第13話 暗転


   第十二節 暗転



 ——白河東湖は幼い頃、武士に憧れていた。

 決して揺るぐことのない信念を貫き通し、国のために本当に命を懸けて戦った彼らを、心から尊敬した。

 だけど、いざ大人になって社会に出てみると、現世そこにかつての誠実さは無かった。ほぼ全ての人間が、己が私利私欲のために生き、その為だったら平気で人をあざむいた。

 ——彼らのようにはなりたくない。そう心に誓い、武道を学んだ。

 清き良き大和魂を——。

 誠に進む武士道を——。

 白河東湖は、日本人としての清らかさに全てを求めた。

 やがて免許を皆伝し、今度は自身が師範を務めるようになった。

「それでは皆さん! 稽古を始めますよ!」

 門下生は三十人。そのほとんどがまだ年端も行かない子供ばかり。

 稽古が終わると、時には門徒の勉強に付き添ったりもした。

「白河先生! 今度学校でテストがあるんだけど、ボクどうしても算数が苦手で……」

「じゃあ、一緒にやってみようか」

 次世代社会の完成度は、その担い手を育てた自分達の責任だ。白河はそう考えていた。だから自然と、教育には積極的だった。

 しかしある時——。

「(……そら君、遅いな……。今まで遅刻なんてしなかったのに……)」

 彼方の弟子を思い見上げた空は、灰色の分厚い幕が張っていた。

 しきりに地面を打ち付ける雨音。

 電車が遅延でもしているのだろうか——。

 電話をしてみたが、当然ながら留守電。

 家の方に連絡してみると——。

『え、もう随分前に家を出てるはずですけど……』

 保護者はそう言った。

 一中学生がどこかで遊ぶお金など持っているはずもないだろうし、かと言って外は雨——。

 そんな時、一通の着信が入った。

『——あの、撃剣道場〝白明館〟の師範、白河東湖先生ですか?』

「……え、ええ、はい。いかにも……」

『申し遅れました。わたくしは諸川しょかわ警察署の鈴木と言います。お宅の門徒さんが川沿いで居合刀の素振りをしていたと言うことで、一般の方から通報が入りまして、大変恐縮なのですが、師範である白河先生には、こういったことがないよう、生徒さんにしっかりとした注意喚起をしてもらいたいんですよ。真剣じゃないとはいえ、やはり物が物なので——』

「では、今そらはそちらに居るんですね?」

『ええ、お預かりしておりますが——』

「迎えに行きます」

 電話を切り、既に集合している門徒達には、今日は帰るよう告げた。

「すまない皆んな。今日はもう帰りなさい。ちょっと問題が起きた。また今度、振り替え稽古を設ける。親御さんにはこちらから連絡しておくので、安心していいよ」

 そうして、白河は道場を後にした。

 外に出てみると、雨はそれほど強くはなかった。

 小降りといえば小降りだが、雨粒の大きさはやや大きい。

 幕を垂らす雨だれを駆け抜け、白河は警察署へと到着した。

「——白河東湖です。春野そら君の師範で——」

「お待ちしておりました。こちらです!」

 そらは取調室に居た。

 彼以外に、中には生活安全課の警察官が二人。事情聴取を終えたばかりのようだった。

 向かい合う彼らの情景といえば、まるで犯罪者と警察のそれだ。

 少しだけ、白河のはらわたに熱がこもった。

「まだ子供なんで、ちょっと注意を促したくらいですけど、成人なら書類送検ものですよ。以後、こう言うことが無いよう、ちゃんと門徒の方々に言っておいてくださいね」

「……はい。面目ありません」

 振り返り、闇に沈んだそらの相貌を覗く。

「帰ろうか、そら君」

 その帰路、白河はそらの手を取り、傘の下から雨天を仰いだ。だが反してそらは、水に浸った地面を睨みつけるばかりだった。

「親御さんには内緒にしておこうか。知られたくないだろうからね」

 そらは充分反省している。それはこの落ち込み具合を見れば一目瞭然だった。わざわざ親に知らせ、二重で彼の行いを否定する必要はないだろう。

 だが——。

「——居合や古武術って、日本の伝統芸能だよね」

 突然、そらの口からそんな言葉が飛び出した。

 再確認するかのように、彼は目を伏せたまま白河へと問い掛ける。

「……あぁ、一応……そう言われているが……」

「でも、それをおおやけでやっていたら犯罪者なの? 国の伝統なのに、影でコソコソやれって、ちゃんちゃらおかしいよ。どうして僕たちばかり悪者扱いされて、いつもダラダラしてる奴らばかりが正しいんだ——っ‼︎ 伝統を大切にして、それでもっと成長したくて努力しているのに……危ない奴だって——」

