第10話 上洛


   第九節 上洛



 夏も過ぎ去り、青く生い茂っていた緑が僅かに燃え始めた頃——。関東県内の武具店、鍛冶屋を中心に、奇妙な客が出入りするようになった。

 歳は十代後半と見られ、あろう事かそれは非常に見目麗しい美少女だった。

 銀河旅団を思わせる白銀の髪が楚々として飾られ、ハーフアップに編み込みカチューシャと、何処ぞのお姫様のような仙女だった。

 長いまつ毛は反り高く天を望み、月光を思わせる琥珀色の明眸めいぼうが淑やかにけぶる。

 色白く精緻な肌は玉質ぎょくしつの如く清らかな潤いを立たせ、思いのほか小さな唇を、瑞々しく可憐に艶めかせていた。

 すれ違えば、漂う甘い香りに惹かれてつい見惚れてしまうような美貌がそこにはあり、そんな甚だしいまでの淑女しゅくじょが、何を言い出すかと思えば——。

「——手掻てがい包永かねながはありませんか?」

 と、大層な名を口にしては職人を気取らせたという。

 ——実は数日前。

 中国地方を出立した彼女は一度仲間と別行動をし、近畿きんきにて佩刀はいとうのための大小二振りを探し回った。

 しかし少女は——。

「——何でも好きなものを選びなさい」

 そう気前良く微笑む親に対し、彼女はこれ見よがしに尊大な駄々を捏ねたのだ。

「——————。——大名が持つような名刀がいい」

 両親はいちじるしく呆れ果てた。

「あのなぁ愛鐘あかね。その手のモンは大方博物館に贈呈されているのがオチだ。一般に流通しているわけねぇだろ」

「けど美海は長船おさふね兼光かねみつよ。備前の最果てで見つけたって連絡もらったわ」

 あぁ見えて遠星は備前伝馬鹿だ。きっと今頃は刀を抱いて悦に浸っていることだろう。

長兼おさかね——っ⁈ あの遠星さんが……⁈」

 思わず腰を抜かす父親。

 長船兼光と言えば、世に十二振りしか存在しない〝最上大業物〟の刀を打った刀工だ。時代が古ければ、諸国の大名がこぞって喉から手を出すほどの代物。国が一つ買える。

 ご存知の方も居るだろうが、最上大業物の刀はとにかく斬れる。凄く斬れる。日本刀の中で最も斬れ味が良いとされるのが、この最上大業物だ。

 衝撃的な事実を前に、母も目と口を大きく見開いた。

「まぁ……。でもそれ、かなり古いでしょう? 兼光の全盛期は南北朝時代ですし……」

 ちなみに、話は変わるが、どちらかと言えば御息女よりも母の方が淑女らしい。

 振るわれる一挙手一投足に気品があり、まさしく大人の女性だ。

 十代後半の娘を持つには妙に若々しく、毛色も娘と相違ない。父親の姿が無ければ姉妹とさえ見紛うだろう。

 僅かに肉質を帯びた体が極めて煽情的に膨らみ立ち、長いくせに身幅にも広く恵まれ、重ねに富んだ肉厚な脚は実に欲情的だ。彼女を目にした職人は〝女型の当麻国行〟などと意味不明な異名を一人密かに連想させたほどだ。事実、人によってこちらの方が好みだと言う者も決して少なくはないだろう。

 これが傍らに控える夫の精巣を余さずしぼり尽くし、目前に佇む美貌をはらみ産み落とした母体である。

 年相応の成人ならいみじくも彼女に惹かれ、若年の若人達はすべからく愛鐘を見初めることだろう。

 さて、そんな母を前に、この娘の喉笛はされど凛々しく開いていく。

「——けど現代刀よりも立派な代物よ。研磨次第で全盛の強靭を復刻させるわ。それに、私たちはこれから守護職に就くのよ。帯刀する刀も、相応に優れたものでなければ示しがつかないわ」

