第2話 常闇に哭く烏

   第一節 常闇にカラス



 現代でよく謳われる〝多様性〟や〝共生〟などという世迷言は、都合の良い理想論だ。決して実現することなどない。俺は、それを誰よりもよく知っている。

 現実を目の当たりにしたのは、齢六歳の頃だった。

「——はァ…ッ⁈ はァ…ッ⁈ はァ…ッ⁈」

 時代は平和百周年——。

 太平洋戦争以来、一度も戦争をしてこなかった日本は、その偉大なまでの政策と歴史に誇りを持っていた。日本国憲法第九条に記載された綺麗事は実現され、国民も、武力無き姿の正しさを知った。

 しかし、現実は違ったのだ。

 武力ではなく、この日本は〝伝統〟を武器にして、世を乱す反乱分子を密かに抹殺していた。その内の一つが、俺の親だった。

 唐沢からさわ美佳よしか——彼女は朝鮮人だった。俺もこれを、彼女の首が落とされる瞬間まで知らなかった。

 四肢を拘束され、畳の上に跪く母は、呼吸を乱し、涙ながらに命乞いを続けていた。

 けれど、俺の父——伊達だて雪宗ゆきむねは、それを決して許しはしなかった。

「——反日派武装組織〝鮮明教会〟への度重なる関与。案の定、お前は夷狄いてきだったようだ」

「待って‼︎ お願い話を聞いて‼︎ わたしは——ッ‼︎」

 瞬間、振り上げられた日本刀が傍らから勢いよく駆け抜け、母の首を断った。

 以降、俺と兄の彗治けいじは父——雪宗の生家である伊達家に引き取られ、日々を送ることになった。

 しかし、周囲から寄せられるのは、ただ一重に〝逆賊の子〟としてのレッテル——。

「見なさいよあの子達……。反日派の血を引く混血よ穢らわしい……」

「よりにもよって金家の血統とはな……」

「平和を脅かす逆賊め‼︎ どの面下げて歩いてんだ‼︎ あァ⁈」

 表向き、世界の平和の象徴となった日本は、逆賊の存在を世にリークしない。

 けれど、俺たちの住んでいたような小さな農村では、噂は瞬く間にして出回り、人々の鬱憤晴らし——乃而ないし、退屈凌ぎの矢面に立たされる事はそう珍しくはなかった。いわゆる、村八分というものだ。

「伊達さんも不憫よね。伊達政宗様の長子、秀宗様の血を引いて、昔は元宇和島藩の藩主として敬われていたのに……ここに来て夷狄の血と交わってしまうなんて……。欺かれていた伊達さんが不憫だわ」

「伊達さんのためにも、お前らも腹切って死ねよ‼︎」

「まぁ介錯かいしゃくをしてくれる奴なんて居ねぇがなァ‼︎ そのままのたれ死んどく方が、贖罪としては相応しいだろうよ‼︎」

 罵詈雑言と共に投げられる石礫。

 犯罪者の息子は生まれた時から犯罪者だ——そう告げるように、俺達は迫害され続けていた。

 もはや外に出ることも恐ろしくなった兄の彗治は、自分諸共、俺を家に幽閉した。

 伊達の家であったことが幸いし、彼らの矛先がこちらまで追ってくる事はなかった。

 けれど、隔離された世界では、彗治の心はみるみる内に荒んでいった。

 伊達の家柄が幸いしたのも束の間——。

「——ゔぅッ‼︎」

 父、雪宗は滅多に家に顔を出さない。それがのちに、内側からの暴力を生んだ。

「がはァッ——‼︎」

 散々と迫害され続けたことへの鬱憤だったのだろう。

「やめ…ろッ——‼︎」

 彗治は俺を虐げた。しかも暴力に留まらない。

 毎朝、雪宗は俺達が起きるよりも前に家を出ると、その日の俺たちの食費を置いていく。その額は二人で一千円。昼は学校の給食があるため、夕食の分だ。一人五百円ずつ分けるのが理想。

