第5話 南海トラフ巨大地震

   第四節 南海トラフ巨大地震



 立て続けに起こった斎場、麻倉の暗殺事件からわずか半年後、政界の頂には斎場誠治の重鎮、柊木ひいらぎ聖矩まさのりが新たな首相となり、総裁には宮條くじょう佐蔵さくらが着任した。

 一年後——。

 燦々と焼け付く陽射しにあぶられては、吹き付ける風に蒸される高校三年の夏が到来した。

 今年は例年よりも暑い。——そんなお決まり文句が毎年吐かれ、地球温暖化の凄まじい進行速度に毎度汗を流す。——もっとも、それは危機感ではなく単純な猛暑によるもの。

 令和二十四年のこの頃、月岡愛鐘ら一行はまだ鳴門市でごろごろしていた。

 と言っても、怠慢に暮れていた訳ではない。

「——やめてください‼︎」

 攘夷運動によって虐げられている外国人の保護を目的に、攘夷志士の弾圧を行っていた。

「どけ鬼小町‼︎ ソイツらが居る限り、俺たち国民の食い扶持ぶちは脅かされるばかりなんだ‼︎ 日本に明るい未来を示すためには、もう攘夷しかないんだよ‼︎ この国は、もうそういう段階に来てるんだ‼︎」

「だからってこの人達を殺せば、怒るのはこの人たちの祖国だよ⁈ 国が怒ったらどんな結末になるか、大人なら想像に難くないはずです‼︎」

「——上等だ‼︎ かつては侍の国と呼ばれた日本の本質をもう一度世界に知らしめてやる‼︎ 忘れられた侍魂、邪馬台国の真髄をよみがえらせる良い機会だ‼︎」

 それはもう〝阿州の鬼小町〟此処に在り——と言った有り様だった。

 大の大人が、高校三年生の少女相手に次々と倒れていき、その後は、警察の手によって連行されて行く。毎日がその繰り返しだった。

 助け出した外国人は太陰館がその安全を保証した。

「——あぁ〜疲れた〜。もう今日だけで十三件だよ。警察じゃ手に負えないし、さすがに私一人だとしんどいなぁ〜」

「お疲れ、愛鐘」

「ありがと〜、美海〜」

 差し出されたポカリを一気に飲み干し、滴り落ちる汗を拭いとる。

 愛鐘は警察よりも遥かに強く、武術に富んでいることや、太陰館の広大さも相まって、この問題の解決を警察と一連托生いちれんたくしょうで担うことにした。もちろんこれは愛鐘の意思であり、間違っても警察側から強制されている訳ではない。