 険のある力強い声が、琥珀色の強眼と共に向けられる。

「…………………」

 頑固な娘に黙りこくってしまう父。

 彼は知っている。この女が今まで自分達の言うこと一つとして聞いたことがないこと。そして、それはこれからも変わらないこと。

 けれど、だからこそ見てみたくもあった。

 この娘の独走の先に何が待っているのか——。

 これほどまで親の言いつけを守らない彼女が、いったい何を思っているのか、知りたくなったのだ。

 頑なに強固な月光を携える愛鐘に、父はとうとう嘆息した。

「——わかった。もっとも、あればの話だがな」

 話が決まると、それを傍聴傍観していた店主がキセルをくわえて出しゃばってきた。

「——それなら、関東圏を探してみな。今時の名だたる刀剣は大体あっちの方に行ってる。何しろ儲かるからな」

 いやキセルって、いつの時代の人だよ——両親はそう思ったが、愛鐘はそれすら心中の良しとせず——。

「ケムい。消して」

 そう言い放った。

 虚を突かれ、思わず硬直する店主。

 見かけとは正反対の、淑女らしからぬ強い言葉と態度に、度肝を抜かれた。

 唖然とする店主に、少女は追い撃ちをかけ——。

「消せって言ってるのよぶっ飛ばすわよ。なに勤務中にタバコ吸ってんのよ」

 鬼小町の所以ゆえんを叩き込んでやった。

 淑女でありながら、男の中の男よりも男らしい物言いに、店主は半ば恐怖して我に返り、反射的に火叩ひばたいた。

 火皿に残った灰を、丁寧に受け皿へと落とす。

 皆も愛鐘の親同様に、今時キセルなど、と不思議思っただろう。

 実は彼、愛鐘やその母の美貌を前に、カッコつけたかっただけなのである。

「——それじゃあ失礼するわ。もし何か分かれば、ここに連絡して下さい」

 愛鐘は電話番号の書いたメモを置いて、その店を後にした。

 その後は提案された通り、彼女は関東へと向かった。

 訪れたのは源氏の歴史が残る神奈川県鎌倉市。此処なら何かしらあると踏んだ。

 しかし、そう思い通りに行くはずもなく——。

「——古刀期から新刀期の名刀を探しているんですが、何かありませんか?」

 武具店の店主を訪ねると、何やら若々しい男が出て来た。

 目が合った瞬間、互いに眉根を寄せる。迎えた男女が若すぎるからだ。

 店主の男は「こんな女の子が刀?」と怪しく思い、愛鐘の方は「こんな若くて目利きは大丈夫なのかな……」と不安に陥った。特に店主の方はそれが隠し切れず表に出てしまう。

「……嬢ちゃん、そんなの求めて一体何に使うんだ?」

 やや警戒した様子の彼——。

 愛鐘の目は先鋭化し——。

「いいから知ってること全部吐きなさい」

 威圧を放った。

 阿州の鬼小町はいつだって喧嘩腰。——と思われがちだが、相手の態度に合わせ相応の振る舞いをしているだけなのだ。

 見下されようものなら上等な言葉を選ぶ。

「………………⁈」

 思わず気圧され、その後の言葉を見失った店主。引き退るように、受付の引き出しからカタログらしき雑誌を取り出した。

「……古刀はもうほとんど文化財として所蔵されちまってるからなぁ……。新刀辺りなら勢州伝や相州伝がチラホラと……。有名どころで行くなら村正とか正宗だな。その当時はかなり人気だったから、作品もそれなりに多いんだよ」

 愛鐘の眉が更にひずむ。

 誰もが知るような有名どころは正直避けたい。何せ彼女の嫌いな言葉に〝風見鶏かざみどり〟なる言葉がある。時流に乗ること——。風評に従うことが、彼女はめっぽう嫌いなのだ。

「——他は?」

 執拗にせがんでくる愛鐘へ、もはや男に嫌気が差し始めると——。

「いや他はって……。そうなるともう、太平洋戦争の後、突然行方不明になった物くらいじゃないか? 他はもう既に誰かしらの手に渡ってるのがオチだろうよ」

 太平洋戦争——。

 愛鐘も話くらいは耳にした事がある。

 太平洋戦争に敗北した日本は、その後、降伏した1945年から1952年までの七年、日本への降伏要求全十三箇条を課した〝ポツダム宣言〟執行のため、それを目的に設立された連合国軍最高司令官総司令部——通称GHQの占領下に置かれた。彼らは日本国民による叛逆はんぎゃく一揆いっき謀反むほん下剋上げこくじょうの全てを抑圧すべく廃刀令を敷き、あらゆる武具の携帯、および所持を禁止。それら全てを没収した。

