第3話 大好きだから

   第二節 大好きだから



 乾燥した空気を、灰色の雨だれが潤す。ただでさえ冷たい空気を無遠慮に冷却していき、生きとし生けるもの達を、より一層凍えさせる。

 鋼色の天蓋は広がるはずの青き景色を一緒くたに染め上げ、不格好にも殺風景な白黒の世界を描き出す。——そんな寒空の下、凍結した道場で一人、刀を振る少女が居た。

 道着の準備も、刀の手入れも、道場の清掃さえ一通り終えてしまい、冷える体を温めんと体を動かす純白の少女——。

 待ち人は、定刻の時間より一時間を過ぎても現れなかった。

「遅いなあ……」

 堪え切れない寂しさを静かに独白する。何せこんな事は初めてだった。堅忍質直けんにんしっちょくな彼が時刻を見誤り、あまつさえ遅刻するなどあり得なかった。

 いつもなら、愛鐘が来る頃には、全ての準備整えて自主練をしているのに——。

「……何かあったのかな……」

 望まぬ不幸のきざしがつい頭をよぎり、堆積たいせきする不安から彼の身を案じる。

 ——無理もない。

 定められた日常が狂い始めれば、誰だって後ろ向きな思考に走ってしまう。

 凍える空気に、更なる寒さを感じた彼女。

 現実は、酷く冷たかった。

 師範、乃木若景が道場の床を踏むと、突拍子もなく平然と告げてきた。

「——学校お疲れ様、愛鐘。急で悪いけど、癒雨くんはもう来ないよ」

「え——?」

「やることがあるからって言って、自分で退門したよ」

 酷く、本当に酷く凍える空気が、愛鐘の心を蝕んだ。

「な、なんで……」

 震える声に、されど冷静を装う。

「どうして止めなかったの……?」

 けれど、それは甚だしいまでの間違いだと気がつく。

「…………? 止めるも何も、彼にやることがあるなら、そっちを優先させるべきだろう。邪魔立てをする権利なんて、私たちにはないよ」

 ぐうの音も出ない。

 それでも愛鐘は腑に落ちなかった。納得出来なかった。

 すぐに鞄の中から携帯を取り出すが——癒雨はどんな連絡手段も持ってはいなかった。

「……………」

 再度、若景を睨み上げた。

「どこに行ったか知ってるの?」

「……すまないが、私は何一つ知らないよ」

「なん——」

 焦燥に駆られ、強く問いただそうとした瞬間、愛鐘は自覚する。

 ——そうだった。

 ——愛鐘とて、何一つ彼のことを知らなかった。

 ——思えばいびつだ。十年という長い期間の中、毎日のように一緒に居たはずなのに、愛鐘たちは何一つ、本音で話し合ったことがない。

 愛鐘は太陰館を飛び出し、雨中を駆け回っていた。

 ありえなかった傾向。——あるいは自身が気付いていなかった彼の実情に、己を憎む。

 今にして思えば、彼は強さに執着し過ぎていたと思う。

 何かを焦っていたようにも思う。

 何が彼を追い詰めていたのか——解るわけもないのに、必死になってその実態を探った。

 けれど、答えは全く見つからなくて、舞い上がっていた身勝手な想いが、降り頻る雨によって滲んで行く。

 まだらになっていく真っ赤な気持ち。

 色褪いろあせていく、日々のいこい。

 愛おしかったはずの毎日が、今や雨の下で色を落としていく。

 くつの中はもうすっかり水に浸り、刺していた傘は、その役目を果たしてはくれなかった。

 掘り起こされる十年前の記憶——。


「——癒雨くんには負けたよ。だから、はい」

「これは……?」

「太陰寮の鍵。遠くから来てる門下生も居るから、寮の貸し出しをしてるの。どう?」


 あの時、癒雨はその鍵を宝物のように握り締め、愛鐘の前で初めて笑った。


「——俺、ここに来て良かった。愛鐘と逢えて、良かった」