 そらの声音には、怒りがこもっていた。憎悪にも似た、激しい憤慨——。

 白河は、それに答えを出してあげる事が出来なかった。なぜなら彼も同じ考えだからだ。伝統を重んじ、清き良き大和魂を鍛えたくて日々励んでいるのに、世界は惰眠をむさぼる者にばかり賛美を与える。

 アニメ。ゲーム。漫画。恋愛——。それを用いる者ばかりが正義となり、強さを求める者は異端者扱い。それが、今の日本の醜悪な実態だ。

 そらの怒りは、やがて怒髪天を突く。

「大体アイツら……ポイ捨てとか路上喫煙とか信号無視とかイジメとか——些細なことは見て見ぬふりするくせに、自分の正しさが証明されると約束されたことだけは、一丁前に正論吐きやがって……ッ‼︎ このクソ偽善者が——ッ‼︎」

 落ちていた空き缶を蹴り飛ばし、そらはその憤怒を露わにした。

 気持ちは分かる。それこそが現代人の醜悪さなのだから。

 白河は彼の背中をそっと撫で下ろし、はにかんだ。

「——君は悪くない」


 ——三年後。春野そらは享年十六歳で、その短すぎる人生に幕を下ろした。


「自殺ですってよ、きっと辛いことが沢山あったのね」

「でも、いじめを受けている様子はなかったって」

「近所の方の話ですと、いつも独りぼっちだったらしいわよ」


 朗らかに微笑む彼の遺影が、白河には酷く虚しく見えた。


「——手紙?」

 死の間際、おそらく彼が郵便で贈ったものだ。

 薄暗い部屋の一室で、白河はその力無い文脈に胸の奥を握り潰された。


 ——拝啓 先生、お元気ですか。僕はそうでもないです。

 あれから、僕は色々考えました。剣を続けるかどうか——。

 続けていても、それが危険視される今の日本では、おそらく何の意味も持たず、全ての努力が徒労に終わるでしょうと考えました。きっとこの伝統と呼ばれているだけの張子は、近い将来この国から失くなっていると思います。

 僕はあいにくと、ゲームや読書などの娯楽を楽しめるタチではありません。他に趣味もありません。剣を持つ意味を見失った僕は、もう生きる理由を無くしてしまったんです。

 この手紙を先生が読んでいる頃には、きっともう僕はこの世に居ないでしょう。

 先生には沢山お世話になりました。徒労に終わるものとはいえ、先生から教わった物は剣術の他にも沢山ありましたから。今まで本当にありがとうございました。くれぐれも、お身体には気をつけて、お元気でいて下さい。 春野そら。


 ふとした瞬間にいつもよみがえる——あの頃の慈愛。

 いつだって刀を握る手には、彼らとの淡い日々の思い出が詰まっている。


 ——見ているかい、そら。

 ——私は一師範として、君達に教えた事が正しかったものであると証明してみせるよ。

 ——君が徒労に終わるとしたこの剣で、君が夢見た伝統を取り戻してみせる。


 代々木公園バラの園を通過し、彼は奇しくも、かつての弟子が呪った人々と肩を並べ、更けた夜のパノラマを駆け抜けて行った。

 その様子を、遥か遠くの摩天楼に佇む少女達は静かに見送った。

「——対象、ポイントを通過。一般人とかぶりました。遠星さんと徳山さんは、撤退するようお願いします」



 明治神宮・四国洋館——。

「また空振りのようですね。作戦を始めて三日。中々上手く行きませんね」

 恵まれない好機の悪さに、頭を抱える愛鐘。

 内心、すんなり行けると思っていたのが愚かしい。

「もう彼の寝床を襲って、有無を言わさず叩き斬っちゃいましょう?」

 じれったさのあまり、手早く済ませようと提案するのは花沢華奈。机の上に上体を預け、気怠げな様子を見せる。

「ダメですよ花沢さん。神聖なる御社を血に染めあげるつもりですか? 第一、これから先の組織の統率のためにも、強引に暗殺したと言う事実は極力隠さなければなりません」

「別に良くない? いい見せしめになるわよきっと。むしろ、みんな怯えて、隊の士気が上がるかも——」

「それは形がよくありません。恐怖で支配する組織など何の信用ももたらしません。政府にもいずれ見限られます。組織の御法度は、相応の罰を課したものをのちに私達が作ります」