 開放後、そのほとんどは無事に返上されたが、同時に行方知れずとなった刀剣も、多数存在している。そのうち、最も有名であろう刀剣を一つを挙げるなら、宮本武蔵の佩刀はいとう、『和泉守藤原兼重』などがそれに該当する。

「——行方不明になったってことは、それ以前の存在は確かに記録されているのよね? 何か知っている物はある?」

 相変わらずの礼儀知らずをお見舞いする愛鐘。

 男は溜め息を吐き——。

「……そうだなぁ。目に見えて数が少なくなったのは大和伝の手掻てがい包永かねなが桑山くわやま保昌ほうしょうだな。包永の作品は、戦後以降一振りしか見てねぇなぁ。桑山くわやま保昌ほうしょうに至っては、面白くねぇ事に既存の作品が短刀ばかりだ。けれどなぁ、桑山は武将も輩出していた大名一家のはずだ。記録こそ大したモンを残さなかったがなぁ、最後は徳川につかえ、あの関ヶ原を生き抜いた名将であることは間違いねぇよ。なら他にも、いくつか戦場を駆け回っていたって不思議じゃねえ。——んで、江戸初期まで存続するも、どういうわけか子孫を残そうとはせずに自然消滅だ。——とまぁ長くなっちまったが、多かれ少なかれ、関ヶ原生存は短刀じゃあ出来ねぇ芸当だろ」

 長々と語られた新刀期の歴史。——けれど、愛鐘は意外にもしっかりと話を聴いていた。特に他所よそを見ることもなく、正面から真っ直ぐに向かい合った。

 顎に指を当て、しばらく考え込むと、惜しくもその店を後にした。

「——失礼したわ」

 以来、彼女の姿は至る所で目撃される事となった。

 しきりに「手掻包永はありますか」と訪ね、無いとなれば他を一瞥いちべつする事さえ許さずに去っていく。終いには〝冷やかし令嬢〟だの〝月下の雪女〟だの蔑まれ〝阿州の鬼小町〟では飽き足らず、新たに刀匠や職人界隈で警戒されるようになった。

 愛鐘はそんな事になっているとは露知らず、翌る日も翌る日も関東を巡った。

 ちなみに手掻包永とは、大和国(奈良県)で活躍した刀匠集団『手掻派』の開祖であり、其は鎌倉時代末期——正応しょうおう頃(1228年)から室町時代中期末の寛正かんしょう頃(1460年)に活躍した一派である。

 東大寺に従属していた手掻派は「輾凱門てんがいもん」と呼ばれる境内西方に居を構え作刀していた。その〝輾凱〟がなまり、手掻と呼称されるようになったという。

 手掻派の他にも、千手院てんじゅいん当麻たいま保昌ほうしょう尻懸しっかけなどを代表とする大和伝は、当時大和国に多く在設していた寺院や荘園の防備を目的としており、守護や駆逐くちくはもちろん、宗教的な側面とも繋がりを持ち、破魔や退魔の願いも込められて鍛造されていた。

 手掻包永の主な作刀は名物の『児手柏このてがしわ包永かねなが』や、国宝指定された無銘の太刀などがある。

 愛鐘は懲りずに関東を北上——。

 もう何度目かも分からない質問を幾度となく繰り返し歩き回った。

「——ございます」

 ようやくそう答えてくれたのは、東京と埼玉、そして山梨とを連ねる霊峰三峰山みつみねさん——。そのふもとに居を構える骨董品店アンティークショップだった。

 場所は埼玉県秩父ちちぶ市の最果て。秩父本線三峰口駅から北西に二里ほど歩いた所にある。

 酷く寂れた場所で、人気ひとけはなく、聴こえるのは川のせせらぎと鳥のさえずり。そして虫の音だけだ。

 月岡家三人は、到着して早々に——絶句した。

 外観は古く草臥くたびれ、今にも崩れ落ちそうなほど朽ち果てている。入室を躊躇ためらうほどだ。三百年ほど前で時が止まっているようにも感じた。

 内装は薄暗く散らかっている。そして狭い。玄関以外は棚と棚の細い隙間を上手く通る形で店内を回らなければならないようだ。愛鐘だからいいものの、体型がもう二回りほど豊かな方であれば帰らざるを得ない狭さだ。

