原初の神子

無銘

第1話 阿州の鬼小町

   序章 阿州あしゅう鬼小町おにこまち



 職員室から怒号が鳴り響いたのは、昼休みに入ってすぐの事だった。

「月岡アアアアアアアアアアアアアアアアアァァァァァァァァァァァァァァァッッ‼︎」

 麗らかな午後の一時ひととき

 陽気に弾む生徒達の音声は実に騒がしいものだが、不思議と校内に於いては、穏やかに聴こえる。例えるのなら、早朝に奏でられる小鳥のさえずりだ。騒々しいはずなのに、どこか落ち着く——それが一瞬、一際大きな咆哮によって真空と化した。

 言わずもがな、とある生徒が教員の説教を受けている真っ只中。だが、その生徒こそが問題なのだ。

 の容貌は、到底教員から切諌せっかんを受けるほど乱れているようには見えない。

 結論から言うと、彼女は美少女なのだ。とんでもなく美少女なのだ。はなはだしいくらいに美少女なのだ。千年に一度のアイドルなど容易く凌駕して余りあるほど、美少女なのだ。もはやこの星の寿命に一人の美少女だ。

 胸元まで伸びた銀色の髪をハーフアップに束ねており、頭上には編み込んだ髪でカチューシャを飾るなど極めて愛らしい。その毛色と言えば、美しいなんてことは言うまでもなく当然であり、透き通るような艶麗えんれいな光沢と、神秘的とさえ言えるほどの圧倒的存在感は、さながら女神——‼︎ 加えて、ハーフアップの結び目に飾られた青色の大きなリボンが、まだ成熟し切っていない高校生ならではの、童心的な愛くるしさを感じさせる。びんは細くしなやか伸び、目元で規則正しく整えられた前髪はシースルーに仕上げられている。

 端麗な顔立ちは、眉目びもく共に秀麗。毛束豊かな睫毛まつげに、つぶらな瞳が穏やかにけぶる。その様子は、闇夜に灯る清らかな月光と見紛みまがうほどだ。

 総体的に俯瞰した時、その風貌は御伽おとぎの国のお姫様を連想させる。あるいは、絶対完璧完成型優等生と言ったところだろう。そんな美少女が一体全体どのような不手際にさいなまれ、この少々毛が薄めの教頭の頭に、更なる追い討ちを掛けるに至ったのか——。

「——お前は、学校を何だと思ってるんだァッ‼︎ 毎日毎日平然と遅刻早退を繰り返し、あろうことか講義中は夢の中へとフルダイブ‼︎ 放課後になれば他校の生徒と喧嘩三昧‼︎ 昭和か——ッ‼︎ お前は昭和のヤンキーか——ッ‼︎ あらゆるデジタル化が進み、今ではソーシャルゲームが解決してくれる人の不念を、この令和二二年の時代に未だアナログをもちいて物理行使するなど言語道断ッ‼︎ 時代錯誤もいい加減にしろオォ——ッ‼︎」

 人差し指で耳穴を塞ぎ、教頭の怒声を拒絶する美少女——月岡愛鐘つきおかあかね、十六歳。何食わぬ顔で目前の般若はんにゃの音を遮断する。

 溜め込んだストレスを一通り出し切り、荒ぶる呼吸に整理をつける教頭。その汗ばんだ鬼の面に、愛鐘ははにかむように微笑み、——煽った。

「もぉ〜。そんなに怒ると頭皮がより鮮明になっちゃうよ?」

「——————ッ‼︎ ふざけるなアアァァ————ッッ‼︎ 阿波高あわこうの恥晒しがアァ——ッ‼︎ 翌る日も翌る日も、殺到する苦情の電話に頭を下げる私たちの身にもなれッ‼︎」

「電話で頭下げてどうするのよ……」

「黙れッ‼︎ 先日も——『お宅の生徒さんが、撫養町むやちょう立岩たていわにあるスーパーの駐車場で喧嘩してるんですけど、何とかしてくれませんかねぇ〜』などと電話が入り、いざ駆け付けてみれば、鳴二高なるにこうの生徒三人が倒れている状況で肝心のお前は既に逃走‼︎ ふざけるなッ‼︎」

