第9話 忠義の中にあるもの


   第八節 忠義の中にあるもの



 脳裏によぎる、親友が人の首をねた瞬間——。

 つい先程まで命を宿し動いていたものが、瞬く間にただのとなった。

 人とは、あんなにも簡単に壊れてしまうものなのか——。

 生命いのちとは、あんなにも容易く、死んでしまうものなのか——。

 生まれて初めて人の死を間近にした彼女達の心情と言えば、一重に同じだった。

「——朝陽……。今日のこと、誰にも言わないでね。この国を守ろうが救おうが、いずれにせよあの人達は殺さなくちゃいけない。——仕方のないことなのよ」

 ——愛鐘は悪くない。そう、遠星美海は必死に言い聞かせた。

 あれを悪とするか正義とするかは、きっとこれから先の末路こたえ次第だ。

「じゃあ共犯だね、あたし達——」

 ——そう。アレを育んだのも、殺したのも、全てこの世の理を創り上げた人間私達の大罪だ。

「——ええ、そうね。そうしましょう」

 ——下関での戦の後、月岡愛鐘ら一行は山口市に拠点を移した。

 この時はまだ、魔獣が海から出現して来るものだと思われていた為、山々に囲まれた、内陸部である山陰の方が安全だと考えたのだ。

 そして、そのという名前も改められた。

「——禍津日神まがつひのかみ?」

 施設で竹刀を振り、鍛錬に励んでいた愛鐘と憂奈の元へ、美海が告げた。

「そう。あの時、私たちは人の願いをたまわって力を得たでしょ? つまり、私たちは神格化したのよ。それはあの魔獣も同じだと思うの。私たちが、平和や安寧を願われたのなら、アレはおそらく、わざわいを願って生まれた存在——」

「願ったって……いったい誰が?」

「そりゃあ、国を転覆させようとする攘夷志士達でしょう。元より現国に不満を抱く人は少なくなかった。それが神格化したのよ。言わば呪いね」

 確かに、あれは禍いと呼ぶに相応しい怪物だった。

 呼吸するように殺戮の限りを尽くし、それで終い。捕食や食事といった食物連鎖に基づくものでもなければ、崇高な目的意識があった訳でもない。まるでそれが本能とでも言うように、彼らは生命いのち蹂躙じゅうりんした。

