第4話 雪下の憂い

   第三節 雪下の憂い



 三日もすれば、熱は大分退いてきた。

 まだ美海の家でお世話になっている愛鐘は、そろそろベッドの上で過ごすことに退屈を覚えるくらいには体の調子も戻ってきていた。

 それでも、まだ完治に及んでいない愛鐘は、念の為にと、しばらく安静にしているよう美海から言われ、大人しく紙面に筆を走らせて時間を過ごしていた。

 外には雪が降り始め、緑が失われ、乾燥し切っていた世界を一緒くたに白化させていた。

 愛鐘は、ベッドの上に簡易的な机を設置し、真剣に何かを考えながらすみを引いていく。

 実は愛鐘は、剣術以外にも、日本の伝統的な文化や風習は相応にたしなんでいる。中でも、書道や華道、お琴といった屋内で静かに楽しめるものは、例の新型ウイルス流行に於ける外出自粛令の際に嫌と言うほどやってきた。

 ちなみに、裁縫も彼女にとっては御手のもの。癒雨との関係が続いていれば、贈り物として何かを編んでいたかも知れない。

 けれど、それももはや遠き理想——。

 彼女は、人には恥ずかしくて中々話せない今の気持ちを、そっと形にしてこぼすほか今の自分をなぐさめるすべはなかった。

 はかなく散っていった瞬きほどの宿願を、——その切なさを、そっと筆に乗せる。そこへ、一人の来訪者が扉を開けた。

「愛鐘、お昼ご飯何か食べたい物——」

 美海が入室するなり、酷く慌てた様子で書いていた物を隠す愛鐘。その怪しげな動作を親友が見逃すはずもなく——。

「なに書いてたの? 私にも見せて」

 布団をまさぐり、秘匿された乙女の直筆を暴き出さんとする美海。

 改めて思うが、感情表現が苦手なだけで、見かけによらずホント無邪気だよなこの

 あえなく隠匿したはずの紙片は奪われ、あまつさえそのことごとくを読み上げられる事となる。

「えっと、なになに〜? 〝旅立てど 胸に灯るはブラキノキ 時ぞ変われど さてもとこしえ〟」

 それはいわゆる和歌だった。五七五七七に文字の数を絞り想いをつづる日本古来のならわし。今時こんな芸当で暇を潰すとは、流石は元氏族の令嬢だ。

「——これはあれ? 唐沢くんが遠くに行ってしまっても、愛鐘の胸に灯った恋の炎は、どれだけ歳月を置こうと常に変わらないってこと?」

「読み上げた挙句、翻訳しないでよ! 恥ずかしいよ!」

「他にも書いているのね。〝元つ月 さても湧きたる赤き恋 黒き衣に 雪積もれども〟。つまり、寒空の季節でも湧き上がった赤い恋は、髪が白く染まっても変わらないわけね」

「もうやめてってば!」

 依然として表情に豊かさは見られないが、大層奔放に楽しんでいる様子の美海。彼女の暴走を止めんと愛鐘は張り手を繰り出すも、まだ本調子でないその鬼小町の猛攻を、美海は容易く退いていく。

「えっと、〝積もり雪 冷える憂き暮夜ぼや 重ねぎぬ 君ぞ思へど 月の叢雲むらくも〟? これは、そうね……、独りぼっちの夜、雪が積もって一層寒くなる中、その孤独を埋めようと彼を思ったけど、それは見えない月を追うような、叶わぬ恋だった、ってことかしら——」

「解説しなくていいから!」

 書かれていたのはこの三句だけだった。

 二人の攻防は終わり、愛鐘は言語化された自身の思いにいた羞恥しゅうちした。

 ——愛鐘、撃沈である。

 面白おかしく二人ではしゃいだモノの、綴られた愛鐘の思いは、美海が思っているより遥かに重く、切ない。

 卓上に突っ伏せる彼女を、美海は後ろから優しく抱擁ほうようした。

「…………? 美海ちゃん?」

「——辛いこと、苦しいことがあれば、出来るだけ私に聞かせて欲しい。元気のない愛鐘なんて、私見たくないから……。愛鐘には笑っていて欲しい。笑顔が下手な私が言うのも変かも知れないけど……」