 あの日見せた彼の笑顔は、決してまやかしなんかじゃない。

 愛鐘はもはや傘を刺すことすら忘れて、暮れかけた雨天の下を惑う。

「——癒雨くん。早く見つけないと……。早く、伝えてあげないと——」

 けれど、彼を見つけ出す術はおろか、手掛かりすら今の愛鐘にはない。

 間も無く完全に日が落ちる。

 夜になれば、益々見つけるのは困難になるだろう。

 雨の中では月明かりも期待出来ない。

「どうしよう……」

 落ちてくる雨粒を見上げ、天にぐ。

 愛鐘は彼を見ているようで、何も視えてはいなかった。

 ただ漠然と今の彼に惹かれ、本当の姿を見ようとしなかった。——いや、本当は恐れていただけなのかも知れない。

 真実を知って、この淡い恋が冷めてしまうこと——。

 初めて誰かと対等になれて、初めて誰かを好きになった、甘い幸せの終わりを——。

 そして、少年凶器を握り、殺人術剣術を求める理由に——。

 いつかの満月のように、大地を俯瞰出来たのなら、きっと彼の全てを知れたのだろう。けれどそれは酷く恐ろしい。

 知りたいけど怖い。その矛盾した二つの感情に悩まされ、頭を抱える。そこへ——。

「愛鐘? 何してるの?」

 聴き馴染みのある声が、打ち付ける雨の音を消し去った。

「——美海ちゃん……」

「なんで傘刺してないのよ!」

 やや慌てた様子で駆け寄り、愛鐘を自身の傘に入れる美海。ポケットから手拭いを取り出し、彼女の頬に当てた。

「びしょ濡れじゃない。風邪引くわよ……。早く道場に——」

 丁寧に水を拭き取ってくれる美海。その暖かさが、この寒冷化した雨だれの世界では、一際暖かく感じた。

 氷解する雪原のように、愛鐘は堪え切れない悲恋を打ち明ける。

「……美海ちゃん、どうしよう……。私、癒雨くんのこと、何も見てあげられてなかった。癒雨くんの気持ち…何も知らずに——」

 彼が理想の剣を求めていたのなら、愛鐘の剣は果たして、彼に応えられていたのか——。それが今一番の不安。

 だけど、事の経緯を知らない美海は当然、いぶかしげに首を傾げる事しか出来ない。

「何があったのかは知らないけど、唐沢君ならさっき、鳴門線に乗るのを見かけたけど。私も池谷から帰ってきたばかりだから、入れ違いだったみたいね……」

「それって……。どこに行ったか分かる……⁈」

 彼方を向きかけた美海の傘を握る手に、襲い掛かる勢いでしがみ付く愛鐘。

 流石の美海も、思わず困惑するが、相変わらず表情には乏しい。

「——え、いや、流石にそこまでは……」

 そりゃそうだ。

 だが、ならば今はとにかく鳴門駅を目指す。

「……ありがとう美海ちゃん!」

 軽い礼を言って、愛鐘は水の張った地面を蹴り進んで行く。

「ちょっ——⁈ 愛鐘‼︎ 風邪引くわよ‼︎」

 遠のく美海の声を背に、鳴門駅を目指す。

 あとは訊き込みだ。

 鳴門駅へと着いた愛鐘は、目につく自分へ片っ端から癒雨の写真を見せつけた。

「この子見ませんでしたか?」

 三回目ほどで、電車の乗務員室から降りてきた駅員が知っていると声を上げた。

「その子ならさっき、池谷で降りてったよ?」

「ありがとうございます!」

 愛鐘は池谷にて降車した。

 やることは同じだ。

「あの、こんな子見かけませんでした?」

 先程の教訓から、往復してきた電車の乗務員に尋ねた。すると容易く——。

「あぁ〜、高松で降りてったよ。手ぶらで池谷から乗ってたからちょっと気になってたんよね」

 高松——香川県だ。もう既に県境を跨いでいる。

「かたじけない‼︎」

 愛鐘は高松へと亘った。