 美海の言葉が続けて重ねられる。

「——古来より日本神話にも、禍津神の存在は語られているわ。天災などのわざわいは彼らによって引き起こされるモノだと、昔の人達は思っていたみたいね」

「これからも現れるのかな……禍津神」

 不安におちいる愛鐘。

 無理もない。

 やっとの思いで倒すことが出来たアレを、もう一度相手するなど御免被りたい。

「まぁ、そうならない事を願いましょう。願いによって生まれるのなら、大事なのは私達皆んなの心の平穏でしょ?」

 流石は美海。理解の仕方一つ一つが一々賢い。

「——そうよね! うん! なら私達で皆んなを元気にしなくちゃ‼︎」

「それじゃあ何から始めよっか‼︎」

 何やら突然盛り上がり始める愛鐘と憂奈。その切り替えの早さは是非見習いたいものだ。加えて、この二人のよどみない笑顔。元気なその様子に、美海はほっと胸を撫で下ろす。

 昨夜のこと、思い詰めていないようで安心したのだ。

 ——いや、それはそれであまり良い事とは言えないのか……。

 けれど、前に進むためには必要な事だ。

 はにかむ美海。そこへ、二人の少女が訪れる。

「——あ、あの! 良かったらこれ使ってください!」

 ピンク色の髪が特徴的な西洋人一人に、その傍らで、紺色の髪で片目を覆った日本人が一人、三人を訪ねてきた。

 差し出してきたのはタオルだ。汗をかいていた愛鐘達を敬ってのご厚意だろう。

「キミたちは……」

 愛鐘はもちろん、美海や憂奈も二人には見覚えがある。

 昨夜の下関戦争にて生き残った被災者だ。

 禍津神と化した男から愛鐘が助けたあの二人——。

「先日はありがとうございました。助けていただいて——。この御恩は必ずやお返しいたします‼︎」

「い、いや……」

 持てはやされ過ぎではないだろうか。

 嬉しい反面、恐れ多くもある。

 顔がひきつる美海に、そのわきから愛鐘が顔を出す。

「——エマちゃんだっけ? ヨーロッパの……」

「は、はい! エマ・イキシア・フォン・フランベルジュと言います! 両親がスイスの出身なんですけど、私自身は日本生まれの日本育ちで……その、外来語は全く話せません」

 あぁ〜居るよねそういう子。この前もテレビでやってた。

 めちゃくちゃに南米の顔立ちしてる人へ英語でインタビューしたら「英語分からない」とか言ってて腹抱えて笑ったのを覚えている。同じタイプか——。

「こっちは幼馴染の伏見ふしみ玲依れいです。引っ込み思案な子なので、ご無礼を被るかも知れませんが——。玲依、挨拶して?」

「……ふ、伏見……です」

 親子か——。

 あるいは姉妹のような関係性だ。

 そしてこの伏見という少女、血色が薄い。今にでもぶっ倒れそうな顔色だ。

「む、無理しなくていいからね!」

 愛鐘がそう言うと、伏見は真っ先にエマの影に隠れてしまった。

 大丈夫かこの子——。

 難民生活はかなり堪えそうだ。

 視点を改め、エマの目を覗こうとした過程に、愛鐘は彼方の老人達を一瞥いちべつした。

「——今回の災害で、伊方いかた上関かみのせきにある原発がやられて、処理水が流出したみたいだね。それを巡って、中国の方で日本への嫌がらせが流行はやっているみたいだよ」

 目測で確認できる新聞の見出しにも、確かにそんなような内容が記述されている。

「それ私も聴きました。検索したら簡単に出てくる日本の企業やら会社やらに、これまたはた迷惑な電話を送っているらしいですね。怖いわぁ〜。なんでも、飲食店やホテルとか、電話を掛けやすい所を標的にしているみたいですよ」

「これまたタチが悪くてな。無言電話とかじゃないねん。〝汚染水飲んで美味しいか〟とか、〝そのまま死ね〟とか、翻訳機使って言ってくんねん。ほんまアホなんとちゃう」

 思わず話の内容に聴き耳を立ててしまった事で、愛鐘は硬直した。それを周囲の友人が不審に思わないはずもなく——。

「——月岡さん? どうかしました?」

 エマの小首が傾いた。

「——あ、いや……なんでも」

 この時、愛鐘は嫌な予感を胸の内で感じていた。そしてそれを的中させるかのように、翌日——。


『——速報です‼︎ 唐沢癒雨を中心とした攘夷派団体が、在日する中国人を無差別に殺害。多くの死傷者をもたらしました。加えて、彼らはその後、中国大使館をも標的に入れ、買収してしたがえたホームレスに郵便物だと偽って爆発物を譲渡。中国大使館へと運搬させました。結果、大使館の正面玄関は吹き飛ばされ、警官三人が命を落としました』


 言葉通り、中継された画面には、焼け焦げた中国大使館の正門が映し出されていた。

 報道は重ねられ——。


『日本政府は、これからの外交問題を極めて深刻にする行為であり、決して許されることではないと唐沢一派を非難。警察の調査によって行方を追っています』






 数日前、東京都——。

 時刻は午後二十一時を回ったところだ。この時間帯でも、浅草や上野などの観光地には観光客が無数に集まっている。

 流石に、人力車などの営業は終了しているが、雷門前周辺には人が溢れかえっている。みな一様に、貴重な思い出を写真に収め、旅行を満喫していた。

 そんな中、浅草雷門からそう遠くない場所に位置する宿泊施設へ一人の青年が来訪した。

 彼の容貌は、濃淡な紫紺色を帯びた小千谷縮おぢやちぢみ仕立ての着物に、駒絽こまろの羽織を身に纏い、黒の馬乗り袴を履いた立派なものだ。いかにも、浅草を堪能した男の風采に他ならない。加えて右肩には長蛇のかばんが下げられている。見たところ被写カメラに装着する三脚の収納ケースのようだ。つい先程まで浅草寺周辺で撮影でもしていたのだろう。よくある光景だ。この程度の身なりに問題はない。