「私達がって……。そもそもこの組織のリーダーは誰なの? まずそこかじゃないかしら。信用出来ない人間の作ったルールに誰が従うって言うのよ」

「………………」

 一理ある。と、不覚にも納得してしまった愛鐘。相変わらずおつむは弱い。

 だが、それを人前で容認できるほどの寛容さは当然ながらあるはずもなく——。愛鐘は上から花沢を見下した。

 迎えて睨み上げる花沢。

 鬼と花の獰猛な双眸そうぼうが互いに火花を散らす。今にでも殴り合いに発展しそうなほどだ。

 恐れたエマが咄嗟に静止させる。

「まぁ〜まぁ〜! ひとまず落ち着いて! 今の問題は白河さんでしょ?」

 焦点を見失いかけた二人の間へ、慌てて駆け寄った。

 ——ごもっともだ。

 花沢の言い分を果たすべきは今ではない。

「明日は私と花沢さんの当番です。散々と大口叩いて失敗しくじるのはやめて下さいね」

「つけ上がらないでもらえる? 三下——」

 鋭利な視線が交わるその境界は、エマにとっては非常に居た堪れないものとなった。

「(ゔぅ〜っ! 遠星さんが居ないと収拾つかないよこの二人ぃ〜っ! お願い! 早く帰ってきて遠星さんっ!)」

 噂をすれば、扉が開く。後に現れるであろう複数もの人影に、苦虫を噛み締めたようにしかめていたエマの顔が、鮮やかに開花した。

 現れたのは、奇妙にも男物の着物に身を包んだ二人の少女。

 鉄紺の縮緬ちりめん単衣たんごろもに黒い馬乗り袴を履き、腰には大小二本揃えの御刀。一人は、真っ黒な潤塗うるみぬりの鞘に、同じ色の正絹が組まれた柄が延びるもの。もう一方も、同じく漆潤塗うるしうるみぬりだが、こちらは螺鈿らでんを用いてソメイヨシノの花柄をいている。実にオシャレだ。