「——ウソっ⁈ ま、まさか——ッ‼︎」

 何やら虚を突かれた様子の愛鐘。驚愕の相貌をあらわにし、衝撃のあまり一歩退いた。

「——教頭先生が、こんなにもモノマネが上手だっただなんて——っ‼︎ 知らなかったわ」

 わざとらしく芝居じみた驚きを見せつけ、果てには興味深そうにあごに指を立てた。

 そろそろ叫び疲れたのか、そんな愛鐘の様子に、教頭が再度咆哮することはなく、まだわずかに荒ぶる息の中、彼は愛鐘にさとす。

「〝阿州あしゅう鬼小町おにこまち〟などとおだてられ天狗になっているようだが、あれは蔑称だ。畏怖いふの念を込めて付けられた忌み名。月岡の令嬢にあるまじきお前の破滅的な人間性を呪った名だ。〝稀代きだい鬼子おにご〟——。こっちの方が万倍相応しいと俺は思っている」

 目前の醜女しこめから目を伏せ、自身の席へと腰を下ろす教頭。もはや目を合わせる事はせず、彼は卓上に散らばったプリントへ赤筆を走らせた。

「とりあえず今日はもう良い。相変わらず反省の色は見えないようだしな。帰りたければもう帰れ。やる気のない奴に時間をろうするほど、高校教師はお人好しじゃねぇ」

 その言葉を最後に、愛鐘は職員室から追い出された。

「………………」

 ——阿州の鬼小町。愛鐘がそう呼ばれるようになったのは、彼女がまだ十歳の頃だ。

 戦後百周年の安寧を迎えた日本は、今や移民至上主義の時代。

 少子高齢化による労働力の低下や、それに伴う経済と文明の衰退。これらを解決すべく現行政府は手厚い外国人優遇政策を開始した。中でも一躍世論を騒がせたのが〝国費外国人留学生制度〟。一人当たり十四万もの支援金を、国の税金から外国人留学生へと支出。加えて往復分の航空券と教材費、授業料を別途で支給するなど、日本の未来を担う移民に、政府は寛大な対応を見せた。

 他にも、経済循環のため、観光客への渡航費や宿泊費の減額を国をあげて実行。

 国内の在留に限らずとも、現日本は他国へ多額の支援金を贈り、広い懐をアピールした。

 しかし、移民が多くなれば、それだけ国内秩序は乱れていく。高い民度と規範性を持つ日本だからこそ、そんな治安の悪化はより顕著に現れた。

 昔から喧嘩に明け暮れていた愛鐘の猛威はこれを機に肥大化。素行の悪い連中を見つけては、日本人であれ異人であれ有無を言わさず叩き伏せた。

 月岡家は元氏族——つまり武家だ。ゆえに産まれた子は幼くして、剣術や体術を基本とした様々な武術をたしなめる。ことに愛鐘はその才覚に富み、男顔負けの実力を身につけた。

 傍若無人は言うに及ばず、粗野で荒くれ者。見てくれの白き美貌はただの見かけ倒し。

 口より先に手が出る性質たちで、狼藉を働く不貞浪者には有無を言わさず殴り掛かる残念な美少女。そこに慈悲や道徳心といったおよそ常人的な感情は持ち合わせておらず、蛮行を働く者であれば見境なく制裁を加えた。

「——美海みなみちゃん。あん野郎共なしてやろうか」

 つい、生まれ在所の地言葉を出し、幼馴染である遠星とおじょう美海と相談する。相談と言っても、ぶちのめす事は確定しているわけで、愛鐘が尋ねた内容の真髄はその後どうするかと言うことにある。

 連中は、市内にある蓮池の西岸にたむろしては、飲酒、喫煙、薬物などに手を出していた。地方の田舎ともなると、都会と違って監視カメラや人の往来も少なく、治安体制は極めて悪い。だからこそ、こう言ったことが良く起こる。特定の観光名所が少ないこの阿州では尚更だ。