 正門を抜けると、彼は玄関口に控えていたホテルマンに声をかけられる。

「——こんばんは。本日のご予約は?」

 青年はマスク越しに声を出し——。

「……二十一時チュックイン予定の沢城さわしろと申します」

 と告げた。

 ホテルマンは一礼し——。

「かしこまりました。ご確認いたします」

 きびすを返すと、フロントの奥へと消えていく。

 沢城と名乗る青年は数秒と待たず右手を見据えると、おもむろに財布を取り出した。

「喉乾いたな」

 思いのほか大きな声だった。

 彼はエントランスを素通り。自動販売機へ立ち寄る姿をよそおい、そのまま上層階へと足を踏み入れる。

 向かった先は三階フロアの一室——。

 扉の前に立ち、ノックを鳴らす。

「——は〜い」

 親しみのない返事が聴こえ戸が開かれると同時に突然——。

「ぐふぉ——ッ⁈」

 迎えたの喉元に、一尺九寸の刀をつがえた。

 目にも止まらぬ速度で、三脚ケースの中から抜かれた脇差に、アジア系外国人客の息の根があえなく停止する。

 沢城と名乗る青年が、抜き打ちに際して刺突を繰り出し、外国人男性の喉を穿うがったのだ。

 緩慢と滴る血液が、刀が引き抜かれた瞬間に飛沫となる。

 倒れ込む男を足蹴あしげにし、そのまま中へと入っていく沢城。

「——發生了什麼?」

 何かの倒れる音を不審に思ったのか、続々と姿を現した異国の若い男女を、青年は嵐のように斬り刻んでいった。

 十六畳にも及ぶ広大な居間にて暴風と成り、白い壁を瞬く一瞬の間に朱へと染色する。

 全ての息の根を立ったころ、沢城は男の一人が持っていた携帯を拾い上げた。

 彼の死顔でロックを解除し、通話履歴を確認する——。

「——ビンゴか」

 そこには、日本に所在を置く名だたる企業の名前がいくつか確認出来た。

 沢城は懐から〝斬奸状〟と記された手紙を血の海に浸し、姿を眩ました。


 ——同時刻。

 同様の事件が、飯田橋、水道橋、上野にて発生していた事が、その後の報道で明らかとなった。


 事件を受け、政府は早急に再発防止を模索。

 組織化した唐沢一派を捉えねば、国交は悪化し、日本は終わりを迎える。

 しかし現状、狡猾こうかつな彼らは警察の目を如何様にも潜り抜け、犯行に及ぶ。

 よって、政府は警察による捜査および警備の強化を、無意味かつ本末転倒として廃止。新たな——実質最終手段とも言える決断を下した。

 それが、月岡愛鐘の耳に入ったのは、無差別殺傷事件から二日後のこと——。

「——そう。水蒸気が出てきたら、火を強くして……」

「こ、こう……?」

「そうそう! 上手上手‼︎」

 伏見玲依が、何やらかしこまって、自分も何か皆んなの役に立ちたいと言い出したので、炊飯の手法を教えていた愛鐘。ちょうど朝食時だったこともあり、その支度を一緒にしてみる事にしたのだ。——そんな時、酷く慌てた様子でエマが訪ねて来た。彼女の手には、手紙と思しき紙片が握られている。