「た〜っだいまぁ〜っ‼︎」

「うるさい」

 開門早々、甘い声を上げたのは徳山桜だ。無駄によく通る甘美な声音が、正方形の洋室一帯に響き渡る。

 だが、美海にとっては不愉快だった。すぐ真隣でパチンコ屋の騒音すら掻き消すほどの大音声を発せられたのだ——当然である。

 反して、あの息が詰まるような物々しい空気に圧迫されていたエマにとっては、大歓迎だった。

「桜ちゃん‼︎」

 流石はスイスの血族——とでも言うべきか。桜の有無を待たずして、エマは彼女に抱きついた。

「わぁっ⁈ あっはははは‼︎ なぁ〜に? 今日のエマちゃんは甘えんぼさんなの?」

 長身のエマが勢いよく飛びついた事で、一瞬桜の体が後ろによろけた。

 間一髪、踏み止まったかのように見えたが、実は死角で美海が支えていた。愛鐘でなければ見逃していた。

 先刻は桜に対して悪態をついていたようだが、やはり人思いの良い子だ。

 ——ちなみに、エマの身長は一七六センチメートルもあり、桜は一五六ほどしかない。美海が支えていなければそのまま下敷きになり、最悪呼吸困難におちいっていただろう。

 天真爛漫なエマに、自由奔放な桜——。二人を会わせると危機的な騒がしさだ。

 桜の手が、エマの背中を歓迎する。

「——けど優しくしてくれなきゃお姉ちゃん潰れちゃうよ〜」

 ——え。

「そ、そう言えば伺っていませんでしたね……。あの、徳山さん……ご年齢は?」

「ん〜? 二十三だよ? あれ、言ってなかったっけ?」

 エマの背中を優しく撫で下ろしながら、平然と答える桜。

 なんと五歳も年上だ。

 てっきり二つほど年下かと——。

「……お、お若いですね……」

「よく言われるんよ〜。お酒買う時なんて毎回身分証の提示を求められちゃって大変」

 苦笑する桜。その傍らを美海が何食わぬ顔で素通りした。

「愛鐘、ちょっと気づいたことがあるんだけど……」

「わ、私も……」

 美海に続いたのは玲依だ。遠慮がちな手を挙げ、慎ましく申し出る。

「玲依さんも? どうなさいました?」

 不審がる愛鐘に、二人は一度、互いの目を配った。

 玲依は先手を避け、美海の口が開く。

「今日、白河は長い革袋を背負っていたのよ。最初はトレーニングのための道具なのかと思ったけど、目測でも長さが二尺四寸半もあって——」

 愛鐘の神経に、ほのかな電流が注がれる。が、顔には出ない。

 平常心のていで続きを聴く。

「これ、刀の可能性が捨て切れないと思うの。けど、勘づかれては居ないと思うわ。もしそうなら、きっと向こうから私たちを暴くはず」

「……武士の勘、でしょうか」

「おそらく。確信の得られない視線や敵意を危惧して武装したのかも知れないわ」

「………………」

 厄介だ。それでは奇襲が効かなくなる。

 まさか現代でそれほど勘の良い人間が残っていたとは——。

 顎に指を当て、思い悩む様子の愛鐘。

 すると次に、玲依の唇が重々しく解放される。

「……そ、それと今日……一般人のフリをして、白河さんと例の辺りを歩いてみたけど、パノラマ広場からだと、隠れたつもりの茂みが角度次第で見える事があるから……その、バラの園の方が良いと思います……」

「具体的な場所は?」

「……え、……」

 遠慮のない愛鐘の問いに、玲依が怯えた。

 ——しまった。話の険しさに、つい力がこもってしまった。

「——い、いえ! それだけでもすっごく嬉しいご報告です! ありがとうございます、玲依さん!」

 咄嗟に取りつくろい、愛鐘は怖がる玲依の情緒に改める。

 だが、幼馴染であるエマは気付いている。玲依にはしっかりとした考えがあることを。

 エマは桜から離れ、玲依の肩にそっと手を置いた。

「大丈夫だよ玲依。ゆっくり言ってごらん? 愛鐘さんは怖い人じゃないの、知ってるでしょ?」

 ——いや、一応〝阿州の鬼小町〟とか呼ばれて恐れられていたんだけど……。

「……………。え、えっと……その…………」

 震える玲依の体が、次第に収まっていく。

 冷静を取り戻した彼女は、そのまま白板に筆を走らせる。

「……桜の園と噴水池を望む、バラの園前の交差点……。此処なら道が四方に別れてるし、万が一があっても、散会して……対象を巻きやすいと、思います。実行までの潜伏場所は、イチョウ並木側にある、なんか……傘冠かさかんむりみたいな形をした低木ていぼくが良いと……思います」

 木の名前って分からないよね。筆者も知らん。

「……通ってみた感じ、夜なら……此処はどこからも死角になってるから……」

 静寂がやってくる。

 接続詞で終わった為、一同そこに続きがあると予感した。

 しかし——。

「……え、えっと……以上です……」

 終わりかい。

 玲依の言語力の低さは置いておくとして——。

 エマが「スゴいよ玲依! 策士だねっ!」と褒めちぎる中、愛鐘もこれには感嘆した。

「——確かに、その方が退路は多い……。実際に夜間の下見を失念していた私達の落ち度ですね」

 自身の至らなさを恥じ、悔い改める愛鐘。その様子をどう受け取ったのか、玲依が突然取り乱し始める。

「べべべ別に月岡さんの落ち度を責めたわけじゃなくてかと言って自分の方が優れているなんて滅相も思ってません私みたいな陰キャが勝手に出しゃばって大変失礼しました‼︎」

「実に良く優れた呂律ろれつの回転ね」

「うん。目ば瞠るもんがあるばい」

 凄まじいまでの玲依の早口と滑舌の良さに、讃美の祝福をあげる美海と愛鐘。逸材を見る目で、その後も玲依を凝視した。人前で演説を強いられる事になれば彼女を使おう——そう思いもした最中、後方から花沢の喉が音を鳴らす。