 万が一警察が通れば、彼らは軒並み姿を消す。警察の制服は目立つため、警察が彼らを見つけるよりも、彼らが警察を知覚する方が数段早いのだ。その為、このような軽犯罪は地方だと一向に減らない。加えて移民主義となった今では、こういった田舎が薬物などの密売ルートになることも多く、犯罪は増加傾向にあった。だからこそ、まだ幼い愛鐘達の出番だった。少女であれば警戒されることもない。むしろあちら側からよこしまな考えを以って寄ってくる。自身の美貌を自覚していた愛鐘は鬼小町として名を馳せる以前、そういった彼らの邪智を逆手に取ることも少なくなかった。

 無論、これは月岡愛鐘の独断専行である。

 これは暴力沙汰。警察に知られれば立派な傷害罪だ。

 美海は、そんな愛鐘の身を常に案じており、回答は決まっていた。

「失神させて放置しましょう。警察への連絡は、私が後から匿名でするわ」

「よしっ! じゃあそうと決まれば先手必勝ね!」

 茂みの中から姿を現し、正々堂々襲い掛かる。

「おいテメェら何ばしよっとかァ‼︎ こん妙見山が月岡家ん領地と知ってん狼藉か⁈」

「なんじゃテメェら‼︎」

 喧嘩腰の愛鐘に対し、同じく喧嘩腰で迎えてきた男の一人。渾身の因縁をつけ、愛鐘を真っ向から睨みつけた次の瞬間、ステップを踏んだ愛鐘の上段回し蹴りが炸裂。男の体が上下を反転させて土壌へと叩き伏せられた。

「やぐらしかアァッ‼︎ 早う消え失せんね‼︎ さものうばくらすばい‼︎」

「何しやがるテメェ‼︎」

 応じて撃ち放たれる男の右拳。

 愛鐘は二寸五分の影を踏み、拳の軌道からほんの僅かに身をさばく。

 すかさず左ストレートを男の顎に入れ、加えて鳩尾に右フック。再度左拳を胴へと打ち、男を突き放す。仰け反った端から矢継ぎ早に地面を踏み込み、置き上がる男の顔へ、空中から一蹴を入れた。

 跳躍に乗った虚空からの回し蹴り。

 男の体はまるで埃でも払うかのように土の上を滑って行った。

 着地する愛鐘の体に、白銀の髪が白百合のように揺れる。

 目前の圧倒的な強さに、男達は鮮烈なる確信のもと恐れ慄いた。

「……あ、あぁ……‼︎ その月の光みてェな白い髪……こいつ、阿州の鬼小町だ……‼︎」

 結局、男達はなす術なく愛鐘に敗北し、その後、身柄を警察に引き取られた。

 そんな月岡愛鐘の壊滅的な人間性——共にが大きく変わったのは令和十二年の初夏。一面の草むらという草むらがマムシ臭くなる季節だった。

 愛媛の方で、とある子供二人が迫害されているという話を耳にした。理由はわからない。けれど、だからと言って見過ごす理由にもならなかった。

 現場へ赴いた愛鐘は早速、騒ぎの中心へと潜り込んだ。

 一帯が凍りつく。

 彼女の臨場に、その場にいた悉くが狼狽えた。

「あ、阿州の鬼小町——⁈ なんでここに⁈」

 愛鐘は容赦なく、その霞に上段回し蹴りを叩き込んだ。

 瞬く間にひっくり返る人体。

 間髪入れず、天倒、眉間、人中、下昆、咽中といった人間の急所を次々と殴打し、自身よりも歳上であろう村人まで、老若男女問わず弾圧した。

 振り返れば、先刻までリンチに遭っていた少年が涙ながらも強情にこちらを睨み上げていた。

 顔は痣だらけで、体中は泥まみれ。それでも、愛鐘は彼が諦めずに抗っていたのを知っている。

 多くの人間が、自分よりも上の者には首を垂れる中、彼だけは、最後の最後まで対等な拳を振るっていたのだ。

 愛鐘は思った。

 ——強い子だ、と。

 しかし、イジメというのは他者が介入しても根本的な解決には至らない。

 また別の所で、きっと彼は痛い目を見ることになるだろう。

 解決することがあるとすれば、それは彼自身の手で、連中を黙らせることだ。けれど、人同士の力の差というのはそう簡単に埋まるものではない。武術をやっている愛鐘だからこそ、その事実をよく知っている。