 しかし、ここで転機が訪れる。

 なんと大雨の影響で、全ての路線が著しく遅延しているようだ。

 追いつけるかも知れない。

 元氏族の家系をナメるなよ。

「へいタクシー‼︎」

 情報は既に経ている。

 癒雨はJR戦に乗ったとある。ならば片っ端から駅の全てを調べるまでだ。

 数多くある駅の内「見た」と明言したのは宇多津駅の職員だった。

「——あぁ、その子ならさっきこの駅で見かけたわよ。なんか愛媛の宇和島市に向かいたかったみたいでね、遅延していることに苛立っていたのか、到着は何時頃になるのかって尋ねて来たのよ。けど、この時間帯で宇和島駅……それも遅延の差は開くばかりでしょ? だから、到着する前に終電が来ちゃうわよって言ったら、ここで降りてったわ。どこかに泊まるつもりなんじゃないかしら——」

 池谷の駅員が手ぶらだと言っていたが、彼にそんな資金があるのか——甚だ疑問だ。

「分かりました、ありがとうございます」

 しかし、こうなるとタクシーによる送迎はここまでだ。

 愛鐘は運賃を支払い、宇多津市を探索する事にした。

 雨が止む気配は一向に訪れない。

 空は未だ真っ黒な蓋をしたがえ、星も月も覆い隠したままだ。

 地面を打ち付ける雨音が、あらゆる情報をまだらに染色する。

 けれど、愛鐘の心にあるのは、いつだってたった一人の事ばかり。それは今とて変わりない。胸に灯った金宝樹の花が枯れる事も、してや萎むことさえ有りはしない。

 溜まれる水のつゆはらい、宇多津の町を徘徊する。

 住宅街はもちろん『青の山』『宇多津古町』『常磐公園』と回った。此処は宇多津でも有名な観光名所だが、流石に土砂降りの雨の夜となると、人の気配はまるで無い。無論、追い求める彼の姿さえ望むべくもない。

「——あとは……」

 闇の中でも凛然と聳える巨大な橋梁きょうりょう——瀬戸大橋。その高架下に、まだ道のりは続いていた。

 遠間隔で点在する街灯を唯一の頼りに、道を進んでいく。

 きっと晴れていれば星が良く見えるのだろうと、無意味な期待を残す愛鐘。その果てに、思い人との星見を夢に見た。

 二、三キロは歩いただろうか——。

 愛鐘は、瀬戸大橋記念公園に足を踏み入れる。

 立ち並ぶヤシの木の模造品。その足元には細く小さな噴水が道に沿って連立する。その彼方に、記念館と思しき施設と、虹の弧を表現した立体物が佇む。

 辺りを見回しながら、着実に歩を進めていく愛鐘。するとその暗闇から人と思しき影がかすかに見え始めた。

 見覚えのある佇まい。紛れもなく——。

「——癒雨くん」

 向こうに聳える施設は、中に入らずとも、左右に備え付けられた階段から屋上のいおりへと登る事が出来る。雨をしのぐことくらいは容易いだろう。そこでようやく確信した。家にも学校にも、彼に居場所はないのだと。太陰館だけが唯一の拠り所だったのなら、尚更彼を連れ戻す必要がある。そうでなければ、まだ知り得ぬ彼の苦しみは終わらない。

「——帰ろ? 癒雨くん。こんな所に居たら風邪引いちゃうよ。——帰って、癒雨くんの抱えていること、私に話して欲しい。たとえどんな事があったって、私は癒雨くんの傍にいる。絶対離れたりなんかしない。私は、ずっと癒雨くんの味方だよ?」

 今まで、訊いてはいけないような気がしていた彼の内状——。何せこれは凄く個人的な質疑であり、彼のパーソナルスペースへ真っ向から踏み込む行為。最悪地雷ともなり得るその繊細な間合いに、愛鐘はずっと躊躇ためらいを覚えていた。これを訊くこと——、彼の中でつっかえていた醜悪を言語化することが、彼の傷を更にえぐるかも知れないからだ。それで彼に嫌われしまう事が、すごく怖かった。