 柔らかく、心地良い温もり。——だからこそ改めて思う。月岡家の恩恵も、美海という良き友人も、愛鐘は周囲の環境に恵まれている。いやむしろ、恵まれ過ぎだと思う。

 唐沢癒雨という人物を知った後で、このような幸せを享受すること、少しだけ罪悪感があった。

 彼が言っていた、——知った闇をから目を逸らす事は出来ない。という旨の文言にも、今は充分納得がいく。何せ今は愛鐘も同じく、このまま幸せを満喫することにわだかまりを覚え、そんな自分を僅かばかりとはいえ許せなくなっている。今ここで闇を放棄すれば、愛鐘はこよなく愛した彼を裏切ることになるのだから——。

「……………。——美海ちゃん」

「ん?」

「わたし、やっぱり癒雨くんを助けたい」

「——言うと思ったわ。愛鐘がそう望むなら、そうしましょう。私も協力する」

「ありがとう、美海ちゃん」

 美海の甘美な優しさに甘え、自身を抱く彼女の手を、愛鐘は求めるように握った——。

 風邪が完治したあと、愛鐘は月岡家太陰館に戻った。

 当然と言えば当然だが、あれ以来、癒雨は道場に来なくなった。分かっていたとは言え、やはり別れの現実が顕著に現れると、少しだけ寂しかった。

 けれど、彼を助けると心に決めた愛鐘の行動は早かった。

 愛鐘は再び、濘岩浜を訪れ、彼の実家を訪ねたのだ。

 しかし——。

「ごめんなさいね。実はしばらく帰ってなくてね……連絡も取れないの。一応警察にも、捜索願は出しているんだけど——」

 どうやら、癒雨は出家したらしい。

 されど、彼の母は、特段困った様子を見せはしなかった。

 元より唐沢家の闇は耳にしている。此処に愛鐘たちの知る、およそ一般的とされる家族の形など有りはしない。もはやまやかしだ。捜索願を出している事すら怪しい。

 愛鐘は、自らチラシを作り、美海と共に癒雨の捜索を始めた。

「この子に見覚えはありませんか? 些細なことでもいいので、何かご存知の方はいらっしゃいませんか?」

 しかし、一向に見つかることはなく、ただ残酷に時間だけが過ぎていく。

 冬季休暇を終えれば当然、学校が始まる。元より真面に受講していない愛鐘にとって、それが今に始まる事はなく、事態が事態だけに、もはやその価値すら在りはしなかった。

 そうして一ヶ月半ほどが経過した二月の下旬——。

 凍えるような寒さの朝だった。

 部屋の中でも吐息が白くけぶるほど寒かった。

 愛鐘は、携帯の着信音で目覚め、かぶれた声を電話の向こうへと向ける。

「——はい。……月岡です……」

「愛鐘! ニュース! ニュース見て!」

「……にゅーす?」

 電話相手は美海だった。愛鐘は言われるままにベッドを離れ、自室のテレビを映し出す。そして、身の毛もよだつような衝撃が体全身を駆け抜けた。


『——速報です‼︎ 昨夜未明、東京都・千代田区・山王下の付近で、斎場首相が血塗れの状態で倒れているのが見つかり、その後死亡が確認されました‼︎ 警察は防犯カメラなどの映像から〝唐沢癒雨〟という青年を容疑者に特定。全国に指名手配しました‼︎』


 映し出されていたのは、紛れもなく、愛鐘の愛した人物の顔。

 言葉が出なかった。

 呼吸をする事さえ忘れた。

 電話越しに響く親友の声が遠のいていき、やがて消えた。

 唖然と、硬直にも似たような感覚で立ち尽くし、胸の内でふとっていく何かを必死に抑え込んだ。——だけど、そうやって目を背けようとする自分もまた認める事は出来なかった。