 ただされるがままなら状況は変わらないだろうが、めげずに立ち向かっていた彼ならば、あるいは——。

 しきりに、彼のことを考えていたある日のこと、愛鐘は思わぬ再会に見舞われた。

「本日から皆さんと共に切磋琢磨することになった、唐沢癒雨ゆうくんだ。仲良くしてあげるように——」

 月岡家が営む撃剣道場『太陰館』の門を、あの少年が叩いて来たのだ。

「え——」

 困惑した。

 偶然——ではないだろう。

 大方、あの時の村人達の発言から、此処を特定したのだろう。

 目的は解らないが、愛鐘が同じ立場なら、その者の強さを盗みにくる。もしそうなら、その意識こそが、のちの彼を強者たらしめる素質となるだろう。

 当然といえば当然だが、最初は基礎から学ばせた。

 抜刀と基本は元より、武士としての心構えなど——。

 剣術は一朝一夕では行かない。地道な鍛錬の積み重ねによって、技は研磨されていく。この過程に無聊してしまい、志半ばで刀を手放してしまう者を愛鐘は幾度となく観てきた。——逆に、これを耐え抜く忍耐力こそが、剣術の才覚であるとも思った。

 さて、唐沢癒雨はどこまでやれるのか——。

 愛鐘は稽古の端々で、彼の様子を窺った。

 彼は、意外にも上達が早かった。

 二、三回もしてしまえば基礎的な技は覚えていき、難しい変え技も、翌日には完成してしまっていたりした。

「癒雨くんは上達が早いね。ビックリしたよ」

 師範である乃木のぎ若景よしかげもその上達速度に感心していた。

 周囲の目も、次第に唐沢癒雨を歓迎し始めた。

 そして、流派の考え方や世界を学ぶ籠手打ちの基礎稽古において、唐沢癒雨は不遜にも愛鐘を相手に選んだ。

「月岡、俺と組まないか——」

 当然、周りは驚嘆の嵐だった。何せ今まで、愛鐘と組み手しようなどという命知らず物好きは前例がなかったのだから。

「うそ! あの子愛鐘ちゃんの相手するって!」

「愛鐘のこと知らないのかなぁ」

「見た目は美少女。中身は狂犬! スーパーバイオレンスな阿州の鬼小町! ってね!」

「やかましい!」

 はしゃぎ立てる周囲を黙らせ、愛鐘は癒雨の申し出を快く迎えることにした。

「物好きだね、キミ——。いいよ、相手してあげる」

「あ、あかね⁈」

 傍らから、藍色の髪を二つに結んだ少女が狼狽えた。愛鐘の幼馴染、遠星とおじょう美海みなみだ。

「ごめんね、美海ちゃん。私、少し彼に興味があるの」

「それって——」

「愛鐘ちゃん! 男の子に興味があるの〜⁈」

「ひっちゃかましかアァ‼︎」

「ご、ごごごめんなさいっ‼︎」

 つい地言葉が漏れ出てしまい、咳払いをして誤魔化す。

「そ、それじゃあ始めましょう」

 これまた、癒雨は愛鐘を驚かせた。

 技が上手く掛かっている。

 特に、二十二箇条も籠手打ちの技の内、難易度の高い「巻き上げ」や「巻き落とし」といった相手の太刀の自由を断つ技においては、それは顕著に現れた。

「(この子、技の理解——いや、解釈の仕方が上手い!)」

「——そこまで‼︎」

 愛鐘はこの時、師範の若景以外で、初めて対等な稽古をすることが出来た。

 剣術は常に、手練れを想定して稽古する。技を掛ける、掛けられるの必中稽古とは言え、相手が下手だと理合いの吊り合いが取れず、そもそも技が上手く掛からなかったりする。

 この時の愛鐘は、久方ぶりに技を上手く掛けることが出来た。

 虚ろに感じ始めていた剣術が、久しく楽しいと思えた。

「愛鐘、なんか顔色いいね」

「え——? そう?」

「ちょっと嬉しそうというか……彼、そんなに良かったの?」

「……うん。うかうかしてたら追い越されちゃうかも……」

 認めがたいが、これを認めずしては愛鐘は彼に負ける。

「ちょっと、自主練に力入れよっかな……」

 汗の匂いがむせ返る道場で、愛鐘は独白した。



 当流には、自由攻防というものがある。

 練り上げた技や世界を、実戦の中で発揮、応用できるかというもの——。つまり試合だ。

 月岡家が扱う武術は、剣術、柔術、体術を混合した総合武術。流派は『月華天翔げっかてんしょう流』。戦国時代に生まれたから分派したもの。よって、この試合では一対一は無論、多数との立ち合いも想定して行われる。