 だけど、彼はずっと何かに追われ、いつも辛そうにしていた。笑う事なんて一度限りで、ずっと何かをあせっていた。彼を愛して置きながら、それを見て見ぬふりするなど言語道断。

 この弾丸のように降り積もる雨に打たれて覚悟は決まった。

 彼の全てを受け止めると。如何なる運命も、苦しみも、一緒に背負って行こうと。

 愛鐘の懸命な訴え——、必死な声音に、癒雨はゆっくりと彼女との間合いを縮めて行く。

「癒雨くん……」

 ようやく、心を許してくれたのかと、癒雨に大きな期待を寄せる愛鐘。

 しかし、彼の口から出た言葉は、その細やかな願いを無慈悲にも両断するものだった。

「——ダメだ。これは俺の問題だ。俺がすべき事なんだよ」

 過ぎていく彼の横顔。もはや泣いているのかどうかさえ分からないほどに、雨に塗れた酷い顔だった。

「——待ってよ‼︎ 私言ったよね‼︎ 何があっても、離れたりなんかしないって……‼︎ だから——‼︎ だから、癒雨くんの秘密、私にも背負わせてくれないかな……。そしたらきっと、辛いことは半分こだよ。一緒に解決出来たなら、きっと喜びは倍になると思うの」

 真っ直ぐ真剣に向き合おうとする愛鐘の瞳は、いつになく力強く、あの時の彼のように、鮮烈な光を灯した。あの時、自分を信じてくれた彼のように——。

 されど、彼にもう、あの時の光はない。そもそも、あれは一時いっときのみの輝きだったこと、今になって思い出す。

 再び向き直る癒雨の体。常闇にけぶる彼の瞳が、一層不気味に沈んでいく。

 空白が、辺りを真空に変えた。

 水溜りに一つの影を浮かべる癒雨の様子は、どこから話せばいいのか迷っているようでもあり、そもそも話すべきかを決断しているようでもあった。その末に答えが出たのか、彼は思いの丈を雨音に滲ませる。

「————————」

 迫害——。

 暴力——。

 虐待——。

 幽閉——。

 搾取——。

 抑圧——。

 束縛——。

 そして、それら全てによって欠陥した人としての常識が、今や呪縛となって永遠に彼を苦しめる悲惨な事実と現状。

 未来は閉ざされ、幸せを奪われた。

 明かされたのは、さながら奴隷のように酷な過去。

 思わず絶句し、愛鐘は掛けるべき言葉を見失う。

「——だからもう俺に関わるな。剣術を教えてくれた事には感謝してるんだ。ありがとう。けど、これ以上はきっと愛鐘を不幸にするから……」


 否定と侮辱だけが、生涯与えられた癒雨への祝福——。


「——でも‼︎」

 一際大きな鐘の音が、閉じかけた癒雨の耳を打った。

 寒さにかじかむ身体を叩き起こすかのような、鋭い一声。

 消え入る癒雨の背中を、見知らぬ呪いが縛りつける。

 少女は、彼の一瞥いちべつすら待たずして、導き出した自身の解答こたえを言葉に乗せる。

「——でも、それで癒雨くんは、それを正したいって、思ったんだよね?」

「————⁈」

「自分がされて嫌だったこと、他の人に同じ思いをさせたくなくて、刀を握ったんでしょ?」

 理想的な愛鐘の言葉に、思わず目をみはる癒雨。

 諦めていながら、——されど密かに望んでいた言葉が、いま目の前にある。

 ——驚いた。

 理想が、目前に訪れること——。

 だけど——。


『 この世の闇に触れた者は—— 』


 反響する呪いに頭痛を覚え、頭を抑える癒雨。

 愛鐘はもう知っている。彼が優しいこと。彼が誰よりも気高く生きてきたこと。

「——皆んな簡単に言うけど、実は難しいことなんだよね。自分がされた嫌だったこと、人にしちゃいけないって。生きていく中で、皆んなが忘れちゃうその痛みを、癒雨くんはずっと胸にしまったまま、変えようとしている。みんなの為に——。それって、とっても優しいことで、癒雨くんが強い証だよ」