「ゔアァ——ッ‼︎」

 しかし、それはあくまでも理想なのだ。

 尊大な彗治の矜持がそのような権利をおおむね許しはせず、分け前は彗治が七百円。俺が三百円となっていた。

 当然、不公平だと牙を剥いた。その結果がこれだ。

「——あァッ——はァッ——」

 鳩尾やら顎やらを執拗に打たれ、呼吸が出来なくなるほどの暴力によっておとしめられる。

 母は死んだ。

 父は家に居ない。

 外への助けは望むべくもなく——俺は、愛情や優しさなど、凡そ人が持つべきとされる善性を知らない。

 兄から貰ったもの、そして彼に対して抱いた気持ちは、嫌悪と憎悪——そして殺意だけだった。

 それでも、どうにかしてこの痛みから逃れたいと願い努力した。

「……何か、家のことを手伝ったら、褒めてくれるかな……」

 そうすれば、少しは彗治の俺に対する扱いも正されるだろうと、——空想した。

「——勝手なことすんなよ‼︎ 見ろよこれ。台所は汚ぇーし、洗濯物だってぐちゃぐちゃ。ナメてんの?」

「……ごめんなさい」

 こんな劣悪な環境で育てられた者に、の基準などわかるはずもない。

 殴られた頬の痛みだけが後に残り続け、閑散とした家の中で唯一鼓動を打つ。

「お前は俺の言うことだけを守れ。それ以外なにもするな」

「………………」

 しつけを受けた後は、毎度、彗治と同じ空間に居るのが億劫だった。

 彼は自室へと戻るたび、俺は一人、呪いに凍える。

「……テレビ、見ていい?」

「…………。好きにしろ」

 兄なりのせめてもの情けだったのだろうか。テレビや漫画——その他家で静かにたしなめる物ならば、拝謁はいえつすることが許された。きっと彼自身も、余計なことをされるくらいならばこちらの方が幾分かマシだと考えたのだろう。

 最初は退屈しのぎになればいいと、そんな思いだった。

 けれど、一度足を踏み入れれば、その独特な世界の魅力に惹かれ、のめり込んでいった。中でも特に好んだのが、アニメや漫画といった創作物だ。惹かれた明確な理由は彼自身もよくわかっていない。おそらく現実逃避がしやすかったからだろう。その中で見たとあるアニメに、こんな台詞があった。


『——鳥は飛ぶためにその殻を破った。無様に地を這うためじゃない。自由に羽ばたくために羽化したんだ。——ことに、お前の翼はなんの為にある? 籠の中の空は、さぞ狭かろう』


 ——俺は、飛び立つことを決めた。

 いわゆる出家だ。

 泥の中を、ただひたすら真っ直ぐに北上した。


 〝昔の自分に戻りたいのなら南へ——。

  新しい自分になりたいのなら北へ向かいなさい〟——。


 いつしか観たアニメに、そんな台詞があったからだ。

 されど止まぬ迫害が俺の前に立ち塞がった。

「おいなんな久々に汚ねぇ顔があるぞ‼︎」

「なら俺たちで洗ってあげねぇとなァ‼︎」

 足が震えた。

 恐怖が、全身を足先から凍結させた。

 けれど、覚悟はしていたことだ。でなければ飛び立とうなんて思わない。

 ——もう恐れない。

 ——もう負けない。

 ——もう挫けない。

 俺は、彼らと真っ向からやり合った。

 喧嘩なんてした事ないのに、慣れない暴力を振りかざして抗った。

 だけど——。

「おいおい威勢張っといてその程度かよザコが‼︎」

 俺は弱かった。

 どうしようもなく弱かった。

 体中、何処もかしこも痣だらけ。

 拳を振り上げる力は元より、立ち上がる気力さえ残っては居なかった。

 胸ぐらを掴まれ、無理矢理起こされる景色の中で、——俺は一筋の月光を見た。


 そこには、サムライが居た——。


 繻子しゅすのように美しい白銀の髪を鮮やかになびかせて、黄金色の満月を瞳に宿した少女。腰には刀が一振り差されていた。本物かどうかはわからない。けらどおそらく同い年だ。そんな彼女が、腰の刀は必要とせず——素手を用いて次々と村の人間を叩き伏せていった。 人々は彼女を——、