 そんな、およそ三世紀ほど前で時間を忘れ、至る所が風化したこの店の名は——三峰屋。——そのまんまやんけ、と思いつつも戸を開ける愛鐘を迎えたのは、これまた分不相応な小娘だった。しかもツインテール。場違い極まりない。少しは世界観を考えろ。——あまつさえ、並べられた品々は壺やら時計やら人形やらレコードやらオルゴールに始まり、縄文土器に青銅鏡、埴輪はにわ勾玉まがたまなど、古墳の中から出土してくるような物がそこら中から見られた。和洋折衷とはこのことか——。どこから仕入れたのかはなはだ疑問だが、それを真面に口から出せるほど、愛鐘達は中の様子を許容出来てはいなかった。何しろ、そこはもはや小さな総合美術館と化している。

 それでも、目の前のツインテールは愛鐘の質問へ外向的に微笑んだ。

 もはや半ば諦めてかけていた愛鐘は、その嬉しい回答につい我を忘れ、年甲斐もなく、月の瞳を輝かせた。

「——ほんと?」

 驚いたようでもあるその瞳に、ツインテールは依然として花を咲かせる。

「疑いなさるならご購入していただかなくとも結構ですよ!」

 とりあえず一度見てみろ。そう告げるかのように、彼女は屋根裏の倉庫——とは程遠い物置から、一振りの刀を差し出した。

 愛鐘は階段下でそれを受け取り、白鞘から抜いてみるが——。

「——錆びてる……」

 そりゃあもう見事なまでの赤錆だった。

 月岡愛鐘はこの時初めて、同年代ほどの少女へ、はらわたが煮え繰り返るほどの私怨を覚えた。

 この三峰とか言うクソ餓鬼、あのような嫌味をホザいて置きながらこんななまくらを売る気か。

 鬼小町としての本能が芽生え出しそうになるも、愛鐘はさわらぬ体で伺う。

「いくらで売るつもり?」

「五十万——」

 沈黙した。怒りからではない。理解出来なかったが為に言葉を失くしたのだ。

 小汚く錆び付いた刀をしばらく睨み付けていた愛鐘だったが、二呼吸ほどすると、再び三峰を仰いだ。

「——随分と安いのね」

 ——そう。安過ぎるのだ。

 五十万と言ったら、新品の安い現代刀なまくらほどの物だ。

 これが本当に手掻包永なら古刀期のもの。それも大和五ヶ伝の一口ひとふりに数えられる包永が、この程度の値になるはずがない。四桁は軽く越えるだろう。

「へぇ〜——」

 三峰はなお微笑むが、その笑みに歯は見えなかった。

「なら一千万とでも言えば満足いただけますか?」

「殴るわよ」

 猛禽もうきんのような眼孔を剥き出し、愛鐘は全力で三峰を睨み上げたつもりだったが、彼女は臆することなく階段を下って来る。

「その御刀は、生まれた正応しょうおう——執権を北条ほうじょう貞時さだときが握っていた時代から、一度も諸大名の手に渡ったことがないんですよ」

 あぁ〜あの墓荒らし。

 曰く、其奴そやつ鶴丸国永名刀欲しさに偉人の墓跡ぼせきを荒らし回ったという。あくまで説の一つだ。

「——ずっとずっと土蔵の中で眠り続けて忘れ去られ、ひたすら暗闇に浸り続けていた。そして寛永かんえい(江戸時代初期)の頃になるとある山伏やまぶしがこれを掘り起こし帯刀。人に仇成す天与のあやかしを斬り、中期になるとその山伏の息が絶え、寸前でこの山に秘匿されたと伝えられる曰く付きのものでございます」