 扱うのは袋竹刀というもので、八つに割った竹刀の刀身に布袋を被せた単純なものだ。これならば、痛いは痛いが、痛いだけで済む。骨折や打撲の心配は無くなるのだ。

 この試合が出来るようになる頃には、癒雨の手のひらはタコだらけだった。

 愛鐘も最初は皮が剥けまくり、激痛に苦しんだ。

「——じゃあペア組んで」

 師範の合図に、癒雨は当然と言わんばかりに愛鐘の前に立った。

 愛鐘も待ち望んでいたかのように、これを歓迎する。もはや対等に闘えるのは彼くらいだからだ。

 道場の床をこする音が忙しなく響きわたり、木刀同士の衝突する打突音が力強く轟く。

 初めに言っておこう。

 稽古に入った愛鐘は容赦なかった。

 正しく鬼小町——。修羅のごとく厳しく、癒雨をぶっ叩く。

 決して今朝の鬱憤晴らしが目的なわけではない。これも大事な稽古の一環だ。

 無作為に振り下ろされる癒雨の剣を容易くかわし、一度に三連撃もの剣を打つ。

 これを見切る癒雨。千鳥に足を捌きながら刀身を引きながらこの悉くを受ける。最後に愛鐘の竹刀を打ち落とし、首を狙った。

 しかし、この技は当流の門徒が幾度となく練習するもの。

 癒雨の足が千鳥を真似た時点で、愛鐘はこの打ち落としを想定していた。

 彼女の体躯が半身を切り、二寸五分外れる。

 踏み込んだ癒雨のお粗末な間合いへ難なく入り込み、銅、籠手、面に一撃ずつ入れた。

「おぉ——‼︎」

「そこまで——‼︎」

 傍観者達の感嘆に混じって、師範の打ち止めが入った。

 この稽古は相手に一本入れた時点で終了となる。

 膝をついて悔しげに敗北を噛み締める癒雨。無造作に滴る汗の中で、乱れた息に意識を集めていた。

 愛鐘は竹刀を左手に持ち変え、右手を彼へと差し出す。

「お疲れ様、癒雨くん」

 癒雨は決してこれを拒みはしなかった。

 元より自身の弱さは自覚しているのだろう。

「——次は勝つぞ」

 そう言って、彼は愛鐘の手を迎えた。

 癒雨との稽古は、愛鐘にとっては至福の一時だった。彼自身がどう思っているかは解らない。けれど愛鐘は、毎週訪れる稽古日を待ち遠しくも切望し続けた。

 癒雨が居るから、愛鐘は自分の本領を発揮できる。

 時間と日数ばかりを追い、悶々とする日々——。

 道着を備え、執拗に刀の手入れを行う。そうしている方が落ち着きを持てる自分がいて、——また、心はなやぐ自分が居たからだ。

 準備をしていながら、時間の経過が妙に遅く感じたり、それが焦ったくなったり——。果てには「まだかな……」と胸の内で癒雨が顔を出すことを待ち遠しく思っていたり——。

 彼を望み、彼の到来を切望している事実には、まだ容認する勇気が持てずにいた。

 落ち着かない様子で、門前をほうきで掃く愛鐘。その所作と言えば、絶えず彼方の向こうを一瞥いちべつしては清掃を再開する——その繰り返しだ。

 日中の正刻を回ると、不意に一人の少女が来訪した。

「——〝阿州の鬼小町〟なんて異名とは程遠いほど女々しいのね、愛鐘は——」

 大層あでやかな濡羽色の髪を左右二つに結い、肩のあたりに下げた少女。まだ中学生だと言うのに随分と大人びた印象を感じさせる。

 力強く、少々野心的な雰囲気を宿す碧緑色の瞳もまた実に雄弁だ。

 潤い豊かな白い肌は極めて精緻なつやを放ち、紅を引かずとも瑞々みずみずしいくちびるが丹色に光る。——とは言え、それは第二の印象に過ぎない。男女問わず、まず最初に目を惹かれるのは、彼女の胸元だ。中学生には到底相応しくない大きさの巨峰が、されど現実にみのっている。一体何を食べて育てば、こんな恵まれた発育を成せるのだろうか——問いただしてみたい気もするが、それではまるで、自分が今の貧相極まりない体型——もとい胸の大きさに、劣等感を抱いているようで、その不確かな憶測の漏洩ろうえいを尊大な自尊心がいさぎよしとしなかった。