「——月岡さん月岡さん‼︎ 大変なことになってるよ‼︎ 政府が都内で頻発している唐沢一派の攘夷を弾圧するために、日本各地から腕っぷしのある強者つわもの達を集めるって‼︎」

「はぁ——⁈」

「いま手紙が届いて——‼︎」

 釜戸を玲依に託し、美海、憂奈を連れて手紙の内容に目を通す。

 それは手紙というよりも、限りなく招集令状に近い託宣たくせんだった。

「〝非公開の案件ゆえ内密にお願いしたく存じる。読み終えたら手紙は直ちに処分せよ〟」

 読み上げた内容は、とても現代にて他者へ通知を送るものとは思えないほど冷淡だった。

 愛鐘はその後も、続く文脈を口にする。

「〝来たる緑が赤く色づく頃、武に富んだ強者を首都に招く。目的は一重に、唐沢一派の攘夷弾圧にあり、防衛省管轄の組織となれど一般への漏洩ろうえいことごとくを不出とし、一派壊滅に臨むものとする。無論、衣食住はこちらで保証し、成功した暁には相応の対価も支払う。自信のある者は是非ともこのに応えて欲しい〟」

「——ならせめて相応の態度を見せるべきでしょ」

 目頭を細める憂奈。全くもってその通りだが、これはあまりにも深刻かつ異例の事態だ。

 日本国内において指名手配犯の捕縛は任意であり、強制されたことなど無ければ、当然ながら特定の誰かに依頼された事もない。それをあまつさおおやけに秘匿し、組織として隠密おんみつさせるなど、まるで時代劇の世界観だ。否応にもあの〝新選組〟が想起する。

「……ま、まるで壬生浪士組みぶろうしぐみみたいだね……」

 聴き耳を立てていた玲依が、一人でに独白した。

「みぶろうしぐみ?」

 可愛らしく、あごに人差し指を当てて小首を傾げるエマ。ペールピンクのポニーテールが華やかに揺れる。

「——新選組の前身。新選組が新選組として知られる前の呼称よ」

 聞き慣れない言葉を反復したエマへ、美海が解答した。

「その多くが試衛館と呼ばれる、江戸の日野市に所在を置く撃剣道場の剣客達で、まさに今、私達が直面しているような形で、彼らも京都に登ったのよ」

「へ、へぇ〜……。玲依、よく知ってるね!」

「い、いや……学校の授業で、先生が言ってたし……」

 謙虚に引き退る玲依へ、エマは「そうだっけ?」と苦笑した。

 しかし、二百年経った今、同じような事案が発生するとは——。人間という生き物は、存外にりないつくりをしているらしい。

「——どうするの? 愛鐘。緑が赤く色づく頃って、もうすぐよね? 準備する時間さえあるかどうかだけど……」

 傍らから、白銀の美貌を覗き込む美海。その清き横顔を、熱のあるまなこいつくしむ。

「——愛鐘が行くなら、私も行く。愛鐘が行かないなら、私も行かない。だから安心して」

 それは頼もしく心強いが——。

 東京に行けば、間違いなく唐沢の一味を斬る事になるだろう。それを美海や憂奈に共用させるわけには行かない。愛鐘の忠義は愛鐘一人の問題だ。

 しかし、危惧する点があるとすればそれだけ。愛鐘の中では既に答えは出ている。

 避難所此処に居てもすることはなく、唐沢癒雨を救済する為にはまず彼へ追いつくこと——。ならば上京は願ってもないことだ。そして、彼を取り巻く罪業ざいごうの悉くを斬り伏せられる。おまけに衣食住付きの高待遇。こんなにも都合の良い話はない。断る方が難しい。