「あ、阿州の鬼小町——っ⁈ なんでここに⁈」

 そう呼んで恐れた。

 なんでも、徳島では有名な喧嘩娘バラガキだったようで、それはもう凄まじいほどの強さだった。

 老若男女を問わず、目前の白い令嬢は、その悉くを拳で黙らせて行ったのだ。

 デタラメだった。

 横暴とさえ感じた。

 その凄惨偉大な光景を傍で観ていた俺は仕切りに尋ねた。

「どうして……。俺は……助けなんて求めてないのに——」

 彼女は、屈託のない笑みで応える。

「私自身が気に入らなかったからだよ」

 俺は思った。

 この女は、この世の瑕疵——乃而、異常であると。

 彼女は間違いなく、この世界の歯車均衡を崩す大きなバグだ。

 だけど、俺は同時に、この時確かに、彼女へ希望を感じた。

 父もそうであったように——。


 ——武士になれば、この醜い命も少しは許されるのではないか——。


 齢六歳——唐沢癒雨は、少女の生家、月岡家が営む撃剣道場『太陰館』の門を叩いた。


 阿州の鬼小町と畏怖されていた少女の名は月岡愛鐘と云い、癒雨と同い年だった。だが、人としての強さも、肝の座り方も、到底その歳と等しくはなかった。

 此処でなら、理想の命の使い道を見つけられるかも知れない。

 道場への出入りはいつ何時であれ自由だったこともあり、癒雨は太陰館に籠り続けた。形式状——愛媛の小学校に在籍中ではあるが、当然のごとく通学はしていない。いわゆる不登校だ。だけど、その事実を、師範を含めた太陰館の者達に話すことはしなかった。

 師範、乃木若景は、そんな彼の異質さに気がついていた。

 朝も昼も夜も、ずっと道場に居ては、自主練をするか掃除をするかのいずれか——。彼の娘であり、癒雨の姉弟子となっている月岡愛鐘は無論普通に学校へ通っている。若景は、その隙間時間を縫って癒雨を訪ねた。

「癒雨くん。少しいいかな……。てか何これ……。道場めっちゃ綺麗になってるんだけど、ワックスまで掛けてくれたの? スゴいね……」

 兄の支配下にあった時は、家の掃除も良くやらされた。これくらいの技術は、皮肉にも過去の影響を経て身についていた。

「な、なんですか……」

 恐る恐る尋ね返す癒雨に、鐘光は障らぬ体で微笑んだ。

「いや……四六時中ここに居るけど、お家や学校へは行かないのかな〜って——」

「……やっぱ邪魔ですか、俺がここに居るの……」

「いや、いいんだ。何か事情があるなら、それならそれで……。なにも学校だけが世界の全てじゃないからね。——とはいえ、最低限の教養は必要だ。せめて、家には帰った方がいいんじゃないかな……」