 ——その罪悪を育んでしまった自身の罪深さを、愛鐘はこの時強く呪った。



 ——時は一ヶ月半ほど前までさかのぼり、年が明けて間もない頃まで戻る。


 愛鐘と決別した後、無断で出家した癒雨は、その後、長い山道を踏み歩いて南下。愛媛へと亘った。そこには幼くして家を出ていった癒雨の父——伊達だて宗幸むねゆきの生家がある。

 母方の唐沢は知れたこと——。

 しかし、父方の桑折は宗家を仙台に置く有名な氏族一家だった。

 宮城県仙台市を本家とし、諱が『宗』と付く一族は、皆もよく知っているだろう。父、宗雪はその庶流であり、伊予国の一部——宇和島藩を統治していた大名だ。名を伊達だて秀宗ひでむねという。仙台藩初代藩主・伊達政宗の長子であり、そこから分派した一族である。

 癒雨は、父がどうして母を殺したのか、それがずっと理解出来ずに居た。

 無論、反日派の工作員だったからという漠然とした根拠は分かる。

 それでも——だった。

 幼い頃の記憶は、微かだが残っている。

 特撮物の変身グッズを買って来てくれては、よく一緒に遊んだりした。

 車が好きだった父は、よくその類いのレーシングゲームを買い集めていた。癒雨や兄の彗治はそれで一緒に遊んでいた。

 ドライブに連れていってくれたりもした。

 そんな父が、なぜ——。

 癒雨にはどうしてもそれが腑に落ちなかった。

 立派な日本家屋を前に、癒雨は呼び鈴を鳴らす。気怠げな返事と共に出て来た中年男へ、彼はとくに気取ることもなく立ちはだかった。

「——久しぶり、父さん」

 数十年ぶりの息子の顔を見て、一瞬、驚きに目を瞠る男——雪宗。一呼吸の間をおいてから、その存在を今一度確かめた。

「おまえ、癒雨か……⁈」

「訊きたいことがある。うちの母——唐沢美佳について」

 雪宗は、驚かなかった。

 むしろ、ついにこの時が来たのかと、半ば残念そうに視線を下げた。

 嘆息し、彼は癒雨を迎え入れる。

「——入りな。外は冷える」

 中には、他に誰もいないようだった。——当然か。雪宗のよわいを考えれば、祖父母はとうに亡くなっている。再婚でもしていなければ、この無駄にだだっ広い家で一人暮らしであろう。

