺たちも心配だったんだよ……。病弱すぎてぶっ倒れちまうんじゃねぇかってな‼︎ はっははは‼︎」

「ちょっとアンタ達www。これやりすぎだってwww‼︎」

 心底楽しそうに笑い転がる彼らの一方には、泥だらけになった一人の女の子が居た。

「————っ⁈」

 背が高い——本来の印象がそれしか伝わらぬほどの酷い惨状だった。

 笑う者達は幾重にも写真を撮っては、更なる泥を少女に浴びせた。

 少女は、成されるままでやり返そうとはしなかった。

 助けるべきだった。それが正しい行いだった。

 けれど、この国には、正義が悪というはなはだふざけた矛盾が存在する。

 玲依は、出るに出られなかった。

 怖かった。

 彼らの矛先が自分に向くかも知れないと、恐れてしまった。

 物陰で息を殺し、やがて玲依は逃げ出した。



 翌朝、目が覚めて早々に、玲依の頭には昨日の出来事が閃光した。

 見て見ぬふりをした自分に、劣等感と、罪悪感を覚える。

 しきりに凍りついていく体。初夏の暑さを忘れるほど寒かった。

 それでも、自分には関係ないと胸の内で言い聞かせて、——何故だか足先は、散々嫌悪していた学校へと向かってしまった。

 無論、授業を受けようなどとは思っていない。

 ただ昨日のあの出来事が、玲依の中では心残りだった。

 少しだけ、少しだけと、あの背の高い女の子の様子を覗きにいった。

 極力人目を避けようと、生徒達の死角に住まい、女の子の影を探した。

「——あ、」

 多分あの人だ。と、見つけた先はなんと玲依のクラスだった。 

 とても背が高いのに、肩幅や身丈はしっかりと女性らしく華奢な肢体。

 薄紅色のゆるふわセミロングヘアに、左側頭部でお団子を編み込んだ実に華やかな髪型。

 大きく凛然とした瞳は青々しく澄み、さながら、グレートバリアリーフを彷彿とさせる見事なまでのエメラルドグリーンだった。

 外国人なのだろうか、鼻はやや高いが、他諸国の人種と比べると、比較的控えめ。

 雪化粧の肌は極めて精緻で細やか。昨日彼らが言っていた通り、確かに少々儚い印象を受ける。

 彼女が美人か否かは、日本人である我らの知るところではないが、少なくとも玲依には、彼女の姿はとても眩しく見えた。

「……きれい……」

 身に覚えのない顔を気にする事すら忘れ、感嘆してしまうほどだった。

 何より、薄く艶やかな薄紅色の髪と吸い込まれるような絶海の瞳は、この天下にはない代物だ。

 ——一通り、玲依は彼女をストーキング——もとい調査した。

 結論からして、事態はかなり深刻だ。

 まず、少女がトイレに入るや否や、頭上から水をぶっかけられ、給食の際には消しゴムのカスやらホコリやらを膳部に撒かれる。

 掃除を始めれば牛乳を染み込ませた雑巾が「あ、手が滑った〜(棒)」とかいうわざとらしい叫びと共に放り投げられ、下校時には外履きが消滅していた。

 明らかなまでのイジメである。

 いや、それは前日の泥を見れば理解できた事だが、ここまで大々的に行われているとは予想外だった。

 なぜ教師は注意しないのだろうか——。

 欲を言えば、助けてあげたいと思った。

 けれど、玲依にあれを抑圧できるほどの力なんてあるはずもなく——。彼女はずっと、見て見ぬふりを続けた。


 だからこそ、目前の醜悪から目を背けてしまった自分への贖罪しょくざいが欲しかった。


 夏休みも間近となった頃、玲依は初めて、泥まみれの彼女に手を差し出した。

「……だ、だいじょうぶ……?」

 もちろん、事が済んだあとの臨場。自分でも卑怯だと己を恥じた。

 だけど、しか、彼女に寄り添ってあげる事ができなかった。

 どうせもうこの学校に通うことはない。

 卒業まで待って、中学も家で大人しく引きこもろう。

 玲依は突然、散らばった泥を一身にかぶり始めた。