「………………」

 そんな事は無論承知の上だ。

 しかし、外の世界は敵だらけだ。易々と土足で踏み入れていい世界ではない。

 黙り込む癒雨に、鐘光は困った様子で頭を掻いた。そしてある提案を下す。

「それじゃあ、私がキミの先生になろう。こう見えて、ちゃんと教員免許は持っているんだよ。キミにだけ、僕からの特別講習だ」

 特別——。その言葉の響きには、何故だかとても惹き寄せられるものがあった。

「……けど、先生は大人だ。他に仕事とかがあって忙しいはず……。そんな迷惑は——」

 あくまでも遠慮を装うとした癒雨だったが、鐘光は頓狂にも笑ってみせた。

「いやぁ、実は私無職でね。訳あって月岡家に面倒を見てもらっているんだ。はっははは! 私に出来るのは、この道場で強い子供達を育てるくらいさ」

 なんだこの駄目な大人は——。

 いや、ある意味理想的なのかも知れない。

 何にも囚われず、自由に時を過ごす。

 鐘光は強い。だからきっとお嫁さんも、そんな彼に惹かれたのだろう。

 強いことは、やはり正義なのかも知れない。

「そんなわけで、遠慮は無用! 好きに頼ってくれ、癒雨くん」

 正直、勉学は嫌いだった。

 けれど、彼が教えてくれることは、そのほとんどが人としてあるべき姿を示してくれた。

「——これはうちの門徒全員に言っている事だけどね。大人になると〝社会人〟としての正しい所作を執拗に求められるんだ。ほら、学校って基本的に先生の言うことは絶対っていう風習があるでしょ? あれは社会に出た時に目上の人に逆らわず、先人たちの作った様式美に従うための素質を育むからなんだよ。けれど人間誰しも間違うし、過ちを犯す。先人の作ったものが必ずしも良いものとは限らない。あまつさえ世の中には、そういった若者を乱用する悪い大人も居る。だからキミたちには、先人達に従う〝良い社会人〟ではなく、人の尊厳を大切に出来る〝良い人〟になってもらいたい。社会人というものは、これらを無視して理想論に囚われる傾向がある。無論、彼らの謂うことは正しい。実現が可能ならそれは素晴らしいことだ。けどね、理想とは、手が届かないからこそ理想として扱われる。それを口先ばかりで謳っていても、所詮は偶像に過ぎない。ではどうすれば正しくあれるのか——それはね癒雨くん、〝善悪を選択すること〟だよ。時流に応じて善を成し、悪を成す。人というのはこの矛盾した二つの性質を孕んで初めて人であると、私は思っている。だがしかし、悪を成すことはそれ相応の類い稀なる胆力が必要だ。それを育み、彼ら庶民には出来ない罪を勇んで背負う。その上で社会をより良くしていく。そういう武き心の持ち主たちを、この国では元来〝武士〟と呼んだんじゃないかな——。だって、戦国時代も幕末も、彼らは国のために本気で命を懸けていただろう? つまりは、そういうことなんじゃないかな——」

 過去に虐げられる側で、ことごとく打ちのめされてきた彼だからこそ、鐘光と謂うことは理解できた。

 みんなの知らない痛みや苦しみ——。言葉に乗せられる呪いの鋭ささえ、彼は何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も、咀嚼そしゃくした。

 ゆえか、いつしか思うようになった。

 自分しか知り得ないのなら、これら数多の闇をほうむることこそが自身の役目ではないのか。きっとこれは、自分にしか出来ないことだ。——だって、自分がされてイヤだったこと、人にしてはいけないだろう。


 嫌なら変えろ。

 不満なら正せ。


 ——彼女だって、頼んでもいないこと、自分が気に入らないからと転覆してしまった。


 この世から、クズを一掃する。

 されど、それはきっと悪である。

 しかし、その悪こそ選択してみせるのが——武士の在り方だ。



 季節は流れ、年は重なっていき、いつしか外の世界が見えるようになった頃——。

 癒雨は、現国の実態を知っていく。


『——斎場首相は、防衛費向上のため、税率の引き上げを決定致しました』


『——国内における急速な少子高齢化にともない、斎場首相は労働者の増員が急務であるとし、諸外国からの留学生を歓迎するとしました。その上で〝国費外国人留学生制度〟を動員。一人当たり十四万もの支援金に加え、往復分の航空券と教材費、授業料を別途で支給するなど、寛大な対応を見せました』