「あやかし?」

 愛鐘の小さな顔が、斜めに傾いた。

 三峰はさも見知ったように——。

「貴女様もその場に居たのでしょう? 下関の戦い——」

 そう告げた。

 愛鐘の瞳孔が開く。

 冷静さを欠いた頭で、目の前の女を恐れた。

 あの日、あの場所に居た人物しか知り得ない現象を、どうして本来知る由の無いはずの彼女が知っているのか——。

 しかし、理由は至って単純だった。

「——呑気なことに、被災した誰かさんが現地の様子をネットにアップしていたんですよ。私もこれを見るまでは、いま申し上げた眉唾を信じてはおりませんでした。しかし、妖は実在する。同時に、人の願いを成就させる神様も——」

 奇妙な笑みが、愛鐘の開いた瞳孔を覗き込む。

 どうやらこの様子では、愛鐘や禍津神の存在は、もう世界中に知れ渡っているだろう。——だと言うのに、それらしき報道は一切見ない。差し詰め、政権の転覆を恐れた現行が、世論の焦点をこちらに合わせぬよう印象操作しているのだろう。国が公表しなければ何処まで行ってもフィクションで収まる。

 三峰はその後も多弁な口を開き続けた。

「——貴方様のような綺麗なお方が、こんな物騒な物をお買い求めなさるのも、これらの事情があってのことでしょう。そして偶然にもそれは妖斬りの刀剣。運命としか言いようが御座いません。——であればこの三峰、一商売人として貴女様のこのご縁——そして、これから訪れるであろう奇跡を繋ぐべく、架け橋になりたく存じます。ですので、お代は五十万で結構。それでもご不満だとおっしゃるのでしたら、差し上げても構いません」

「……………」

 何ともまぁ気前の良いことだ。

 しかし、刀は武士の魂。それが他者から譲られた物では示しが付かん。

 借り物では、真を貫くことは出来ないだろう。

「——いえ、お代は納めさせて頂きます。それと多少色も付けるので、研ぎ師と拵え師、それから脇差の手配も頼むわ」

「しからばごめん。謹んでお受けいたします」



 研磨には、月岡愛鐘自らもたずさわる事にした。

 これから先の未来を紡ぐ自身の魂。その覚醒をこの目に焼き付けたかったからだ。

 しかし、何しろ赤錆が酷い。

 研ぎは伊予砥いよどから始まり、続いて備水びんすい改正かいせい中名倉ちゅうなぐら細名倉こまなぐら内曇うちぐもりと全ての石を使い、刃艶はづや地艶じづやを用いて刀身を磨く。

 その後さらに、地鉄じがねを黒くすることで光沢を生み出すためのを掛け、を行うことで刃文を露出させる。

 仕上げに、を掛けて刀身を澄み渡らせ、を以ってきっさきを白く輝かせる。

 そうして、この『大和守やまとのかみ手掻てがい包永かねなが』は目を覚ました。

 刃長二尺四寸九厘。

 身幅一寸一分五厘。

 反り四分三厘の庵棟。

 非常に深みのある黒い地鉄をしながら、美しく透き通った鏡肌が支笏湖しこつこの水面のように淡く澄み渡り、分厚い重ねにけぶる段映りが濃淡鮮やかな輝きを映す。

 日中は清き蒼穹を模し、宵闇には月下の絶海を神々しく広げる。

 刃縁には、小豆ほどの打除うちのけが数多にわたって浮かび上がり、遠目からでも人目を魅了するほど激しく粟立っている。さながら夜空に浮かぶ三日月を彷彿とさせ、それ一つで、一刻の夜空を再現している。