「えっ——⁈ な、何してるのっ——⁈」

 半ば恐怖にも似た感情で困惑する少女を置き去りに、玲依は自身のクラスへとフルダイブ。辺り一面に泥をばら撒き、汚し、穢し、思う存分めちゃくちゃにしてやった。

 もちろん、言うまでもないだろうが、百二十パーセント八つ当たりだ。

 理不尽な世の中。

 矛盾にまみれた現代社会。

 されど彼らと何一つ違わなかった自分への劣等感や罪悪感、さらには自己嫌悪の悉くを泥水に乗せてぶつけた。

 終いにはゴミ箱や黒板消しクリーナーの中身を余さずばら撒いてやった。

 あとは逃げる。

 全力で逃げる。

 この日は、玲依が生きてきた十年間で最も速く走った日になったことだろう。

 逃亡中、大層愉快な笑い声が後ろから響いてきた。

 誰であろう——イジメられていた少女である。

「あっはははははははははっ‼︎ やっちゃったねぇキミ! スゴかったよ‼︎」

 数週間にわたって観察したりしなかったりを続けてきたが、笑う顔は初めて見た。

 やはり綺麗だ。

 校門を通り抜け、ある程度学校から距離を取ると、鏡川かがみがわを真下に望む橋の上で止まった。向かう遥か先には、浦戸湾と土佐湾がある。

 息も切れ、肩が激しく上下する中、それでも少女は絶えず笑っていた。

「あはははははははっ‼︎ どうしてあんなことしたの? なんか恨みでもあったの?」

 涙目になりながら、前方に望む玲依へと問いかける少女。

 ——笑いすぎだ。

 玲依は、振り向かなかった。

「……まぁ……あったような……なかったような……」

 復讐といえば聞こえはいいかも知れない。

 だけど、別に特定の個人に恨みがあったわけではないのだ。

 自身の置かれた環境に納得できない風習があって、ならわしがあった。それだけなのだ。

 少女はようやく落ち着きを取り戻したのか、爆笑の域だった笑顔を穏やかに和らげる。

「——助けようとしてくれたの?」

「………………………」

 分からない。

 助けたいとは思った。

 けれど、いざとなって救う術を持たなかった自分の非力さや罪悪感の方が数段強くて、あがないたかった。だからこれは救済ではないだろう。

「……ちが——」

 否定しようと口を開きかけた時だった。

 大きいながらもしなやかな肢体が、背面から優しく覆い被さってきた。

「————っ⁈」

 泥に塗れた二人の体が深々と密着し、前後から重なり合う。

 泥だらけなのに、どういうわけか鼻腔をくすぐる甘い香り。

 やはりこの子は、——綺麗だ。

「——ありがとう!」

 玲依の語りを待たずして、玲依を肯定した初めての言葉。

 くゆり切っていた彼女の瞳が、わずかに潤んで光を宿した。

 どうしてだか切なくて——。

 けれどどこか嬉しくて——。

 交錯する感情に懊悩する中、今はまだ見えぬ彼方の水平線を望み、玲依は少女の体温に身を預ける。

 不思議だった。

 決して裁かれる事のない罪の下で虐げられながら、どうして彼女はこうも暖かいのか。

 自ら泥を被った玲依には、理解できない温もりだった。


 けれど、彼女は私の存在を初めて祝福してくれた人——。


 この時の玲依にとっては、ただその事実だけで充分だった。


「——ワタシ、エマ・イキシア・フォン・フランベルジュ! アナタは?」

「……れい……伏見玲依……。あ、あの……フランベルジュって……スゴい名前だね……。ホントにファミリーネームなの……?」

「うんっ! 日本の人も、色んなものから名前を付けるでしょ? それとおんなじだよ! これからよろしくねっ! 玲依!」

 大輪の花のように、朗らかな笑みを浮かべるエマ。彼女の笑顔には、こちらの頬すらも緩めてしまうほどの不思議な魔力があった。

 まるで、氷河を溶かす、炎のような——。