「——美海みなみちゃん。来てたんだ」

 ——遠星とおじょう美海みなみ。淡路島出身で、太陰館の門下生。凛然と、品格に富んだたたずまいを持ち、雄渾な物腰が実に凛々しい少女。

 自然の中で育ってきた事から、身体能力が桁違いに高く、極め付けは、足がめちゃくちゃ速い。小学校を卒業する頃には五十メートル走の記録は六秒を軽くあしらい、全国大会を総ナメ。今では五秒台に差し掛かり、世界記録を越すのも時間の問題だとされている。

「他にすることもないし、ここで刀を振っている方が幾分か落ち着くもの」

 ————————。


 ちょっと待って……っ⁈


 師範代として、その積極的な意欲は素直にたたえるべきなのかも知れないが、一女の子としてそれはどうなの——っ⁈

 自分で口にするのはいささか慎ましさに欠けるかも知れない。だが、事実として月岡愛鐘と遠星美海は紛れもない美少女である。国内でも極めてまれなほど、容姿には恵まれていると自負している。それなのにも関わらず〝他にすることがない〟って……………。


 ——彼女達の交友環境、全くもって不遇ふぐう‼︎


 運のほとんどを容姿に全フリしちゃったあまり、他のあらゆる諸問題が不幸全力投球で反比例しているんだが——⁈

 それに二人ともこれだけ容姿端麗なのに男っ気はまるで皆無‼︎ 明らかにこの剛毅果断ごうきかだんすぎる日々の習慣が、わざわいしているとしか思えない‼︎

 ——はっ‼︎ もしや癒雨が中々来ない一番の理由って——。


 強すぎる二人に愛想尽かしたのでは——っ⁈


 泣く子もさらに泣き、男号泣の絶対的身体的猛者フィジカルモンスターとなれば、自己肯定感を失い縁を切りたくなるのも無理はない。——かと言って今から猫を被るのはとうに手遅れ。何とかして彼にもう一度道場へ来てもらう為には、——剣術以外の武術で才を見つけるしかない‼︎

「——たまには弓術でもやってみる?」

「……………。そうね。たまには良いかも」

 ——よし‼︎ 美海も乗り気のようだし、これで今日の鍛錬は弓術に決定した‼︎ あとは癒雨と連絡を取るだけだが、電話はそもそも出てくれるかどうかさえ怪しい。やはり直接彼の家へとつるしか——。