 真っ直ぐ清廉に伸びる置直刃は鮮やかに冴え渡り、前述した姿と合わせればより清楚な印象を与える。

 鋒は中鋒に、一枚帽子を添えた。


 脇差の銘は『井上真改(菊紋)天和二年二月日』

 刃長一尺八寸二厘。

 身幅一寸六厘。

 反り三分三厘。

 底の知れない闇のような紫紺の地鉄には、銀河渦巻く八雲の肌が清美に浮かぶ。

 地沸が極めて微塵に厚くつき、夜空にばら撒いた星屑の如き神秘が鋼の上にて顕現した。

 刃文はのたれに互の目を交え、奥深いにおいと精緻なにえが厚く緻密につく。

 物打ち辺りには湯走りがけぶり、明るく冴えた匂口が見る者の目を焦がす。

 鋒は小さく、本差と同じ一枚帽子を添えている。


 こしらえは大小ともに『青貝あおがい微塵塗みじんぬりさや大小だいしょう打刀うちがたなこしらえ 』と呼ばれるもの。

 初めに蠟瀬漆ろせうるしと呼ばれる、水分を蒸発させた瀬〆漆せしめうるし蝋色漆ろいろうるしを混ぜた物を塗り、半乾き状態のこれに細かく砕いた夜光貝やあわびなどの貝片をき、乾燥を待った後、純粋な蠟色漆ろいろうるしを上塗りして炭で研ぎ出したものだ。

 夜光貝が漆黒の中でとても細かく緻密に付き、燦々さんさんと光り煌めくその様は、さながら、夜空に輝く満天の星々を想起させる。極上の逸品である。

 遠目から見ても艶やかな紺色の光沢を放ち、遠近によって顔色を変える姿もまた、観る者を魅了する。

 柄は紺色の常組糸つねぐみいと諸撮もろとみ巻大小柄前。下緒さげおも同じ色となる。


 愛鐘はその後、東京へと上洛じょうらく。朝陽憂奈、遠星美海らと合流する。


 一方——。

 月岡愛鐘が東京都へと向かう前夜。唐沢癒雨を主体とした攘夷一派は慌ただしかった。

「——唐沢さん! 密偵の早瀬から報告です。千代田区役所に記録された中国からの千件にも上る迷惑電話——その通話履歴から、在日している中華系を逆探知しました」

 報道でもあったが、彼らは組織化され、唐沢癒雨を御頭おかしらに統治されていた。

 通称、攘夷派団体『五月雨さみだれ』——。

 南海トラフ巨大地震によって決壊した原発。そこから処理水が流出して早一週間が経過したが、未だ中国からの迷惑電話は後を絶たず、あろう事か中国政府はこれを黙認。

 五月雨はこれを根絶するため、非政府的に動いていた。

 早瀬と名乗る者は千代田区役所に勤める公務員だ。唐沢に触発され、人知れず五月雨の一員となった。

「——斬るぞ。案内しろ」

 向かった先は都内某所の老舗旅館——。

 昔ながらのおもむきが今に残る、日本家屋だ。

 そこへ——。

「——誤用改ごようあらためである‼︎」

 五月雨が二十人の剣客を連れて正面から殴り込んだ。

 事が完了する前の警察の介入を危惧し、一行は無関係の一般客や従者を拘束する部隊と、攘夷決行組の二部隊に別れた。

 唐沢は無論、後者である。

 部屋を一つ一つ漁り、一般客にはしばらくの間大人しくしてもらう。

 そして、標的の一室を捉えると、五月雨は豪雨となって室内を舞った。

 鮮血が降り頻り、朱の霧雨が霞を張る。

「誰でも良い‼︎ 一人は生かせ‼︎ やる事がある‼︎」

 唐沢の指示通り、それ以外は余さず斬り殺された。

「スマホを出せ。あるはずだ。SNSに投稿していたあのクソったれな動画を撮った物が」

 生き残った一人へ、唐沢は自身のスマホを指し示し、身振り手振りで意思を伝えた。

 目前の男はその様子を見て、怯えながらも自身のスマホを取り出す。どうやら理解してくれたようだ。

 その後は、差し出された言語の違う画面内容に翻弄されながらも、何とか動画の撮影にこぎつけた。生配信である。

 そして、それは再び、天下を震撼させる事となった。

 映し出されたのは、存命した中国人男性の首に脇差の刃を当てる唐沢とその一派の姿。


『——我々は五月雨。国に仇成し、国民の安寧を脅かす者をこのように躊躇なく抹殺する』


 彼らの言葉は、まさに今、脅されている中国人男性によって外来語へと翻訳されている。

 言葉通りに画面へ映り込む血の滲んだ数々の遺体。部屋は一面が真っ赤に染まり、元のけやきと畳の景色を忘れている。

 されど唐沢は慣れた様子で、落ち着いた佇まいを依然として崩すことはなかった。その上で、一枚の資料を懐から出す。


『この資料は、日中の原発から出る有害物質——トリチウムの年間排出量を比較したもの。中華人民共和国は、中国紅沿河原発が約九十兆ベクレル。秦山第三原発は約百四十三兆。寧德原発、百二兆。陽江原発、百十二兆。——だが、今回の南海トラフ巨大地震にて決壊した我が国の上関と伊方から排出された量は、二十二兆ベクレルだ。これで、なぜ中国が我が日本を批判する気になれるのか、はなはだ理解しかねる。中国から日本への迷惑電話も、それ以外の各国からの嫌がらせも、私たちは決して見過ごさない。死と戦争を避けたくば大人しく母国で静かに過ごしていろ‼︎』