 豊潤で、甘美な、雪解けの温度。

 抱き止められた手を、玲依は半ばすがるように握った。

「——う、うん……わ、私の方こそ……。不束者ですが………——」


 これが、二人の出逢い。


 以来、彼女たちは一緒に居ることが増えた。——いや、むしろ一緒に居ないことの方が珍しくなるほどだった。

 どこへ行くにも二人一緒。

 眠りにつく時でさえ、離れることはなかった。

 最初は玲依の我儘わがままだった。

「——え、エマ……! ……そ、その……よかったら、泊まっていかない……?」

 両親は世界を横断するような風来坊。ゆえに、いつも家には玲依一人。

 寂しくないと言えば嘘になるが、次第に慣れてきたのもまた事実だ。

 自室にこもってネットサーフィンやらゲームやらに没頭していれば、孤独を埋めることは容易だった。

 だけど、いざ唯一無二の存在が出来ると、片時でさえ離れることが嫌になってしまった。

 ——だって、それしかないのだから。

 エマは、いつもこころよく受け入れてくれた。

「——えっへへ! いいよ!」

 無論、こちらから引き留めてしまった以上、夕食は玲依がご馳走した。

「——あ、あの……お口に合えば……いいんだけど……」

 お手前に出されたのは、なんとも血色豊かに艶めく詳細不明の魚料理。

 もちろんエマは驚いた。

 まさか玲依が料理を振る舞ってくれるとは思わなかったからだ。

「こ、これは……?」

 だが初めて見る料理だったゆえ、驚きと同時に半ば困惑もした。

 白米と味噌汁は解る。漬物も——。

 何枚かに分かれて並べられた魚の切り身だけが謎だった。

 玲依は視線を泳がせながら、いぶかしげになるエマへ応じる。

「……か、カツオのたたき……。……高知の名物で……その……ごめんなさい。やっぱ、会ったばっかのこんな小汚い女の出した物なんて——」

「へぇ〜そうなんだあ‼︎ ワタシ高知県こっちに来てまだ日が浅くて……知らなかったなあ‼︎ それにしてもスゴいね! 玲依、魚捌けるんだ!」

 言いながら、おもむろに切り身を食すエマ。瞬間、彼女の目が燦々と煌めき、頬の色が真っ赤な桜桃を実らせた。

「おいしい〜っ‼︎ え、スゴいねっ‼︎ 玲依って料理上手なんだあ‼︎ ——というかこれ、お店開けるんじゃない⁈ 今まで食べたどの料理より美味しいよ⁈」

 賞賛と共に全自動で進んでいくエマの箸。この時の彼女は知らないだろう。その言葉を受けて、玲依がどんな気持ちで、どんな表情をしていたのか——。

 ——泣いたのだ。

 なにせ、誰からも愛を受けて来なかった玲依が、形はどうあれ初めて誰かに認められたのだから。

 無愛ゆえの孤独から自身を生かすために仕方なくつちかった技術が、こうして初めて意義を成している。

 しかも——。

「味噌汁も美味しいっ! 仄かにトマトの風味がする? さっぱりしててジメついた夏にピッタシだねっ!」

 こんなにも喜んでくれるとは思わなかった。

 掘り起こされた孤独が今になって窒息に近い苦しみを伴い、されど同じくして溢れ出す目前の最美が、氷結した玲依の心に花を咲かせた。

 相容れぬ二つの感情が激しく入り乱れ、渦を巻くと、やがて耐え切れなくなった肉体は泣き出して嘆きをあげた。

 玲依は、人知れずこぼれた涙を拭い取る。

 依然として橋を進めていたエマの顔が一足遅く、振り向いた。

「玲依は食べないの?」

「……うん。食べる……」

「ねぇねぇ! 他にはどんなの作れるの?」

「……え、えっと……ほ、他は、一般的な家庭料理しか作れないし……じ、自身を持って出せるのは、土佐料理くらい……だよ……」

「それでもスゴいよ‼︎ ワタシ、料理はからっきしだから、あっはは……。だからこんなこと言うのは、少し不純かも知れないけど——ワタシ、玲依の料理なら毎日食べたい!」