 居間へ連れられると荷物を置き、軽い茶菓子が出される。

 父は胡座をかき、癒雨を真っ向から見据えた。

「さて、何から訊きたい?」

 癒雨は、遠慮をしない。

「母の血筋と略歴から、離縁した理由まで全部だ」

 自身の身元を自覚し、分際を知る。——でなくては、癒雨の忠義は空っぽのままだ。

 これから先、多くの仲間を募るだろう。そのとき信用を得るためには、自身の身の程を知って置かなくてはならない。

 情報の開示なくして信頼は寄せられない。

 癒雨は、あらゆる覚悟を決めて来ている。

 雪宗も、それを彼の強い眼差しから読み取った。

「——そうか。何やらお前、とんでもない事を企んでいそうだな。だがまぁ止めはせんよ。俺だって似たような事をしたしな……」

 独白するように——真相を語るべく義務感を、自身に言い聞かせる雪宗。一度下ろしたその顔が再度持ち上がると、求めていた事実が語られる。

「——お前の母、唐沢美佳という名は、いわゆる通名なんだ。本名は〝キム 弘尹ホンユン〟と謂い、朝鮮、金家の血を引く一族の逸れ者だった」

 金——それは現在朝鮮を統治している将軍の名だ。

 なるほど——。

 宗幸はその後も淡々と言葉を綴る。

「脱北して日本へと流れつき、通名制度を使って在留し続けた。学歴は朝鮮学校出身でな、同世代の在日朝鮮人で彼女の名を知らない奴は居ないだろうよ。暴力沙汰から薬物の売買まで、なんでもありの悪名を馳せてたからな。あの頃はまだ暴走族やら何やらが居た時代でさ、横浜で朝鮮学校と地元の日本人高校生が乱闘になったりもしたんだ。非合法で金を集めては、とにかくやりたい放題やってたな。その中枢を担っていたのがお前の母だよ。俺も、この事実を聞いたのは結婚してしばらくした頃でさ。彼女の同級生が営んでいた焼肉屋に行った時、その悪名を耳にしたんだよ。調べてみれば、アイツの悪行がわんさか出て来たさ。もう半世紀も前のことだけに、忘れている連中も多いけどよ。俺は我慢できなかった。俺は士族としての血筋に誇りを持っている。だからこそ、それを穢されたことが享受出来なかった。……いや、本当のことを隠されたまま、欺かれ続けていたのが嫌だっただけなのかも知れない。そんな訳で、俺は縁を切らせてもらった。お前たちを産んでしまったことも、後悔してる。混血に生んでしまい、剰えその血が、金家のものだったんだ」

 周知の事実だ。日本と朝鮮金家は犬猿の仲。決して愛入れぬ存在同士。

 癒雨は確信する。

 自身の存在意義。

 異国の醜さを知り、侵食される国の闇を知り、——且つその一翼の血を持ってしまった。

 これは贖罪だ。

 母の罪責——。

 一族の業——。

 それら全てを断絶すべく見出されたのが自分ではないのか——。

 父は、見透かしたように癒雨へと問う。

「その上で、お前はこれから先どう生きる?」

 愚問だ。

 全部正してやる。

 忌々しい血統も、真っ黒に塗り潰されていくこの社会も——。

 余すことなく斬り刻んで、日の光が当たるように——。

「——剣に生きるさ。この日の本を日の本らしくするために、闇は全部斬り裂く。その果てにこの命尽きるのなら本望。元より忌まわしき悪血の命、国のために使い切ってやる」

「……そうか。どうやらお前は問うまでもなく、何かを学んでしまったようだな」

「学んださ。活殺自在——武士の存在意義を」


 ——ある者は謂った。

 〝用いる事を忘れ、所作の見事をもっぱらと成せば、剣は華風に堕ちる〟——。


 ——またある人は云った。

 〝夫兵法は国を治めるの利器也〟——。


 雪宗は立ち上がった。

「ついて来い。お前に渡すものがある」

 案内されたのは、離れにある土蔵——。

 物置部屋と化しており、中は埃だらけだ。扉を開けただけで白煙が舞う。

「うわケムっ⁈」

 一体どれほど手入れがされていなかったのか——この蔵だけ時代が三世紀はさかのぼっている。

「すまん……俺が生まれた時にはすでに誰かが出入りした形跡がなくてさ、多分相当大変なことになってると思う」

「————?」

 蔵の奥から取り出されたのは、白鞘を被った日本刀——。と言っても、白とは到底呼べないほど色がくすんでいる。

 刀が内包されている辺り、さすがは伊達家と感心した反面、刀身を引っこ抜いて唖然とする。

「あいよ……」

 見事なまでの赤錆だ。現物が分からないほど酷く風化している。

「少し早いけど、元服の祝いにくれてやる。あと勝手に出て行ったお詫び」

「いや要らねぇよ。使い物になんねぇだろコレ……」

「研げばいいだろ」

「どっから出てくんだその金」

「俺の財布。二百万くらいあれば足りるか?」

 涼しい顔を向けてくる雪宗だが、一高校生に過ぎない癒雨にとっては気取らざるを得ないほどの金額だ。

「……いいのかよ、そんな大金軽々しく渡して……」

「俺もそう長くないし、使う宛なんてないからな」

 どうやら雪宗には、生を共に楽しむ人物も居ないようだった。

 きっと、彼自身が戒めたのだろう。何せそうやって楽しんできた産物がこれだ。

「——いいか癒雨。志を立てるなら、他者と異なることを恐れるな」

 雪宗の拳が、息子の魂を打つ。

 父からの、最後の贈り物——。

「——例えそれが罪だとしても、未来を斬り拓け。この暗闇のど真ん中で、剣に生きろ!」

 様々な間違いや過ちが彩る世界で、正義を振り翳すことは巨悪だ。

 それでも、その罪業を背負う武き心の在り方こそが、武士ではないのか——。

 父の拳は酷く弱々しくはあったが、その真髄を強く語り掛けるようだった。

 癒雨はその後、岡山へと亘り、刀の研磨と拵の製作を依頼した。

 出来上がったのは、事件が起きる日の二週間前——。

 拵は、潤塗鞘うるみざや肥後ひご金具かなぐ大小だいしょうこしらえ。上塗りに黒添や朱、弁柄などの黒と朱を混合して褐色の漆を塗り、独特な落ち着いた光沢を持つ仕上げにしたものだ。