『先日三月十六日、韓国のユン大統領が来日し議論が成された〝日韓元徴用工首脳会談〟。尹大統領が提示した「韓国財団の肩代わり案」によって、日韓の徴用工問題に、前向きな兆しが現れました。その上で斎場首相は「他のあらゆる諸問題に於いても、国交正常化以来の友好協力関係の基盤に基づき、関係を更に発展させていく」としたほか「両国間での人的交流を発展させていく事で、両国の関係を改善する」とし、政治・経済・文化の面に於いて、両国の多岐に渡る意思疎通が必要だと話しました』


『——先日、埼玉県の住宅で二十代の女性の遺体が発見されました。警察は、彼女と交流関係にあったクルド人の男を逮捕しましたが、領事裁判権に基づき、その後釈放しました』


『——都内歌舞伎町にて二十代女性に暴行を加えたとして、中国人女性二人が乱闘。駆け付けた警察官にも暴行を働き、周囲は一時騒然としました』


『——斎場首相は再び、増税を検討。将来的な国の経済維持、共に、子育て支援に宛てることを目的としています』


 刻一刻と放棄されていく民主主義、共に国民主権。

 甚だしいまでの移民政策に、虐げられる日本。

 在日外国人による犯罪は、領事裁判権がある限り日本では裁けない。だからと言って、国交に力を入れている斎場政権が彼らを国外追放する事もなく、国内情勢は日に日に荒廃していった。

 国民の抱える痛みが、同調するように流れ込んでくる。

 吐き気をもよおすほどの苦味が、絶えず口の中を循環する。

 政府は耳を貸さない民の悲鳴に、自身の過去を重ねる。

 どれだけ一人嘆いたところで、誰も助けてはくれない現実。

 人々の悲嘆に胸が強く締め付けられ、古傷が痛む。

 やはり、父のしたことは間違いではなかったのだと明確に解る。


 ——今一度自身に問う。


 〝自分がされて嫌だったこと、他人に共用してはならない〟——。

 〝自分がして欲しかったこと、他人にしてあげるべきである〟——。

 〝在るべきだと感じたこと、実現する事こそが人生のもっぱらではないのか〟——。


 ——泣いている子には笑顔を。

 ——困っている子には救済を。

 ——迷っている子には導きを。

 ——わからない子には教養を。

 ——間違った子には叱責を。


 ——踏まえて世界を視る。

 悪化する治安。

 懸念される日本植民地化。

 かつての自分と同じように、これから先の未来で支配され苦しむ人たちが居る。

 鳥籠の中のような暗闇が、しきりに蘇る。


『——自民党五派閥が政治資金パーティー券を二十万円超を購入した大口購入者の名前を政治資金収支報告書に記載せず、長年にわたり脱法的隠蔽を行っていたことが新たに分かりました。不記載は令和十九年~二十二年の三年間で、少なくとも五十九件。額面で、計二四二二万円分に上るとされます』