 不用意な発言に、玲依の顔は真っ赤に染まった。

 それはもう見事なまでの林檎色であり、片目が覆われている優位性を軽くあしらってしまうほどの紅潮具合だった。

 捉え方は人それぞれだろう。

 しかし、玲依のこの反応を見る限り、少なくとも彼女はエマが意図した事とは異なった意味で解釈を起こしてしまったようだ。

 思わぬ誤解に、迎えるエマも自身の発言を強く恥じた。

「〜〜〜〜〜〜っっ⁈ ち、ちちち違くて……っ‼︎ 他意はないの……っ‼︎ ごめんね! 変なこと言っちゃって……」

「……う、ううん……わ、私の方こそ……」

 気まずい——。

 変な空気が漂っている。

 けれど——。

「…………………」

 見上げた先の薄紅色の美貌は、満開の花霞のように美しかった。

 不思議と、居心地はすごく良い。

 いつもよりも、箸が達者に進んだ。

 ずっと独りで、永久凍土だった世界が、エマの暖かい言葉で色づいていくのを感じる。

「——りょ、料理は、昔から好きなの?」

「……好き、なのかな……。これくらいしかする事なかったし……食べるためにも……、やるしかなくて……」

「お父さんやお母さんは作ってくれないの?」

「……親、冒険家で……いつも家にいないの……」

「あぁ〜、どうりで……」

 昔はよく、立派な日本家屋だね。と伏見家は褒められた。

 だけどいざ戸を開けてみれば、人の気配は全くない。

 どこもかしこも薄暗くて、寂れた——幽霊屋敷。エマの言葉はそれを所以としたのだ。

「……じゃあ、お友達とか呼び放題だねっ! お泊まりとか!」

 一般的な、子供ならではの企みを口にするエマ。

 だけど玲依には、そんな相手……望むべくもない。

 なんと返したら良いのか分からず終いだった玲依は、持っていたお茶碗を置き、

「……そうだね」

 と、淡白に返した。

 きっとこの時間も泡沫の夢に終わるんだ——そう思っていた玲依。

 しかし——。

「……なにかあったの?」

 されどエマは、玲依に関心を寄せた。

 何の得にもならないだろうに、なぜか——。

 玲依は心ではシラを切るつもりだった。

 でも、きっとどこかで期待していた。

 エマなら、こんな私でも愛してくれるのではないかと——。

 だから思いとは裏腹に、口先からは卑屈がこぼれ出てしまった。

「……い、いや……私には、そんな相手いないから……普通ならそうなんだねって——」

「ど、どうして?」

 咲き誇っていた薄紅色が、瞬く間に散った。

 彼女から笑顔を奪うつもりなどなかった。

 だけど、もしかしたらと——玲依は身勝手な救済にすがってしまった。

 彼女は、自身が孤立した原因を全て明かした。

 自身の優位性を自慢し、無自覚に他者をおとしめてしまった醜悪。

 今までの人間なら、彼らに同情するのが一般的だ。

 だがエマは——。

「——なら、ワタシが沢山聴いてあげる! ううん! 聴きたい! ワタシ親の影響で、この国で育ちながら、この国の習慣に馴染みなくてさ……。でも——っ‼︎ アナタとなら、色々なことを知れると思うの‼︎ そしたら、此処の人たちとも分かり合える日が来るかも知れないよねっ!」

 なんて純粋無垢な綺麗な目なのだろう。

 あれだけしいたげられておきながら、エマは彼らの生業なりわいを拾い上げようとしている。

 そして——。

「だからまたいつでも呼んでね? ワタシのこと! 玲依の話、まだまだ聞きたい!」

 ——以来、玲依は食事の際、二人分の御膳を用意する事が増えた。——と言うか、常に誰か来るあてがなくとも二人分用意した。

 エマを呼ぼうか呼ぶまいか迷いながら作っている内に二人前を用意してしまい、しかしいざとなってみると呼ぶ勇気が持てなくて——、玲依は懊悩した。

 胸の内でのたうち回る感情が何であるのか、玲依には皆目見当もつかなかった。

 ただ、エマのことを考えると不思議と体が熱くなって、気分が少し高揚した。

 けれどいざ会おうとすると躊躇いが生まれる。

 こちらから求めていると思われるのが恥ずかしくて——。

 知っていくうちに垣間見える悪性が怖くて——。

 そんなことをしていたら——。

「——もうっ! いつでも呼んでって言ったじゃん! それなのに玲依ってば、全然連絡くらないんだもんっ! ——って、あれ? なんかすごくいい匂いするね!」

「……ちょ、ちょうどエマが来るかなって、思ってて……ご飯、作ってた……」

「スゴい千里眼だねっ!」

 手の込んだ料理なんてする事なかったのに——。

 得意だった土佐料理も、カツオのたたきしか興味なかったのに——。

 エマに振る舞おうと考えたら、他の料理も作ってみたくなって——。

 家庭料理ではまず絶対に出さないはずの皿鉢を出したり。

 うつぼの刺身や、冬には軍鶏鍋ぐんけいなべを二人で囲んだりもした。

 この際、自分の料理の程度はどうでも良かった。

 ただエマが喜んでくれるものを作られれば、それでよかった。

 料理の楽しさも、食卓を囲む幸せも、全部エマが教えてくれたから——。



 どうかこのひと時が、ずっと続きますように——。



『——斎場誠司首相と。麻倉宗一郎副総裁を暗殺した青年——唐沢癒雨。彼が斬奸状にて残した〝草莽崛起そうもうくっき〟に応えた者達が立ち上がり、日本各地で攘夷運動が多発しております。標的となっているのは在日する外国人の方々であるため、観光客を含めた、外国人国籍の方々には不要普及の外出は控えるようお願い致します』