 愛鐘は——。

「——もちろん請けるわ。でも、美海ちゃん達は此処に残って」

 冷淡に呟き放った。

「………………。——え、」

 予想だにしない拒絶へ、美海の表現が抜け殻のように虚ろを向く。言葉にならないほど空虚な悲嘆。されど愛鐘が耳を貸すことはなく、彼女は重ねて言葉をつづる。

「上京すれば、確実に人を斬る。私は彼を救うため、あらゆる諸問題も覚悟して迎え討つことを決めたけど、それはあくまでも私の問題。美海達まで巻き込めない」

 正直言うと、愛鐘自信も心が痛い。幼い頃からずっと一緒だった美海と、ついに疎遠になってしまう時が来てしまったのだから。その上それを、自分の口から突きつけなければならない残酷さ。

 しかし、そんな大事な親友が自分と同じ人斬りになる。それも自分の身勝手な我儘で——。愛鐘にとってそれこそが、一番許してはいけない事だった。

 親友だからこそ、人として真っ当に幸せになって欲しい。そのありふれた願いこそが、二人がたもとを分つ大義名分だ。

「——寂しいけど、これは私一人が背負うべきものだから」

 憂奈の言っていた通り、彼女とは本当に短い付き合いとなってしまったな。

「ま、待ってよ! あか——」

 されど愛鐘は、透き通る潮騒にそむき、空虚に憂う暁へ、せめてもの慈愛をべる。

「——憂奈ちゃんも元気でね。せっかく神格化したんだから、困ってる人が居たら助けてあげてね」

 憂奈は、何も言わなかった。

 愛鐘は銀色の衣をひるがえすと、令状を手に施設を後にした。

「またね——」

 今回、この案件はとても大事なことだ。何せ人生が左右されるなんて半端な物ではない。これは、これから先の運命を決めるものだ。

 もう二度と、戻って来れなくなる。だから最後に、絶対に別れを告げなければならない人たちが居る。

 愛鐘が訪れたのは、山口市内にある別の避難施設。そこには——。

「お母さん、お父さん。久しぶり——」

 愛鐘の両親が居た。

「——あ、あかね——っ⁈」

 何ヶ月ぶりになるだろうか——。

 あの日、始まりの厄災以降、ずっと会うことが出来なかった。——いや、愛鐘の方から遠ざけていた。

 彼女はこの親二人に、自身の個性全てを否定されて育って来た。

 女性らしい慎ましさや、令嬢らしい淑やかさ——。そんな世の理想を幾度にもわたって強要されて来た。

 無論、今の愛鐘を見れば分かるが、そんな親の言いつけを彼女が守ったことなど、等々一度たりとも訪れはしなかった。

 しかし、腹立たしい事に変わりはない。

 自分の人間性を否定されるのは、誰だって苛立つし悲しくもなる。

 それでも、腐っても実の親だ。

 別れの場には正面から向き合わなければ、こちらも清々できない。それに武士としてのケジメでもある。

 愛鐘は、ことの経緯を全て話した。

「——そうか」

 あれ、意外にも理解が早い?