 それは、あろうことか国の代表たる政府が脱税をしていたと云う旨の報道だった。

 国民は懸命に納税義務を果たしているというのに、その納められた金を彼らは横領していたのだ。

 類なき憤慨を覚え、癒雨の血液はこの時沸騰を始めた。

 ——実に恨めしく、甚だしいほどに憎たらしく、極めて忌々しい。

 今すぐにでも天誅てんちゅうを下すべきだが、癒雨にまだその力はない。

 恐怖など、あの時あの場所に置いて来た。

 自己を尊ぶことさえとうに放棄した。

 悪を成す意思も覚悟も、すでに出来ている。あとはただ、力のみ——。

 気がつけば高校生になり、日本人口の約七割が異人でふんぞり返っていた。

 それでも、未だ癒雨は、武士にはなれていない。



 静まり返った道場を斬り裂く、果断な一撃。

 床を踏み込んだ癒雨が、対局する愛鐘に対し、真っ向からの一線を繰り出す。

 愛鐘はこれに二寸五分の影を踏み半転。弧を描くような足取りでこれを凌ぐと、同時に右脇構えへ下ろした木刀を切り返す。

 癒雨の籠手を狙った一撃——。

 しかし、癒雨は右手に込めた力を僅かに抜き、左手で木刀を反転。芽吹く愛鐘の一撃を平地で防いだ。

 破裂するような打突音が、緊迫した道場の静寂を叩き打つ。

 思わず感嘆する傍観者達。

 美海も、癒雨のこの華麗な適応力には目をみはった。

 弾き合い、愛鐘の威力を貰った癒雨の剣が、回って右袈裟から降ろされる。

 愛鐘もまた同じく、斬り上げた刀を返し、右袈裟から一太刀入れる。

 けたたましく轟音する、互いの木刀。

 刃と刃が噛み付き合い、鍔迫り合いへと持ち込まれる。

 いっときの油断が生死を分ける今際いまわの局面——。

 単純な膂力りょりょくで言えば、当然癒雨の方が上だ。

 しかし、下手に入り込めば、その威力に乗じて二寸五分の影を踏まれる危険性もある。

 緊張感は臨界し、圧迫感へと豹変していく。

 滲み出る汗が頬を伝い、床へと落ちたその時——、愛鐘の刀の柄頭が、癒雨の手首へと下から入り込む。

 え——。

 当然、一時的に対角線を抜けた愛鐘によって、癒雨の刀は彼女の間合いへと入り込むが、同時に彼女の柄の侵入も進んでいく。

 そして、お決まりの二寸五分。

 愛鐘の左足が三日月を描き、入り込んだ柄が癒雨の手首を征した。そのまま重心を落とされ、床へとひねり倒される。

 反撃を試みた時にはすでに、愛鐘の切っ先は目前だった。

「…………。くっそ——ッ‼︎」

 勝負あり。

 ほとばしる悔しさに、己が弱さを卑下する。

 まだ足りない。

 もっと、もっと——。

 立ち上がり、また次の稽古を望もうとする癒雨。そんな彼に、愛鐘は笑みを向け、手を差し出した。

 ——鼓動が鳴る。

 それは向上心か挑戦心か——正体は不明だが、何か燃えるような思いだった。

 ——そうだ。彼女一人倒せないようでは、理想は果たせない。

 癒雨は愛鐘の手を握り、まだ何者でもない自身の肖像に、彼女の姿を重ねる。

 いつからだろう——。癒雨の中の〝強さ〟というモノの基準が歪み始めたのは——。

 月岡愛鐘という規格外を到達点にしてしまったことは、彼の一つの過ちだった。それが顕著に見え始めたのは、周囲からの声がきっかけだ。

「もうあの二人の右に出る者はいないな」

「月岡愛鐘と唐沢癒雨——差し詰め〝太陰館の双璧〟とでも呼ぶべきか。ひょっとしたら、現代最強なんじゃないか? あのプロレスラーにだって引けを取らないだろう」

「よつ! お似合い夫婦‼︎ 愛鐘と吊り合うのは癒雨だけだな‼︎」

「な、なんば言いよっと⁈ そ、そがんことあるわけなかよ……ッ‼︎」

「あっははは‼︎ 愛鐘ってば顔真っ赤‼︎ 照れなくていいのに〜っ‼︎」

 おそらく、愛鐘は気づいていたのだろう。

 癒雨の実力が、とっくに常軌を逸していたことに——。

 だけど、強者としての基準が愛鐘を軸としていた癒雨にとって、彼女に勝てないことは弱さであるという認識だった。


 もっとだ——。

 もっと鍛え上げなくては——。

 この命が許されるために——。


 そして、癒雨が自身の異能を自覚するきっかけとなった、ある事件が起こる。

 彼の出家に際し、自身らの汚名が漏洩していることを懸念した唐沢家の長男——唐沢彗治が等々癒雨の居場所を突き止めたのだ。

 その日は、台風が近づいていることもあり、灰色の空に強い風が吹き荒れていた。彼はその荒波に乗ってくるかのように、太陰館の門亭へ足を踏み入れたのだ。

「——月岡様のお宅に相違ありませんね? 申し遅れました。私は唐沢癒雨の兄、彗治と申します。この度は我が愚弟を引き取りに参りました。数年間にも及ぶ愚弟の御無礼に、兄として深くお詫び申し上げます。よろしければこちら、つまらない物ですが受け取ってください」