 ——細やかな私の願いは、唐沢癒雨の台頭によって呆気なく斬り裂かれた。


「攘夷〜‼︎ 攘夷〜‼︎ 我が国をむしばむ外夷は排除すべし‼︎ 国民の主権を取り戻せぇ‼︎ これ以上我らの食い扶持を踏み荒らすなぁ‼︎」

 いくら日本生まれ日本育ちと言っても、両親がスイス人であり、その血筋を純潔に受け継いでいたエマは、当然ながら攘夷の被害に遭うことが多かった。

 石を投げられ——。

「出てけ異人‼︎」

 罵声を浴びせられ——。

「能面みてぇな白い面しやがって‼︎ 失せろ白人‼︎」

 酷い時には川に落とされたりもした。

「あ、すんませぇ〜ん。あまりにも図体がデカかったんで避けきれなくて——」

 それでも、私はあの時と同じ——エマを助けようとはしなかった。

 ——非国民。

 ——裏切り者。

 ——売国主義者。

 そんな怒号と共に、自分が攘夷の対象になる事が容易に想像出来たからだ。

 結局、合わせる顔もなく私はエマを遠ざけ、——やがて被災した。

 高知県は余さず全て洗い流された。

 生き延びた私は地元の人たちと共に歩いて山口県へと出立。

 しきりに、薄紅色の香りが鼻の奥にちらついた。

 自分から見限ったくせに、一丁前に彼女の無事を期待している自分のよこしまが酷く嫌だった。

 けれどなんの因果か——。

 あるいは、神様の悪戯いたずらなのか——。

 私は山口の被災地で彼女と再会した。

「——玲依⁈」

 甘く色づいた声が現実に聴こえた瞬間、私の体は強い拒絶反応を起こした。

 彼女にではない。

 ——私自身にだ。

 顔を見るのも、姿を一瞥いちべつするのも恐ろしかった。だって見てしまえば、ただでさえ醜い私が、より一層自分自身の生存を許せなくなってしまうから。

 だけど、逃げ出す私を、彼女は——。

「——よかったぁっ‼︎ 無事だったんだねっ‼︎」

 ——抱き留めたのだ。

 心の底から安心したように、強く、固く——。

 勝手に見捨てて、勝手に離れていった私の体を、また——。

「ほんとに、よかった——」

 震えていた彼女の声と体——見れば、攘夷の被害であろうあざがいくつも確認できた。

 だけど、彼女はそんな痛ましい体でさえ、いたわろうとはせず、頑なに私を抱いた。

「……え、えま……」

 勇気を出して見据えた絶海の瞳は、いた瑞々みずみずしくうるおっていた。満足そうな笑顔の上で。

 だからこそ込み上げてくる罪悪感。内側から霜を張っていく劣等感と混濁し、私の心を、真っ青な寒波が壊死させていく。

「………ごめん……ごめんなさい………わたし、わたしはエマを遠ざけてたのに……っ!」

 自分は痛いことも苦しいことも恐れてエマを見放したのに、エマは傷だらけの体でも尚、他者である私の体を労った。そのエマの勇敢な良心に、私は自身の醜さを強く呪った。

 それでも——。

「——そっか。ずっと悩んで、考えてくれてたんだね、ワタシのこと」

 いつだって彼女は、泥に塗れた私を許してくれる。

 どんな時も、私の罪を正義にしてくれる。

「——ワタシ、玲依のそんな優しさが大好きだよ。いつまでも、ずっと——」

「……ちが、違うの……ただ、怖くて……、私は……私が傷つくのが怖くて……」

「普通のことだよ。だからなんにも悔やむ必要はない。たとえそれが罪なんだとしても、ずぅ〜っとワタシのために悩んで苦しんだなら、裁くのはワタシでしょ? ならワタシが決めるよ。——玲依は、たっくさん頑張ったよ! だからなんにも悪くない!」

「……ごめん……ごめんなさい……っ‼︎」


 ——この時、私は誓った。


 もう自分を尊ぶことはしない。

 私利私欲に生きることはやめる。

 利己的な感情も全て捨てる。


 ——私は、エマの幸せの為だけに、この命を燃やす。


 ——たとえ他の何をないがしろにしても、エマが生きやすい世界を創りたい‼︎

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