 痛みを生涯忘れる事なく、胸に抱えたまま、それを糧に生きていく事は、きっと相当な忍耐力がいる。それを踏まえた上で、愛鐘は改めて、自分の胸に灯った想いを受け止める。

 ——私は、唐沢癒雨が好きだ。大好きだ。

 ——彼を好きになって良かった。

 ——好きになったのが彼で良かった。

「——癒雨くんのその優しさを、もっと多くの人に知って貰えれば、きっと協力してくれるよ‼︎ 一人で抱え込む必要なんてない! 私や美海ちゃんだって居る! だから——‼︎」

 彼の理想は愛鐘の強さがあれば間違いなく果たされる。

 だから頼って欲しい。

 一緒に同じ夢を見て、同じ道を歩いて、同じ未来を一緒に——。

「——他力本願じゃ何も変えられないって教えてくれたのは、愛鐘じゃないか。それでもそんな世迷言が吐けるのは、お前が知らないからだ。この世の闇を——。〝誰かがやってくれる〟——あるいは〝誰もやらない事はやらなくていいことなんだ〟と、その醜悪が、この世の中を腐らせているんだよ。けれど生きとし生ける多くがその実態を知らない……。光に目を焼かれ、健やかに命を育んで来たからだ」

 体の芯にまで届くような凍える声音が、深々と吹きつけた。

「ゆ、ゆうくん……?」

「知らない奴に何が見えるって言うんだよ。知らない奴に何が出来るって言うんだよ! これは俺の使命だ‼︎ あの闇を生き抜いた俺の責任だッ‼︎ お前には関係ない——ッ‼︎」

 次第に熱を帯びていく癒雨の言葉、声——。

「で、でも……、このままじゃ癒雨くんは幸せになれないよ⁈ きっと生きづらいよ⁈ もっと気楽に生きたって––––」

「そんなもんは最初はなから覚悟の上だ‼︎ 気楽に生きる——そんな言葉を吐けるのはお前が光の住人だからだ‼︎ 真っ黒な世界で生きた人間が楽な道を知ると思うか⁈ お前が闇を知らないように俺も光を知らない‼︎ 光を知らない俺が、光の道を歩けるはずないだろ‼︎」

「私が教えるよ‼︎ 楽しいこと、嬉しいこともいっぱいあるんだって、私が教えるよ‼︎ 私はあなたの師範代だもん‼︎ だから、だから……、幸せになろうよ––––」

 徐々に露を潤ませ、燻んでいく黄金色の瞳。

 だけど、それではきっと、癒雨は癒雨自身を曲げてしまう。

 きっと誰もが歩んできたであろうその道変動。さむらいこころざした癒雨にとっては、その醜悪がどうしても享受きょうじゅ出来なかった。

「——ダメだ」

「え……?」

 絶望の声が、愛鐘の口からこぼれ出る。そこに追い打ちをかけるように、癒雨の怒号は頑なに自身の信念を貫き通そうとした。

「闇を知っておきながら、それを放棄して幸せになろうなんて、——俺には出来ない‼︎ 他者のそれらを黙認し、見て見ぬふりをするなんて、——そんな事をしたら、俺は尚更、俺自身を許せなくなる」