 一体全体どこでそんな所作を憶えたのか——。

 彗治の外面は、甚だしいまでに洗練されていた。

 気色が悪かった。

 悍ましかった。

 吐き気を催すほど——疎ましかった。

 彗治を迎えた愛鐘は癒雨を一瞥し、その只ならぬ形相に自慢の純白を欠いた。

 息が詰まるような、凄まじい嫌悪の気配だったからだ。

 癒雨は、その悪性を言葉にする。

「ダメだ愛鐘! 帰らせろ‼︎ 俺はあんな所には二度と戻らない‼︎」

 必死の拒絶を見せる癒雨。恐怖にと等しい感情が汗と共に発露し、目前の夷狄を忌む。

 愛鐘は一拍呼吸を入れ、彗治へと向き直った。

「あの、お言葉ですが、癒雨くんが嫌がっているので、今回はお引き取り願えますか? 癒雨くんの様子を鑑みるに、いくら兄とはいえ、貴方に彼を任せることは容認し兼ねます」

 例に漏れず、強気な姿勢で彗治へと向かう愛鐘。

 しかし、彼がこれを潔しとするはずもなかった。

「馬鹿なことをおっしゃらないでください。その御言葉はあなた方にこそ言えるものです。部外者であるあなた方に癒雨をお任せすることは異端だと言っているのです」

「ですが本人が嫌と言っているんです。御家族であるのならば尚更、彼の意思を尊重してあげてください」

「………………」

 愛鐘の正論に、彗治は返答するべき語彙を見失った。すると視線を傾け、癒雨を睨んだ。

「——癒雨。来い‼︎ お前こんなことしてただで済むと思ってんのか?」

 〝帰って来い。さもなくば殺す〟——彼の目がそう告げていた。

 愛鐘が太陰館に居れば、その心配はきっとない。

 しかし、このままでは癒雨は一生、この籠の中から出られなくなる。

 恐怖だけが、足先から全身を凍えさせる。

 これを見兼ねた愛鐘は、何やら道場の袖から竹刀を取り出し始めた。

「——ここは道場です。言葉で語り合う場ではありません」

 仕切りに、内の一振りを彗治へと投げ渡し、もう一振りを癒雨の手に握らせた。

「正々堂々、試合で決着をつけましょう。お兄さんが勝てばお兄さんの言葉に従い、癒雨くんはここを去る。癒雨くんが勝てばお兄さんが立ち退いてください。いいですね?」

「はっ! 上等だ。なぁ癒雨……やろうぜ」

 過去の支配から、彗治には癒雨を見下し、侮るだけの絶対的な自身と経験があった。

 逆に、悉く虐げられて来た癒雨には、それがない。

 だからこそ、この決闘は容認できなかった。

「あかね——ッ⁈」

 彼女の真意を疑った。

 やはり、自分は此処でも目障りな存在だったのだろうか——。

 愛鐘は癒雨に消えて欲しかったのか——。

 後ろ向きな考えばかりが体内を循環し、敗北の予感が、手の内を硬直させる。

 震える両手——されどそれを包み込むように握ったのは、愛鐘の真っ白な手だった。

「——大丈夫。癒雨くんはもうずっと、ここで頑張って来たんだもん。自分を信じて? きっと勝てるから。もし駄目でも、私がアイツをぶっ飛ばすから安心して? ね?」

 ——違った。

 これはきっと信頼だ。

 愛鐘は、癒雨を信じてこの試合を作った。

 そもそも、武士になると志したのなら、この宿業は乗り越えなくてはいけない。

 また女に助けられるのか——。

 癒雨は刀を構え、手の内を緩和した。

「——来いよ、彗治。叩きのめしてやる……‼︎」


 ——結果は、癒雨の圧勝に終わった。


 積年の恨み辛みの全てをぶつけた癒雨は、兄の彗治を動かなくなるまで殴った。

 無作為に振り下ろされる彼の太刀を見切って打ち落とし、手首を砕いた時点で確信した。自身の異能——。

 続けて襟元を掴んで足に掛けて倒し、——殴った。ぶっ叩いた。竹刀の竹が砕けるまで、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。