「——おっ‼︎ どうした、そんな急いで……。買い出しか?」


 ——って圧倒的、ただの考えすぎだっただけェッ‼︎


「えっ⁈ いや違くて……。癒雨くん遅いから呼びに行こうかなって……」

「…………? 時間通りだと思うが……」

 確認した時間は確かに定刻通り。しかし、愛鐘には酷く遅く感じた。

「どれくらい前から待ってたんだよ、お前……」

 思えば、今朝方からずっと彼の事ばかり考え、その到来を待ち望んでいた。

「〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっ‼︎」

 足先からのぼってくる高熱に、脈が激しく波を打つ。

 灼熱を帯びる頬は、真っ赤な桜桃さくらんぼを瑞々しく実らせて花を咲かせた。

「ち、ちが——っ‼︎」

「まぁ、これからは準備が出来たらすぐ向かうようにするよ」

 こちらに目を向けてくれなくとも、その言葉には確かな暖かさがあった。

 胸の内の温度が、次第に膨れ上がっていく。やがてそれが抑えきれなくなると、愛鐘は癒雨の袖口を引き止めた。

「————? あかね?」

 瞬間、咄嗟に我へと帰る。

「え——⁈ あ、いやごめんっ! 何でもないの……‼︎」

 自分でも、どうして彼を引き止めたのか分からなかった。

 ただもう少しだけ、このままでいたいと我儘わがままを思ってしまった。

 癒雨の技量は日に日に上達しており、今では四十人いる門下生の中でもトップスリーに入るほどだ。

 しかし——。

「くそ——ッ‼︎」

 愛鐘に隙を打たれ、床に倒れ伏せる癒雨。どれだけ鍛錬を積んでも、彼女に敵うことはなく、それどころか、一本入れることさえままならなかった。

「そろそろ休憩しよ?」

「……いや、もう一本……頼む」

「で、でも、……もう三時間はぶっ通しだよ? 流石に——」

「——問題ないっ‼︎ 愛鐘は息一つ切れてないじゃないか……。お前に出来ること、俺にだって……」

 木刀の柄を強く握りしめ、おもむろに奥歯を噛み締める癒雨。彼の手の摩耗まもうは愛鐘達のそれとは訳が違った。マメやタコは無論のこと、肌荒れが酷く、内出血まで起こしている。思えば、指の関節も、曲がり方に難があった。

 長い時間を共にしていながら、この時の愛鐘は、まだ彼のことを何一つとして理解していなかった。例えば、彼が一切笑わないこと——。彼が、なにかを焦っていること——。蓄積ちくせきしていく悪いモノが、この時すでに限界を迎えつつあったこと——。

「——だめ。せめて水分補給と、十分は休憩して。オーバーワークはかえって逆効果だよ」

「………………」

 愛鐘の強固な意思に、癒雨もこれ以上の無理強いは不可能と判断したのか、いさぎよく従った。

「……わかった」

「よろしい——」

 ちゃんと言うことを聞いてくれた癒雨に微笑み、愛鐘は彼の頭へと手を伸ばした。

 思えばいつからだろう——。

 愛鐘の強さを誉めてくれた彼の弱さを、肯定するようになったのは——。

 立場は反転し、誰もそれを問題視することはなく、常識的に考えてもそれが正しい。

 けれど、癒雨の境遇は、その常識を潔しとすることは出来なかった。

 休憩に入るなり、癒雨は電子端末を開く。愛鐘も、連絡通知の確認だけと思い、端末に手を伸ばした。

 世界的回線を繋ぐソーシャルネットワークサービス。中でも人気なのが『ギャラクシー』と呼ばれるアプリ。各々が日々の出来事をアップし、様々な人々と交友関係を築くほか、世界的ニュースや、いま流行りのコンテンツまで多種にわたって知ることが出来るもの。その中心に大々的に取り上げられていた報道は、政治に興味のない愛鐘でも僅かな関心を寄せられた。


 ——斎場誠司首相。税率を現在の十五パーセントから二〇パーセントへの増税を決定。


「やば」

 等々どっかの国と同率に——。

 これに関する国民の反応は、語るまでもないだろう。

「——ねぇ癒雨くん!」

 彼にも事態の共有とその意見を求めたが——。

「ゆ、癒雨くん……?」

 呼びかけに応じず、液晶画面を凝視する癒雨の相貌は、底知れず真っ黒だった。

 思わず、恐ろしさにも似た感情を抱く愛鐘。生まれて初めて、肩に余計な力が入った。——あの愛鐘が、だ。

「癒雨くん……こういうの結構興味ある感じ……?」

 愛鐘にとって、それは意外だった。何せ癒雨は出会った時から強さに執着してばかり。日頃から剣術や鍛錬のことしか頭になく、むしろそれ以外の話をしたことがない。だから高揚した。彼と世間話をすることが新鮮で、新しい一面を見られることが何より嬉しかった。

 しかし癒雨はそれを拒み、素っ気ない態度で端末を伏せる。

「——別に。ただちょっと驚いただけだよ。それより稽古を再開しよう」

 背を向けて木刀を握る癒雨に、愛鐘は少し寂しさを覚えた。

「う、うん……」

 一際激しい打突音。

 いつにも増して重い剣戟。

 猛り狂った獅子の如き肉薄。

 それはまるで、愛鐘を引き離すようだった。

 淡い桜桃を実らせていた心に入る一太刀。

 偽られた感情。欺かれていた本心。

 愛鐘は今一度、彼と向き合えていない事に気付かされた。

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