 どこまでも優しい、愛鐘の大好きな人。

 しかしその優しさが、彼自身を滅ぼす。

 愛鐘にとってはそれが、どうしようもないほどイヤだった。

「待っ——‼︎」

 去り行く癒雨の袖を掴もうと踏み出したが、彼の姿はもう、ずっと遠かった。

 倒れ伏せる愛鐘を置き去りにし、癒雨は彼女との道をたがえた。

 氷結した地面が、体の中で確かに燃えていた淡い熱を、無遠慮に奪っていく。

 そうして、愛鐘は——恋を失った。



 ——傘も持たずに宇多津町へと向かった愛鐘が放っておけず、あの後美海はコンビニで傘をもう一振り仕入れて、宇多津町へと向かった。

 しかし、辿り着いてみれば、その惨状は最悪だった。

 まるで捨てられた子犬のように、親友が土砂降りの雨に浸って泣いているのだから。

「——愛鐘‼︎」

 滝のように降りしきる豪雨の中でも容易に理解わかるほどの涙の数。

「愛鐘しっかりして‼︎」

 駆け寄り、うつ伏せになって地面に倒れ込む愛鐘を必死に支える。

 彼女に触れて絶句する。

 酷く冷たい身体。触れた手が瞬く間に凍りつくような、信じられない程の低体温だった。——それでも、美海は親友を思い、優しく抱き抱える。

 氷晶や固体炭酸とも見紛うほどに冷たい。

 宇多津此処から鳴門まで二時間は掛かる。明らかに保たない。

「——どうしたら……」

 辺りを見回し、助けを懇願するも、近くに人らしき影はない。

「くそ……っ‼︎」

 タクシーを呼ぶしかないか——。

 そして、美海がおもむろに携帯を取り出した時、愛鐘がその腕を掴んだ。

「————⁈ あかね?」

「……美海……、あたし……癒雨くんを助けてあげられなかった……」

 凍てつく涙を止めどなく滴らせる愛鐘に、美海の心は堪えていた感情を等々抑え切れなくなる。

 ——一つは悲しみ。親友が抱えてしまった失恋と後悔は、親友だからこそ見過ごせず、伝わってくる温度に胸を締め付けられた。

 ——二つ目は怒り。あれだけ彼を愛していた親友愛鐘を、彼自身の手でこんなにも無慈悲に切り捨てたことが許せなかった。

「……助けたかった……助けてあげたかったのに……、あたし——ッ‼︎」

 強く、深く——、こちらの体温全てを譲渡するような思いで、美海は愛鐘を抱き締める。

「もういい……。もういいから……」

 せめて自分だけは泣くまいと、彼女の美貌を胸の奥に留めて露を堪える。

 せめて自分だけは、愛鐘を支えられる余裕を持たないと——。

 そして等々、美海の甘い温度に、愛鐘の氷結していた心が溶解を始めた。

「ゔぁあああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああぁぁぁぁあああああああああぁぁぁぁぁああああああああぁぁぁああああぁぁぁぁ————ッッ‼︎」

 美海の温もりを唯一の拠り所とし、すがり付く思いでありったけの涙を吐き出す。

 その影で、美海は歯を喰い縛り、唇を深く噛み締めた。血が滲み出るほど、強く——。

 気がつけば、降っていたはずの雨は、真っ白な粒子に変わっていた。



  ——積もり雪 冷へる憂き暮夜 重ね衣 君ぞ思へど 月の叢雲。



 窓から射し込む日の光で目が覚めた。

 時刻は八時。

 体調は非常によろしくない。

 酷い倦怠感で全身がなまりのように重く、何より暑い。内側から火を焚かれているようだ。

 額に手を当て、自身の体温を測る。——はい。発熱してますね、これ。

 辺りをよく見てみると、見慣れない部屋の造形に家具も知らないものばかりだった。

 けれど、いずれもどこか懐かしさを感じる。

 ——思い出せない。

 そもそも頭痛が酷くて頭が回らない。

 半ば詮索を諦め、再び天井を見上げるのと同時に、部屋の扉が開いた。もちろん、一人でに開くなんて事はなく、外から誰かが入って来たのだ。

「——あ、目が覚めた? 具合はどう?」

「……………。美海ちゃん……」

 そうだ思い出した。此処は美海が鳴門市で借りているアパートだ。一度だけ来たことがある。

 ちなみに具合は最悪だ。

 だけど、それよりも今は状況の把握が先だ。

「……あたし、なんで此処に……」

「昨日の夜のことは覚えてる?」

 ——正直思い出すと憂鬱になるが、覚えてはいる。

 癒雨と決別して、それで——。

「あの後、タクシーを呼んで貴女を此処まで運んだの。月岡家は広いわりに住んでいるのが貴女とご両親だけでしょ? 看病するのも大変かと思って、私が請け負う事にしたの」

 なんだそういう事か——。

 ——ん?