 うずくまり、みっともなく泣き喚くことしか出来ない兄を前に、かつての自分を重ねた。

 ——あぁ、なんて惨めだったのだろう。

 彗治は中節粉砕骨折や頭蓋骨骨折などの重傷を負い、傍観する中で危機感を覚えた門徒の一人が警察を呼んだ。

 何せ愛鐘以外の誰にも、彼を止める術は持ち合わせておらず、その愛鐘自身も、目前の光景を達観していたのだ。

 道場は彗治の流血に塗れ、せっかく掛け続けていたワックスも掃けてしまった。

 今や誰も居なくなり、分厚い叢雲が覆う夜空の下、癒雨は若景と縁側に居た。

 先生は、見えないはずの月を追いながら、癒雨を讃えてくれた。

「——誇っていいよ、癒雨くん。キミは運命に抗い、悪を選択することで悪を裁いたんだ」

「……どう、ですかね……。俺、彗治を殴っていた時に分かったんです。自分の立場……。いや、それこそ運命さだめとでも言うんですかね……」

 あの時、しきりに自身の愚面が垣間見えた。

「強さばかりを追い求め、決して叶わぬと教えられたはずの理想を追い求めていました。思えば、愛鐘が異常であることは、初めて出逢った時から解っていたはずなのに——。彼女を追い求めることで、俺は果たすべき使命から逃れていた」

「果たすべき、使命?」

「それこそ、武士としての責任でやつですよ。なんのため……俺がこの血筋で生まれて、あの闇を知ったのか……。何のために此処へ導かれたのか——。暗闇を知っておきながら、自分が何者かもわからず、見てきたモノを放棄して、愛鐘の強さに依存していた。今回だってそうだ。結局おれは、愛鐘ばかりを追っている。いつだって目の前には愛鐘がいて、その背中が、俺の弱さを肯定し続ける……。——いや、違いますね。先生の言っていた、罪を背負う覚悟が俺には足りなくて、その未熟さを覆い隠すために彼女の強さに依存していたんだ。不純な覚悟で己を欺き、愛鐘の強さに執着していた俺は、きっと、他の連中と変わらない。荒んだ世界を見て見ぬふりしてきた大勢の人間と——」

 忘れてはいけなかった。

 見失ってはいけなかった。

 母の首が落とされた理由——。

 父が背負った罪業の所在——。

 若景は、何故か嬉しそうに微笑んだ。

「——やはりキミは賢い。私も常々思っているんだ。〝この世の闇に触れた者は、それを正してこそもっぱらを成すのだ〟と——」

 途端、群がっていた空の雲が掃け、真っ白な満月の光が宵闇に明かりを灯す。

「——癒雨くん。キミは、自分の信じた道を進みなさい。時代を追わず、夢を追うんだ。キミが憧れた未来を、叶えるために——」

 照らし出された光の先に、道が視える。

 自身が歩むべき進路——そのしるべ

 癒雨は、若景へ告げる。

「——先生。おれ、此処を出ていくよ。ケリをつけなきゃいけない人が居るし、何より、やるべき事が見つかった」

 若景は最初こそ驚いたものの、呑み殺し、笑顔で癒雨の門出を迎えた。

「——いってらっしゃい、癒雨。新しい時代で、また会おう」


 翌朝、癒雨は太陰館を発った。

 愛鐘がこのことを知るのは、学校が終わった後となる。

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