 赤銅金具の造込みは太刀金具様式であり、九曜店草を腐らかして金小縁で端然と表している。

 鎺には笹に雀の仙台笹紋を入れ、伊達家の家紋を継いだ。

 鍔は蓮の花に烏の飛翔。目貫も烏だ。

 研ぎは見事なもので、誰が観ても紛れもない名刀であった。

 刃長二尺五寸一分。反り五分。銘は『山城やましろの大掾たいじょう国包くにかね』——。

 国包は、伊達政宗によって見出され、仙台藩主・伊達家の抱工として江戸時代を通して代を重ねた名工である。

 初代国包の作風は鎌倉時代の大和保昌派を継承したもので、本作にも典型的に示されている。

 刀身は反りが浅く剛健な姿で、地鉄は柾目がよく詰んだ柾目肌鍛で、刃文は沸づいた直刃に浅い湾れが焼入れられ、ほつれかかり、匂口は明るい。加えて砂流しに金筋が掛かっている。帽子は、刃文が下へ戻らず刃先に延びている焼詰。

「————⁈」

 研ぎ上がった刀を見た癒雨は圧巻した。刀を持つ手が慄えるほどに——。

 斬れる——。

 この刀ならば、どんな暗闇さえも斬り裂き、日の光を示せる。


 そして、令和二十三年。二月末。事件が起きる——。


 その日は、東京では珍しく雪が降っていた。

 標的と、護衛に着いていた四人の男たちは傘を差し、真夜中の山王下を降っていく。

「いやぁ〜、にしてもこれで私達の立場も安泰ですな!」

「国民からの評判は下落傾向にありますが、何れにせよ我が国の命運は諸外国にあり‼︎ 中韓と協力し、より良い文明社会の確立を! それが私達の目指す新時代日本ですから‼︎ 事実として、某ゲーム会社の進出が、日本経済の中心となっている事からも、彼らの力があれば、少子高齢化など問題には——」