 絶対反対されると思っていたし、そうなれば力で捩じ伏せるつもりだったのだが——。

「——え、反対しないの?」

 あまりに拍子抜けしたので、ついそう尋ねてしまった。

 これが何とも秀逸。

 頓狂な表情を見せる愛鐘へ、親二人は呆れた様子だった。

「じゃあ反対すれば、お前は素直に従うのか?」

 ——いいえ。

 ——滅相もございません。

「一度も俺たちの言いつけを守った事のないお前に、もう言うことはない。上京したくば好きにしなさい」

 みなさん。これが世に言う放任主義というものです。親の言うことを聞かないと、こうして子供は見捨てられるのです。

 散々と目障りに思ってきた我が両親だが、いざこうして切り捨てられるとモヤモヤする。

「………………」

 ——矛盾だ。そんな醜悪な自分に重ねて苛立ちを覚える。

 されど——。

「——けどせめて最後に、何か父親らしいことをさせてくれ」

「え?」

 父の隣りで母が首を縦に振る。

 予想外だ。

 どうしよう、少し嬉しい。

 ——いやいやいや。ずっと呪って来た親へ心が華やいでしまったなど、あろう事か其も親に悟られようものなら一生の恥。

 吊り上がる口の端を必死に堪え、気取ってみせる。

「いったい二人に何が出来るって言うのよ」

 どうせロクでもない事なのだろうと高をくくっていたが、意外にも親は悩む素振りを見せなかった。

「お前、今年で十八だろ? しかも門出となると拝領はいりょうだな」

「え……」

元服げんぷくの祝いだよ。話を聞くに必要だろ? 刀——」

「いいの⁈」

「なんだ、随分嬉しそうじゃないか。今まで悪態ばっかついて来たくせに調子良いな〜」

 しまった……。

 つい浮かれてしまった。

「途中までなら俺たちも付き添っていいだろ? 東京。その道中で色々見て回ろう」

 実に傑作だ。

 よもや最初で最後の家族との買い物が、日本刀探しとは——。

「言っとくけど、大小揃えだからね!」

「——ったく生意気を……。ちょっと可愛い顔見せると思ったらすぐこれだよ」

 そう言う両親の顔は、言葉とは裏腹に、どこか嬉しそうだ。

 きっと、彼らも何かしらの矛盾の中を彷徨さまよっているのだろう。

「うるさい! それじゃあ、そうと決まれば行くよ‼︎」

 最後の最後まで渾身の悪態を見せつけ、愛鐘はその日の内に首都圏を望む。どうせ荷物など望むべくもなく、唯一の刀も、新調するなら無用の長物だ。ならいつまでも避難所此処でタダ飯を食っている訳にも行くまい。

 愛鐘は、分厚い雲が群がる空の下へと歩み出た。

 そして、すかさず出会したのが、——遠星美海だった。

 施設を抜けてすぐの場所で、息を切らしてこちらを仰いできたのだ。

「——み、美海ちゃん……」

 少々驚きはしたが、すぐに話はつけに来るだろうと予想もしていた。

 だから自ずと言葉はすべからく——。

「——道を曲げるつもりはないよ、わたし。美海ちゃんが何を言っても——」

 発音して気がついた。

 今のこの状況は、あの時と同じだ。

 愛鐘の立場が、逆転している。

 閃光する寒空の雨の記憶——。

 きっと彼も、全く同じ思いだったのかと、この時初めて理解した。

 ——つくづく愚かだ。

 自己嫌悪が、またも全身を凍らせる。

 言い淀んだ愛鐘へ、美海はこれ見よがしに発言権を行使した。

「愛鐘は、彼——唐沢のことが好きなんだよね!」

 何を言い出したかと思えば、こちらの赤面を誘うような極めて恥ずかしい事を、彼女は容易く口にしてみせた。

「〜〜〜〜〜〜〜っ‼︎」

 先程から調子を乱されてばかりだ。

 しかし先も今も同じこと。

 羞恥を羞恥として晒すことは愛鐘の自尊心が認められない。

 熱くなった顔を抑え込み、愛鐘は平然を装う。

「悪いけど、そのたぐいの言葉は、軽々しく口にしない主義なの」

 鋭い目を向ける。

 相手が退かないのなら、退かせるしかない。

 美海も真っ当な対話は無駄と理解したのか、自己範疇の確信で話を進めていく。

「——私も同じよ! 愛鐘が思い人のために必死に尽くすように、私だって、愛鐘の力になりたい‼︎」

「み、美海……?」

 美海の顔が、赤い。

 見事なまでの真っ赤な桜桃さくらんぼが、頬二つに実っている。

「え——」

 まさかと思われた事実に、つられて愛鐘の体も熱を帯びた。

 羞恥を知られれば、美海の頬はより一層赤みを増していき、やがては熟す。それを見て愛鐘も彼女の感情が本物であることを悟ってしまった。

「ちょ……へ——っ⁈」

「——そ、そうよ。……あかね、私は貴女が好き。友達よりも、もっと特別な意味で——。だからついて行きたいの。離れたくないの。愛鐘が見る景色を——、目指す未来を——、これからも傍で一緒に見ていたい! たとえそこで待ち受けているものが罪業だとしても、私は愛鐘が居なくなる方がイヤ」