 思えば、既にこの頃から愛鐘は何かを期待され、外界に達する糸口を掴んでいたのかも知れない。

「ほんと、美海もありがとね。私英語出来ないから……。皆んなの誘導や生活の援助まで感謝しても仕切れないよ」

「始めたのは愛鐘でしょ。その行動力の方が私は凄いと思うわ」

 肩を寄り添い合い、二人は共に縁側の夏空を仰ぐ。

「——にしても、余計な事をしてくれたものね。唐沢くんも」

 美海が言った。どこか憎しみを感じるような冷たい声だった。

「攘夷だ何だの……。まるで時代に取り残された老害じゃない」

 美海は癒雨の生い立ちを知らない。知らない側からすれば、当然彼は悪に写るだろう。

 しかし、その悪が、周囲から向けられる数多もの暴虐によって育まれ、それら理不尽を根絶する為に攘夷を掲げたのだとしたら——。

 愛鐘には、その善悪を極端に線引きする事は出来なかった。——すれば、大好きな彼の優しさを否定してしまう事になるから。

「こんな事されて、愛鐘はまだ、唐沢を助けたいの?」

 人としての何かを疑うような目。まさか親友にこんな疑念を持たれる事になろうとは——。

 けれど、元より月岡愛鐘この女の人格は壊滅的だ。かの異名を与えられた時点で、それは既に心得ている。自尊心そんなモノは、とうの昔に斬り祓った。

「助けたいよ」

 愛鐘の声が強く鳴った。

「彼のこころざしが変わらないように、私もこの気持ちを曲げるつもりはない」

「……………。そう」

 美海は、何処か腑に落ちない様子だった。

 それでも——。

「——愛鐘がそう言うなら、私は愛鐘を信じる。絶対、愛鐘を独りにしない」

 美海は愛鐘の手をすくい上げ、見上げた空に浮かぶ白盤よりも熱きまなこを愛鐘へと手向けた。

「だから、輝く時も堕ちる時も、私たちは同じよ」

 昼下がり。

 陽射しがより一層強くなり、蒸し焼きにされた愛鐘の体温は等々限界を迎えた。

「——それにしても暑いねえ。アイス食べる?」

 だが、二人のいこいも束の間——。

「——月岡さん‼︎ また攘夷志士が‼︎」

 そう訴えて来たのは近所のおじさんだ。

 もはや呆れるしかない。

 冷凍庫から取り出しかけたアイスを戻し、愛鐘は再び炎天下に足を踏み出した。

 愛鐘が現場に臨場した時、場は騒然としていた。何せ既に被害者の出血は致死量に達しており、動く気配はなかった。

 ——死んでいる。

 犯人と思しき人物は既に現行犯逮捕されており、地面に抑え付けられたまま尚、抵抗を続けていた。

「——唐沢さんは日本の救世主だ‼︎ 崇め讃えるべき存在なのだ‼︎ 私たちは彼の善行に報いなくてはならない‼︎ このままでは、この国の文化も伝統も、重んじて来た大和の心さえもむしばまれるのだぞ‼︎ この国の偉大なまでの治安の良さも、今や外夷によって脅かされている始末‼︎ 難民という悲劇のヒロインを演じて外道の限りを尽くすクルド人も‼︎ 汚ねぇナリで秩序を乱す中国人も‼︎ 未だ反日を掲げながらも、我が国の文化を我が物と主張するタチの悪い韓国人も‼︎ そして売国に走るクソったれな現行政治も‼︎ 全員まとめて唐沢さんが天誅の下に攘夷してくれる‼︎」

 確かに、昔から日本人の持つ習慣は海外からも称賛の声を浴びて来た。

 世界一の良好な治安を保ち、在住する国民も美意識に富み規範的。

 けれど、思えばそれは、いつ壊れてもおかしくなかったのだ。

 と呼ばれる者達をご存知だろうか。

 彼らは社会の厳しさに疲弊し、何もかもを失ってしまった者達であり、だからもうこれ以上失うものはないと、せめてもの鬱憤晴らしに無関係の者達を傷つけ死を求める者達だ。呼称においては、あるネット掲示板にて流行したもの。

 この令和の時代に入ってから、諸外国との国交関係は加速していき、下落していく日本景気に国民はことごとく悲鳴を上げていた。その中で、家を追われる者達も急増した。

 此度、唐沢癒雨という男が火種を作ったように、いつ誰がどこで攘夷を始めても決しておかしくはなく、この全体主義国家では、矢継ぎ早に便乗する者が現れ、これ見よがしに風を仰ぎ、油を注いだことだろう。

 男はなおも語り続ける。

「大体‼︎ 西洋諸国は幕末に麻疹はしかやコレラをばら撒いただろ‼︎ 令和に入ってすぐには、中国がコロナを拡散させた‼︎ 元より日本は清き良き国だったのだ‼︎」

 男の言う通りだ。

 時はさかのぼること、文久二年(1862年)正月。

 長崎に入港した外国船があり、乗船していた複数人が、日本本土上陸後、高熱を出して路上にぶっ倒れたと言う。立ち所に咳をするため、船に送還し検疫を受けさせたところ、それが麻疹はしかであることがわかった。——以来、長崎は軒並み疫病に見舞われ、中国や近畿地方にまで蔓延した。この時、たまたま京都、大阪に滞在していた江戸の僧が居たそう。江戸と言っても、小石川柳町と背中合わせになる伝通院の僧だった。彼らは何事もなく江戸へ戻ったが、その後、伝通院で発病し、たちまち周囲の僧俗のほぼ全てがこれに倒れた。

 麻疹は当時、治療手段がなく、免疫機能のない江戸の者たちは感染後は例外を残すことなく死んだ。

 当時の規模を『武功年表』引用のもと、此処に語ろう。

 日本橋上に、一日のうち棺桶かんおけが二百個以上も渡る日があったそう。

 死後、体中が赤くなる者が多く、高熱のため狂を発し、水を飲もうとしては川に走っておぼれ、井戸に投じて死ぬ者が多かった。

 当時解熱剤として利用されていた犀角さいかくなどは当てにならず、七月が盛んとなり、死者は数千人まで行くも止まることを知らず。その上、コレラが流行り、十月まで衰えることはなかったそうだ。

 そんな歴史を知っているからこそ、愛鐘も彼の意見を否定し切ることは出来なかった。

 あの時、幕府が勅許ちょっきょ無くして開国しなければ——。

 攘夷が——。佐幕が——。もし成功していたのならば、日本がここまで衰退することもなかったのではないか——。

 島国という特性の中、もし鎖国が完遂していたのならば、きっと太平洋戦争だって——。

 近代的な文明など、それを知ってしまったから言えることで、当時の日本人は、太平の世を充分に満喫出来ていたのではないか——。

 農民や百姓といえど、みな貧乏だったわけではないのだから。それらの観点で酷かったのは鎌倉時代が末期だろう。

 男の言い分は、善悪を無しにしても筋は通っている。

 だからこそ、夕刻に傾く日の中でさえ、愛鐘は今の是非を今一度考えた。

 唐沢癒雨の正義を——。

「——ねぇ美海ちゃん。もしだよ。もし、日本がまた鎖国をして、独自の文化や伝統の中、もう一度生活しようってなったら、どうなるかな……」

「……………。唐沢のこと?」

 愛鐘は頷いた。

 美海はそれを一瞥すると、夕日を拝む。

「まぁ間違いなく皆んな逃げ出すでしょうね。古臭くて不便な生活は御免だって言ってね。フィンランド辺りなんかは、税金は高いけど、日本に次いで二番目に治安が良いらしいし」