「よく気づかれなかったわね。白河のすぐそばでなんて……」

 言われてみれば——。

 ある程度顔は知られているはずだが——。

「玲依はね、昔から影が薄いんだよ! 居ないものみたいに扱われる事が多いんだあ! ねぇ玲依!」

 燦々と、爛漫に弾けるエマの笑顔。果たしてそれは、そんな朗らかな美貌で自慢できるものなのか——。

「……う、うん。ほとんど人から話しかけられる事ないし、恥ずかしいことしちゃっても、見られないから……困ることないんだよね……」

 嬉しそうだ。

 人の死角に住まい、されど玲依は周囲を一望できる。これは大きな武器になる。

 愛鐘は、この伏見玲依という底知れない少女の使い道を如何様に用いるか思案した。

 話の腰は折れた。

 しかし、ある程度まとまっている。

 腰を上げる花沢。部屋の扉を目指してゆっくりと歩み始めた。

「——それじゃあ、明日は伏見さんの指定場所で潜伏し、好機があれば白河を斬る。それでいいわね?」

「え、えぇ……」

 絶えず憎々しげな睨みを利かせる花沢へ、愛鐘は相槌あいずちを打った。

 自己中心的な私情で一方的に他者を疎み、まともな対話すら図ろうとせずに不貞腐れる彼女の幼稚さに、愛鐘は少しばかり呆れた。

 元皇族ゆえに、おそらくあらゆるものに恵まれて来た彼女。富はもちろん名声さえ——。自身の意見や主張が曲げられた事はなく、願うこと全てが常に全自動で叶えられて来たに違いない。今のこの状況を花沢が容認できないのはその為だ。

 初めて自分に反発する存在、月岡愛鐘や遠星美海。そして、それを良しとするその他の者達は、築き上げて来たこの花沢の自尊心をしきりに踏みにじるものだ。彼女にとって我慢ならないモノなのも無理はないだろう。

 しかし、気に入らずとも向き合おうとするのが大人の姿勢というもの。

 花沢華奈は、体ばかりが達者に育った大きい子供だ。

「……愛鐘、彼女とやっていけそう?」

 美海の目が不安げに曇る。

 愛鐘はわずかばかり口の端を上げ、困ったように嘆息した。

「まぁ、精進するしかないでしょう。————」

 その笑みに、歯は無かった。



 時が止まったように、薄く凍りついた鋼の空。

 日の光は望むべくもなく、乾いた風が冷たく木の葉を揺らす。

 策なしに強襲し、あげく標的を取り逃がせば、疑いが向くのは反発していた月岡一派だ。そのため、あくまでもこの作戦は五月雨による襲撃を装わなければならない。

 愛鐘は、濃紺の縮緬単衣に身を包み、藍鼠あいねずの馬乗り袴を下に履いた。

 腰には、自慢の大和守手掻包永やまとのかみてがいかねなが井上真改いのうえしんかいを差して武装する。

 青く煌めく星々を模った満天の夜空を鞘に写し、それは愛鐘の腰下で淡く瞬く。

 髪型はいつもの編み込みハーフアップ。これだけだと女性であることは一目瞭然だが、決行の際は風呂敷で顔を隠すので問題ない。流石に、代々木公園までは常識的な背格好で行かなくては通報される。

 刀はきっと見て見ぬふりをされるので大丈夫だ。代々木なら、無許可での演奏ライブや、アクロバット披露が頻繁に行われているので、そんなモノだと勝手に昇華されるだろう。

「——今日は首尾が良さそうですね」

 準備を終えた愛鐘は窓の外を仰いだ。

 時化しけた曇天が広がる秋末の空。このまま行けばきっと雨が愛鐘達を味方してくれる。

 花沢からの返答はない。

 相変わらずの嫌われように、愛鐘の目頭は彼女を見据えて細まった。

 作戦のために、愛鐘自身と似通った花沢の装い。その佩刀は見事なモノだった。

 茶の石目塗いしめぬりに、蓮の葉と花の蒔絵まきえが施された大小揃えの鞘。茶と言っても、その色味は限りなく赤に近い。

 白鮫を着せた柄には鹿皮が組み上げ巻きにされ、しっとりとした柔和な質感が遠目からでも分かる。これが非常にお高いのだ。柄の装飾では正絹に並ぶほどの高価な値が付く。いったい内包された本体はどれほどの名刀なのか、愛鐘は非常に気になってしまった。