 向けられる熱い恋情に、思わず愛鐘の心にまで引火する。——それも、思い人に向けていた物とはわけが違う。

 ——女の子同士。

 ——女の子同士なのだ。

 その禁忌が、益々愛鐘の感情を逆撫でする。

 どう対処したら良いのか分からない。

 そもそも、同性とはいえそれほど強く想われていることは、愛鐘にとってそれほど嫌なことではなく、むしろ素直に嬉しい。だからこそ対応に困るのだ。

 自分を好いてくれる人を否定したくはない。出来ることなら大切にしたい。

 しかしもう一度言おう。

 ——女性同士だ。

 ——女性同士なのだ。

 受け入れてしまっても良いものなのか——。

 ——分からない。

 刀ばかり降って来た愛鐘には知らぬ存ぜぬの未知の世界だ。

 けど、愛鐘自身、美海との関係を壊したくないと本気で願っている。

 愛鐘だって美海のことは好きだ。ただ、それがどういう方向性を持つのかまでは、彼女自身もまだよく分からない。

 だからこそ明確な正解こたえが出せない。

「……い、いや、けどそれだと……美海が幸せになれないから……」

 結局、そんな綺麗事でしか、美海の好意に応えてあげることが出来なかった。

 しかし——。

「——愛鐘が居なきゃ私に幸せなんてないわよ‼︎ 腹を斬るわよ‼︎」

 瞬間、愛鐘の中のわだかまりが、吸い込まれるように腑に落ちた。

 ——そうだ。

 唐沢癒雨という男を救いたい。それは愛鐘にとって過程でしかない。

 彼の幸せと、彼と共に過ごす自身の時間幸せが欲しくて、愛鐘は——。

 どうしてもっと早く気がつけなかったのだろう。

 あの時、同じ言葉を彼に言ってあげられたら、何かが違っていたのかも知れない。

 微笑みが、堪えきれずにこぼれ出る。

 ——まったく、この子はつくづく私を正しい方向へ導いてくれる。

 そう、偽る必要なんかない。惑わされる事だってない。

 こころざしを立てるためには、他者と異なることを恐れてはならない。今までだって、そうして来たはずだ。

 久しく忘れていた自分の原点——。

 愛鐘の中で、彼を取り戻すべく情景が鮮明に浮かび上がった。

 歩みを進め、思いの丈をぶつけて羞恥に暮れる美海へ、ゆっくりと近づいていく。

「——美海」

 そして、起き上がる彼女の頬を優しく包み——。

「————っ⁈」

 驚く美海を待たず、唇を重ねた。

 仄かに甘く、微熱を灯した愛鐘の体温がゆっくりと美海へ伝わっていく。

「ん——っ!」

 柔らかく瑞々しい、丹色の口先を前に、美海の体がわずかに跳ねた。

 乾きかけたその唇を存分に潤し、向けられた恋情を一身のもとに肯定していく。

 これは証明であり宣誓だ。

 もう絶対に、自分が定めた彼への忠義を裏切ってりしない——。

 どんな形であれ、一度愛した人を決して見放したりしない——。

 美海もその一人だ。

 彼女が望むなら、どのような罪や穢れも共に背負って行こう。それが彼女への忠義だ。

 唇を離し、突然の愛情表現に呆然とする美海へ、愛鐘は穏やかに微笑んだ。

「——ならついて来て。追いつけないようなら、本気で切腹して貰うから」

 愛する者のためならば、どんな結末が待っていようとも幸せに変わりはない。

「————っ‼︎ うんっ! その時は介錯かいしゃくは愛鐘がしてよね!」

 言葉には全く似合わず、この上なく嬉しそうな顔をする美海。この時の彼女の笑顔は、表情の薄い美海が初めて咲かせた、最初の大輪だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る