 首脳官邸前の小道へと入ったところで、彼らは一人の男を前にする。

「——斎場誠司首相とお見受けする」

 着物に袴を履き、本差と脇差の計二振りの刀を差した若い青年——。その危険な容貌に、護衛の男達は即座に警戒体制を敷いた。

「首相! 下がって!」

「そういう貴方こそ何者だ‼︎」

 首相を護るように立ちはだかり、傘を閉じる男達。懐にあるであろう拳銃に手を掛け、怒号と共に青年を牽制する。

 しかし、青年——唐沢癒雨は、彼らの詰問に、獅子の如き疾走で応えた。

「止まれ——っ‼︎」

 男達の拳銃が抜かれ、その銃口が、向かってくる癒雨に向けられる。

 正しく狩人と獣のような情景。

 癒雨は彼らが銃を向けて来たのとほぼ同時に鯉口を切り、撃つべきか否かを迷う男達に、容赦なく抜刀した。

 はらわたを掻っ捌き、右袈裟を斬り刻み、頸動脈を切断して心臓を穿つ——。

 一呼吸にも満たない一瞬の間に、四人の護衛を斬り伏せた。

 そして、逃げる標的斎場へ十字手裏剣を放ち、アキレス腱を断つ。

「ゔあァ——ッ‼︎」

 逃れる術を失った彼を捉え、再び地面を踏み抜いたまさにその瞬間——。

「おのれえええぇぇぇぇ————ッッ‼︎」

 右袈裟を斬られた男が、最後の力を振り絞って立ち上がったのだ。

「————ッッ⁈」

 肺を両断したはずだが、その浅い斬り口から、絶命には至らなかったようだ。——いや、だとしてもだ。絶望的な痛みの中、再び挑んでくるその勇姿には、素直に目をみはった。

 今の日本において、それほどの忍耐力を持つ者がまだ居たとは——。

 怒号が聴こえた瞬間に片足を半回転させ、二寸五分の影を踏んだ癒雨。同時に放たれた弾丸を運良く凌いだ。——全くのまぐれである。

 修行によって身に付いた習慣から、咄嗟に間合いを外す癖があるだけで、当然ながら、意図してかわわせたわけではない。

 癒雨自身も、内心かなり驚いている。

 しかし、この機を逃しはしない。

 せめてそのまま寝ていれば見逃していたものを——立ち上がったのが運の尽きだったな。

 跳躍し、地表を跳ねたそのカラスは、自身の黒い翼を真っ向から振り下ろした。

 頭蓋骨をかちり、美濃伝風の刃がその脳髄を粉砕する。

 ——さて、思わぬ邪魔が入ったが、本命はお前だ。そんな殺意をおもてに載せ、唐沢癒雨は斎場誠司へと歩み寄った。

「——ま、待ってくれ‼︎ 要求はなんだ⁈ こんな事して、何の意味がある⁈」

「——要求はお前の死ただ一つ。意味があるかどうかは、あの世で結末を見守っていてくれ」

 冷酷な眼差しと共に、癒雨は斎場の心臓に刀を突き立てた。


 ——彼らの遺体が見つかったのは、日が昇ってすぐのこと。

 ジョギングをしていたランナーが第一発見者となった。


「斎場が殺されたってホントなの⁈」

「嘘つく道理がどこにあんだよ」

「これからの政治はどうなんの? 次の首相は?」

「これってチャンスなんじゃね? この選挙でちゃんとした奴を選べれば——」

「どうせ斎場政権の誰かになるだろ」

「え、他の政党からって選べないの?」

「ググれカス」



『——えぇ〜。これまで日本を代表し、国内の様々な問題に従事して下さった斎場首相へご哀悼の意を捧げると共に、彼の努力、功績、そして志を無駄にしないためにも、今後の首相選定は、我々斎場政権の中から選挙をする事に決定致します』


「はぁ⁈ ふざけんじゃねぇ‼︎ それじゃあ何も変わんねぇだろ‼︎」

「誰選んだって同じじゃねぇか‼︎」

「おいクソジジイ‼︎ ならせめて一発殴らせろオォッ‼︎」


 国民の不平不満が咆哮となってSNS上を飛び交う中、斎場政権副総裁を務める男——麻倉あさくら宗一郎そういちろうら一行は、東京都赤坂に位置する日本料理邸の個室で暢気のんきにもさかずきしていた。

「——せっかく諸外国と繋いだ縁。そして我々の立場安泰を手放す訳には参りません」

 注がれる酒に、麻倉は鼻を鳴らす。

「ふん。お前ら青二才の頭にあるのはそれだけだろうよ。生い先短い私達にそんなものは無用の長物だ。憲法上、万が一があっても、我々日本は諸外国に手出し出来ん。今ここで功徳くどくを積み、各国の内情を探らなければ我が国は地に落ちる。戦争の危機を回避する為に必要なのはコネだ。大切なのは各国合併による共存。——一つの国として独立していては、幕末の二の舞だ。停滞し、進歩した他国の文明に押し潰される。そうならない為にこそ、国交維新が必要なのだ!」

 相変わらず、年寄りは話が長い。そしてこの話はもう幾度となく聴かされた。

 苦笑を浮かべながら、空になった麻倉の杯を再び満たす。そこへ——。

「——失礼します。麻倉様、お客様がお見えです」

「何者だ」

「名を大野結葵おおのゆうきと名乗っており、何でもユーチューバーとして、麻倉様の政策を強く推し、それを国民の皆様へ賛同してもらうべく、撮影に協力していただきたいと申しております」