 しかし、この蛇蝎だかつの如く嫌われた分際で軽々しく「見せて」などと言えるはずもなく、愛鐘はおもむろに目を伏せた。

 間も無く日没——。

 愛鐘と花沢は四国洋館を出発する。

 外はにわか雨が降っていた。

 湿った空気が充満し、重くなる髪の毛に不快感を覚えながら、愛鐘達は指定された樹木の中に身を隠した。

 小降りとは言え、降り頻る一粒一粒は大きかった。

 雨だれが枯葉に打ち付ける音だけが、まるで旋律のように頻りに聴こえてくる。

 地面には、散ってしまった紅葉樹の葉が幾重にもわたって散乱し、舗装された地瀝青じれきせいの姿を覆い隠している。

 時間が、酷く長く感じる。

 花沢華奈と共に居るからだろうか——。

 灯りを放つことは危ういため、携帯を見ることも出来ない。

 いったい今は何時なんどきか——。

 次第に、花沢の足が揺すり出し始めた。小刻みに激しく上下し、苛立ちと焦燥を露わにする。

 よく見たら、片手には酒瓶が握られていた。

 愛鐘の目頭が狭まる。

 ここで下手に言い合いになる訳にも行かず、——そもそも苦言を呈したところで無意味だと理解している。だからあえて何も言わなかった。

 視線を戻し、例の交差点へと向き直ったその時、ついに耳に着けていたインカムから、憂奈の声が発せられた。

『——対象、一時間遅れてジムを出発。目標地点まで約五分です』

 身動みじろぎ一つなかった愛鐘達に、此処でようやく動きが出た。

 懐から風呂敷を取り出し、自身と花沢の頭に巻き付ける。無論、目元は開いたままだ。

 仕切りに花沢がつぶやく。

「——白河は私が斬る」

 何やら急いているようだった。

 別に今更、手柄をあげようなど、愛鐘の士気にはない。

 ただ、それでも念は押した。

「一撃ですよ。掛け声などはお掛けなさらぬようお願いします」

「くどいわよ月岡さん」

 再びインカムから声が入る。

『——間も無くです。ご準備を』

 鯉口こいくちに手を掛ける。

 首尾は上々。夕刻に降り出した雨のお陰で人影もない。

 勝負は一度きり。

 渋谷門前と噴水広場。そしてパノラマ広場とイチョウ並木を望むこれらの道がまぐわう交差点が正念場。

 胸の内で一人意気込み、集中する愛鐘。

 しかし、そんな彼女の悉くが、一人の狂気によって台無しにされる。

 花沢が、持っていた酒瓶を放り投げ、突然けたたましい雄叫びを発して飛び出したのだ。

「キエエエエエエェェェェエエエェェェェエエエエェェエエエエェェェェ————ッッ‼︎」

「ちょっ——⁈」


 ——花沢華奈には悪い噂がある。

 無類の酒豪でありながらその癖は大いに悪く、酔いが回ると狂犬のように気が短くなる。

 荒くれ者も荒くれ者——。

 筋金入りのバーサーカーだ。


 交差点を待たずして、白河の姿が視界に入るや否や全速力で駆け出した花沢。猛り狂うように叫喚し、獲物を捉えるその様はまさしく猟犬だ。

 慌てて愛鐘も手掻包永を抜いて後を追う。

 猛獣の如く咆哮し、襲いかかってくる黒い影に、白河は落ち着いた佇まいで迎えた。

 長い革袋から二尺四寸の刀を取り出し、ケダモノ二匹へ立ち向かう。

 ——やはり袋の正体は刀だったか。

 ——想定内だ。

 しかし、花沢の暴走は想定外だった。

 三十間ばかりある距離を攻めることになり、標的に応戦の猶予を与えてしまった。これでは奇襲の意味がない。

 間合いに入り、一の太刀を花沢が浴びせる。

 正面からの馬鹿正直な真っ向斬り。あえなく避けられるも、花沢は振り切った先で刀を反転させた。

 またもや愛鐘の想定を凌駕りょうがした——存在してはならない二撃目。

 左脇下からの、逆袈裟を捉えた太刀筋だった。

 耳をつんざくような激しい金属音が、鋭く反響する。

 花沢の太刀は白河の刀身が見事に防いだ。

 壁を成すように、鋒を地に向けて彼の身体と並行に伸びている。