 動画はそこで終わった。

 その後、動画内で脅迫されていた中国人男性がどうなったのかは、視聴者のほとんどが知る由もないが、彼は五月雨によって解放されている。

 無事に帰国したと、その後のSNSにも投稿をつづっていた。

 ——世界への忠告動画を撮影し、それに協力すれば命は保証する。という旨の約束を、男性は五月雨と交わし、わらにもすがる思いで従ったという。あの状況に置かれれば彼にはそれしか道が無かったのだから無理もない。本当に解放してくれた事には驚いたと言う。

 五月雨内でも——。

「唐沢さん! なんでアイツ逃したんですか‼︎」

 そう疑問を訴えかける者がほとんどだった。

 しかし唐沢には当然の理由があり——。

「俺たちの脅威をその身で痛感し、周囲に語らせる者が必要だ。——本物の恐怖は、動画だけでは伝わらない」

 日本政府はもはや彼らを捕らえられる術を持たず——。

 時はただ一刻に、秋の到来を待った。

 愛鐘もまたその時を強く望み、ついに両親と共に東京の地を踏んだ。

「——少し、外国人の数が減ったみたいね」

 報道であった様子とは明らかに異なる都内の情景。

 何処もかしこも、外国人の往来が希薄になった印象を受ける。

「まぁ、五月雨の事があるからな。仕方ないさ……」

 はにかむ父に、愛鐘はわだかまりを覚える。

 在留する人々が、安心して外を歩けなくなっている。

 これが、本当に彼の求めた世界なのか——。

 今に目を向け、この世界の俯瞰を試みる。

 だが衝撃に打たれたのは聴覚だった。

「——きゃあああぁぁぁッッ‼︎ ひったくりよおおぉぉッッ‼︎」

 貴金属を取り扱う店舗が立ち並ぶ商店街。その公衆の面前で、東南アジア系の男性が、女性のかばんを奪い逃走した。

 振り返れば、ちょうど男がこちらへ真っ直ぐ向かって来ている。少しばかり、痛い目を見てもらおうかと身構えたが、その陰で、犯人の背後には黒い影が忍び寄っていた。

 音は無いに等しく、たくみな足取りで、されど疾風のような速力で犯人の男を追走する。

 人は充分に多い。故に誰もがその姿を見た。

 腰に差された大小二振りの刀——。

 犯人が愛鐘の間合いに入ったと同時に、その影も男の間合いへと侵入——鯉口を切った。

 天空に駆け上がる朱の波濤はとう

 月の光を宿していた愛鐘の瞳孔が、瞬く間に蒼く凍りついた。

 欠片ほどの慈悲はおろか、なんの躊躇ちゅうちょもなく、は犯人の男を斬首した。

 血にまみれ、たおれる彼を目前に刃の朱を祓い、流麗な所作で納刀するソレは、着物に袴を履いた二本差しの男。——無論、愛鐘が知る人物ではない。

 遅れて轟く悲鳴。

 耳をつんざくような甲高い断末魔が鋭く反響する。

 耳鳴りを覚えた。

 頭はとうに、理解できる範疇を突破していた。

 この諸行は紛れもなく五月雨のものに他ならない。

 彼はおそらく五月雨の執行官だ。

 それでも、愛鐘は彼を捕り抑えようとはしなかった。

 残酷な事実を前に、一歩も動けなかったのだ。

 いくら罪人といえど、この現代において、人が当然のように斬られる現実。

 つい先程まで活気に走っていた肉体が、今や寸分も動くことなく転がっている。

 世界は、こんなにも黒かったのか——。

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