「……………」

 聴かぬ名だ。麻倉の知る人物ではない。それに、この期に及んで賛同者と言う話もまた信じがたい。

 だがもし本当ならば捨て置く訳にも行くまい。

「……通せ」

 彼の指示に付人が誘導すると、そこに白い能面をかぶった人物が現れた。

 左肩にはカメラの三脚を収納するための長いバッグケースが下げられ、自称する通りの貫禄かんろくが見受けられる。

 しかし、素性が分からない上に斎場誠司の事もある。

 座敷内に居た五人余りの男達が麻倉を守るように位置を変えた。

 麻倉は一番奥。畳三畳分は先だ。彼はそこから尊大な態度で顎をしゃくる。

「ユーチューバーとは奇天烈な奴が多いと聞くが、これは言わばビジネスの場でもあるんじゃないかね? そこに能面とは、無礼だぞ」

「これは失礼致しました。麻倉副総裁——」

 訪問者の男が能面を取ったその瞬間、場が一瞬にして凍りついた。

 見覚えのある顔だったからだ。

 否、見覚えしかない。

 知ってなお避けるべき人物だった。

「お前は——ッ⁈」

「流石は国の頂点に位置するお方——。やはり私の顔はご存知でしたか——」

 言いながら三脚ケースを開く男——。その中に撮影道具の影は一つとして見当たらず、在るのは二振りの日本刀。

「——‼︎」

 刹那、脇差の鞘が瞬きを許す間もなく払われ、抜き打ちに男一人のかすみ顳顬こめかみのこと)を斬り砕いた。

 鮮血が飛び、それが壁や畳へと落ちる須臾しゅゆ、次の攻撃が二人目を襲う。

「ぐお——ッ⁈」

 間一髪、懐から取り出した銃身で二人目の男はこれを防いだ。そのまま競り合いが続くとも思われたのも束の間。癒雨からして見れば、この人数を一人で片付ける為にはたくみな斬撃よりもとにかく速さがかなめだった。

 刃が銃身に衝突したと認識した時には、身をわきへと退きながら相手の籠手へ柄頭を回し込む。——いつしか誰かさんに掛けられた技。

 ギョッとする男に全体重を乗せ、畳へと圧し潰す。

「ぐあ——ッ⁈」

 彼の籠手を斬り裂き、銃を奪った癒雨は、そのまま彼を盾に銃撃戦に持ち込んだ。

 結果は語るまでもなく——。

 凄まじい轟音と断末魔に、店の者が血相変えて駆け寄るも時すでに遅く、現場は血の海だった。

「——————⁈」

 悲鳴を上げんとする女将の口を瞬時に塞ぎ、癒雨は彼女へ一通の手紙を残した。

「警察が来たらこれを渡せ」

 そう言って、彼は料亭から姿をくらました。

 後に遺されたのは〝斬奸状〟と記された手紙と、それをしかばねそばで弱々しく抱え、恐怖に怯える若い女将一人だけだった。



 事件はすぐに報道された。

 しかし、世間から向けられたのは哀れみでも追悼でもなく——。


「——おいおいマジかよ!」

「——はい斎場政権オワコン」

「——正義の裁き下りました〜」

「——こう言うのをって言うんだろ?」


 何より問題だったのは斬奸状に書かれた内容だった。


 〝草莽崛起そうもうくっき——在野よ立ち上がれ〟


 ——以来、国中で『打倒斎場政権』を掲げた者達が一斉にして攘夷を掲げ立ち上がり、国内の治安は次第に乱れて行った。

 斎場政権に所属する政治家への誹謗中傷から始まり、その嫌がらせはやがて実体化した。

 実家へ中傷的な手紙や脅迫状、殺害予告を送りつけ、更には街を歩く彼らへ石礫いしつぶてを投石する者も現れた。——ことは更に肥大化し、暴力的な嫌がらせに便乗するやからが後を絶たず、一年もした頃、政治家の中で死人が出始め、それを嘲笑するかのように、国民による攘夷運動は本格的な発展を成した。

 外国人旅行客や留学生への執拗なまでのいじめと差別。動機には国民主権を取り戻すためだと、人々は大層な大義名分を付けた。

 無論、徳島県もこの動乱の例外にはならず、地道にふとっていく国民の攘夷思想に連鎖し、彼方の空にそびえる雲も、次第に大きく膨れ上がっていった。

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