 間髪入れずに愛鐘が斬り掛かる。

 これを感知した白河は目前の花沢を蹴り飛ばしひるがえった。

 愛鐘の包永が、彼の刃縁に勢いよく噛み付く。

 だが、放った攻撃は刃先の上で流動的な火花を散らし、作戦はいよいよ失敗に終わった。

 二人は流れるまま渋谷門から退却し、都道413号を東に駆けた。のち、代々木公園・原宿門前の広場にて不時着し、刀を納めてかぶっていた風呂敷ふろしきを拭いとる。

「——どうして大声を出したんですか」

 荒ぶる息が整い始めた頃、愛鐘は開口一番に花沢を咎めた。

 事前忠告をまるで意に介さず、示現流薩摩藩の如き猿叫を轟かせた花沢へ、愛鐘は怒りを隠し切れなかったのだ。お陰で暗殺計画は水泡と化した。

 はらわたの奥深くが沸騰を始め、やがて噴き出しそうになる。

 だが、花沢は反省する色を見せないどころか、賢しらに顎をしゃくって見せた。

「月岡さんが良くないわ。あのまま二手三手と打ち込んでいれば、私は彼を仕留めていた」

「それは王道ではありません。真の強者つわものは初太刀に全てを懸けるものです。一撃での全霊無くしては士道に在るまじきことみにくき恥です」

「王道だとか士道とか——一々一々洒落臭いのよね、アナタ……」

 あろうことか自身の至らぬ所在を愛鐘へと転嫁する花沢。

 横暴かつ不条理極まりない彼女の暴論に、思わず愛鐘も熱が入り、早まる口先で異論をつきつけた。

 花沢は呆れた様子を見せる。半ば諦めた様子でその後の口を閉ざし、雨天を仰いだ。

 愛鐘は、依然として彼女を睨み上げる。

 さながら、犬猿の空白。——刹那、その一刻を花沢華奈の刀が斬り裂いた。

 真横に走る一文字。それは紛れもなく月岡愛鐘を捉えたものだった。

 愛鐘は咄嗟に重心を落とし、閃光した一撃をかわした。

 拍子に逆だった毛先が目前でわずかに散り、思わず冷や汗をかく。

 素人の動きではない。洗練された達人の抜刀、——音速に匹敵する速さだった。それをよくもまぁ回避出来たなと、我ながら自身の動体知力に惚れ惚れする愛鐘。——負けじと鯉口を切り、刀を抜く。

「——おもしろいですね。いいでしょう。相手になって差し上げます」

 花沢の口角が上がった。

 瞬間、降り積もる雨よりも速い一撃が、包永のしのぎを引っ叩いた。

 重苦しい一撃。手首に痺れが走る。

 後退する愛鐘を追い、花沢は再度縦一文字を振り下ろす。

 愛鐘は彼女の懐を動転して潜り抜け、傍らから鋒を突き上げた。

 しかし、同じくして自身の首にも花沢の剣尖が立ちはだかる。

 反りが浅く、暗がりの中でも鮮烈に浮かび上がる横手筋と尖り刃の帽子——。平肉には米粒ほどの柾目が凛然と粟立ち、美濃の特徴を彷彿とさせる。——否、この刀は美濃伝に相違ない。

 拮抗する睨み合い。

 大和伝と美濃伝の鉄の芸術が、互いにうめき合う。

 仕切りに、包永の一枚帽子が半転しながら一直線に駆け抜けた。

 聳え立つ美濃伝の平地に棟を走らせ、花沢の刀を自身の間合いを外していく。

 あわや刺し穿たれる包永の牙を寸前で躱し、傍らへと逸れた花沢へ、愛鐘はすかさず跳び掛かった。

 跳躍と回転を交えた横殴りの斬撃。

 花沢の刀がこれを迎え撃ち、戦況は膂力勝負の競り合いへと持ち込まれる。

 刃の縁から、線香花火のように明滅する真っ赤な火の粉。

 互角かと思われた競争に、花沢自身も当初は高をくくった。

 だが、単純な力だけで言えば、月岡愛鐘は怪物である。

「——鬼小町の異名の由来、特と味合わせて差し上げます」

 さりげなく呟かれた愛鐘の発言に、戦慄する花沢華奈。

 二寸五分の影を踏んだ愛鐘の体が花沢の刀の軌道から外れ、包永の刃を美濃刀の棟へと喰らい付かせた。

 競り合うために込めていた花沢の運動と、回り込んだ包永の圧力によって、呆気なく地へと落とし込まれる花沢華奈の美濃刀。愛鐘はあろう事かその刀身を真上から踏みつけ、旋回させた包永で彼女の首を捉えた。