「い、いやいやいや——‼︎ そんな悪いよ‼︎ 完全これ私の問題だし‼︎ 第一これじゃあ美海ちゃんに風邪移しちゃうよ‼︎」

「あ、こら暴れないで‼︎」

 持っていた御膳を傍らの机に置き、起き上がろうとした愛鐘をなだめる美海。

 阿州の鬼小町も風邪を引けばこんなものか——。

 全く力を感じない愛鐘の体をベッドに押し倒し、そのまま覆いかぶさるように、彼女の顔へと這い寄る。

「ぅうえぇ——ッ⁈ み、美海ちゃん——ッ⁈」

 何を予感したのか——。あるいは勘違いしたのか——。覚悟を決めたように——いや、半ば待ち望むかのように、愛鐘はそっと目を閉じる。

「……………っ! …………?」

 うっすらと恐る恐るまぶたを開けると、そこには、愛鐘の額に自身の頭を乗せる美海の姿があった。

 愛鐘は寸分僅かに落胆した様子で肩の力を抜くも、反面、まだ顔は強張ったままだった。

 何せとてつもなく距離が近い。

 艶やかな黒髪からは甘い香りがただよい、見目麗しき大和撫子の美貌がすぐ目の前にある。

 鼓動が高鳴る。

 同性とは言え、ここまで来ると流石に意識せざるを得ない。

 ただでさえ熱で火照っている顔が、より一層熱くなる。

 ヤバい。変な気分になってきた。

「……………。ん〜、昨日帰ってきた時より若干上がってるわね……」

 そう言うと、美海は愛鐘との距離を離した。

 心臓が張り裂けるかと思った。

 友達の関係がプルス・ウルトラするかと思った。

「……た、体温計使えばよくない……?」

「そんなの使うより、私が測った方が早いわ。こう見えて温度には敏感なの」

 莞爾かんじと微笑む美海。

 そういう問題ではないのだが——。

「……だ、だとしても、これはちょっと……心臓に悪いからやめて欲しいかも……」

 何やら恥ずかしげに視線を逸らす愛鐘。それを面白いと思ったのかは不明だが、美海はこれ見よがしに蠱惑的こわくてきな笑みを浮かべ、再び愛鐘へとすり寄っていく。

「あら、もしかして変なこと想像した?」

 愛鐘の傍らに手を置き、どさくさに紛れて彼女の指とを絡める。

「み、みみみみ、みな——っ⁈」

 再び距離を縮めていく二人の空間。愛鐘の黄金色の瞳に、美海の碧眼がより一層大きく写り込む。

 美海の吐息が顕著に伝わり、潤い豊かな実に瑞々しい彼女の唇によこしまな意識が覚醒する。あわやそれが重なり合う寸前、愛鐘は意図せず目を伏せ、そして——。

「ふぐっ——‼︎」

 何かを食わされた。

 再び目を開ければ、そこにはスプーンを持った美海の姿があり、既に物は放り込まれた後だった。

「——どう?」

 柔らかく温かい。仄かに酸味のある何かが口の中で咀嚼そしゃくされる。

「……………。美味しい……」

「——そう。なら良かったわ」

 華やかに微笑む美海。

 愛鐘は、また揶揄からかわれたのだとやや屈辱的に思いながらも、向けられる好意と優しさにそれ以上の尊さを感じた。

 差し出されるおかゆを堪能しながら、美海の真心を余すことなく味わい尽くす。

「全部食べられそう?」

「……うん」

「そう」

 愛鐘のペースに合わせて白粥をすくい、ゆっくりとその口元へと運んでいく美海。彼女は言葉自体は素っ気ないが、これでも信用のない人——あるいは、好いてもいない相手に、ここまでの事は決してしない。

 感情表現が苦手なだけで、これが彼女の精一杯の愛情なのだ。

 不思議と、凍えていた愛鐘の体は温まり、心の温度も徐々に正常を取り戻していった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る