 華奈の頸動脈に一閃が飛天するまさにその瞬間、——彼女は自身の刀を放った。

「————っ⁈」

 自由になった身で後転し宙を返る花沢。

 包永の軌道は、転覆する彼女の寸前をすり抜ける。

 返りざまに轟天する車輪。

 解放していた愛鐘の懐はそれを真っ向から歓迎してしまい、あえなく土砂降りの地面を転がった。

 これ見よがしに嗤う花沢の相貌。息つく間もなく、落ちた自身の美濃刀を拾い上げ地表を踏み込んだ。

 さながら、陸上を駆ける一匹の狼。

 転倒する愛鐘を追随し、真上からその首の根を捉える。

 迎えて跳ね上がる純白の肢体。

 幾ばくも動転する体を流れるまま勢いよく跳躍させ、拍子に包永の太刀を振り上げた。

 花沢の足が、意図せず停止する。

 目前に閃いた打除け三日月の逆光に、掲げた美濃刀諸共弾かれたのだ。

 臨戦する愛鐘。白銀の玉兎を模し、目前の猛獣へと最後の牙を剥く。

 だがその時、向かい合う彼女ら獣同士の境界に、鮮やかな紅炎が舞い上がった。

「そこまで‼︎」

「————⁈」

 闇夜の中でも色褪いろあせることなく、艶やかに燃え盛る真紅の毛並み。

 振り切られた刀身もまた炎をかたどり、いさかう二頭の獣をおののかせるには充分な迫力であった。

 刃長二尺三寸二分。

 反り六分六厘。

 身幅一寸一分ほどの刀。

 杢目渦巻く地鉄に、地沸が淡く浮かぶ奥ゆかしい鍛え目。

 鎬には表裏共に棒樋が彫られ、刀身が踏ん張りを持たない事が幸いし、その姿は実に力強く、堂々とした佇まいとなっている。

 しかし、これらはあくまでも内面的な魅力に過ぎない。

 何よりも人目を惹き、一貫して衝撃的かつ驚異的な迫力を放つのはその刃文にある。

 猛々しく燃え盛る炎のような、豪華絢爛ごうかけんらん重花丁子じゅうかちょうじが悠然と揺らめき、足やようといった働きも無数に点在。壮大華麗で非常に華々しい風貌を誇っていた。

 火焔帽子の鋒も合わせ、実に迫力のある太刀姿だ。

 愛鐘は、そんな名刀からなぞる様に、本体となる人物を俯瞰する。

「ゆ、憂奈——っ⁈」

 愛鐘らの静止を確認するた、彼女の刀はゆっくりと下りる。

 濃淡艶やかな深紅を潤わせる溜塗鞘たまりぬりさやに刀を納め、場の緊張感を霧散させる。そのこしらえには金箔で鳳凰ほうおうの蒔絵が飾られており、小柄櫃こづかひつまで付く何とも見事な逸品であった。無論、櫃には小柄が納められている。

 柄は、紫紺の蛇腹糸じゃばらいと葵結きけつ組上巻くみあげまき柄前つかまえ。下緒も一揃いで淡い紫の正絹しょうけんとなっている。

 憂奈は落ち着いた装いで、二人へと華やかに微笑んだ。

「やめようよ」

 だけど、少しだけ悲しそうでもあった。

 憂奈の顔に免じて、花沢も石目塗鞘に刀を納める。

「月岡さんが良くないわ——」

 コイツまだ——。

 睨みを効かせる愛鐘は依然として包永を剥き出している。

 しかし、辺りを見回せば、国道を渡った先の歩行者たちが、こちらを不可解そうな目で見ている。

 愛鐘達の居る公園側は灯りも少ない事から、おそらく顔までは見えていないだろう。

 それでも今し方の激しい剣戟は遠方まで轟いていたに違いない。

 愛鐘は嘆息した。

「——ひとまず一度退きましょう。人が集まって来ています」

 流麗な所作で納刀し、彼女たちは明治神宮の南門を目指す。

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