 愛鐘は黙った。返す言葉もなかったからだ。

 道理だろう。

 では——。

「じゃあ二百年前、鎖国が成功していたら、どうなっていたかな……」

 この質問には、美海も少々頭を悩まされた。

 けれど、しばらくするとさかしらに——。

「——いや、いずれは進撃されていたんじゃない? 当時鎖国が成功していても、外国は更なる文明の発展を遂げるわけだし、刀一本で我が物顔をする武士たちを、上空から爆撃して一網打尽だったでしょうね」

 ——結局、この国は進軍される結末。

 でも——。

「じゃあなんでペリーは、砲撃せずに対話を図ったんだろう……。それも一カ月も猶予を与えて。開国なんて断ろうと思えば断ることが出来て、いくらペリーが脅しを掛けてきていたとしても、本気でやるつもりなんて無かったんじゃって……。幕府が臆病だっただけなんじゃないかって——」

 いや、幕府側も、見せつけられた近代文明に惚れてしまったのだろう。

 男の子は昔から、銃が大好きだ。当時の侍とてそれは変わらない。

「——どこかでほころんでしまった武士道と、新しいモノに脅威を感じながらも知的好奇心を走らせてしまう人々の矛盾が、些細なきっかけでプツりと切れてしまったんだとしたら。今回だって、皆んな心のどこかで期待していたんだよ。現行を転覆させる為のわざわいを——」

 初めからそう願われていた。望まれていた。だからこそ、簡単に炎は燃え広がった。

 そして、妨害され続ければ必然的に抵抗は強くなり、それを壊すための願望もより強欲になっていく。

 ——カラスが、彼方の空で群れを成し鳴いている。その悠然とした黒翼を仰ぎ、地表に座する我が身を見つめ直す。

 いつだって人は、思い通りに実行することを躊躇する。

 失敗、否定、拒絶——。そう言った未来に怯えるからだ。

 だから、行動してしまえる者は、みな何かしらに背中を押されて勇気をもらう。

 期待——。

 希望——。

 願望——。

 きっと誰もが、誰かの神様になれるとき。——あるいは、主人公になれるとき、人間は初めて立ち上がる。

 ——人知れず鳴っていた地響きが感知できる程にまで大きくなった。

「……地震?」

「そういえば最近なかったよね。珍しい」

 刹那、大地が激しく跳躍し、あまりの衝撃に愛鐘達の体が勢いよく跳ね上がった。

「キャアァ——ッ⁈」

 落下する体を地面に打ち付け、なお鳴動する天地に足元をすくわれる。

 途絶える事のない震動。

 けたたましい轟音を響かせながら、地表が縦横無尽に動乱し続ける。

「ちょ……これマズくない? 震度六強はあるでしょ……‼︎ 愛鐘!」

 立っている事すらままならず、地面に手を付きながらも、美海は必死に親友の手を握った。

 桁違いの揺れ。

 人によっては、阪神淡路大震災や東日本大震災を思い起こすほどのものだ。

 やがて地面に亀裂が走り、引き離されるように各地で乖離かいりを始めた。

「美海ちゃん——ッ‼︎」

「離さないで愛鐘‼︎」

 この時点で誰もが確信した。

 四国を直撃する大地震。それも、なんの音沙汰もなく突然——。

 世に言うあの災害が、今まさに現実となった。

「——み、美海ちゃん……アレ……ッ⁈」

 愛鐘の目が示す先を見て戦慄する。

「————ッ⁈ うそでしょ……」

 太平洋沖に高々と聳え立つ巨大な水の壁——。

 逃げなければならないのに、揺れが酷く身動きが取れない。

 それに、四方が海面に囲まれ、且つ発展途上にあるこの地方では、逃げ道など——。

「——来て‼︎」

 意地でも動く。

 なりふり構ってはいられない。

 この災害が予想されていた通りなら、日本海側は被災していないはずだ。

 交通網も麻痺しているだろう。

「美海ちゃん⁈ どこ行くの⁈」

「山を越えるわよ‼︎ 山頂なら津波の心配はないでしょ?」

「土砂災害は——⁈」

「どのみちこの辺り一帯は漏れなく洗い流されるわ‼︎ 宇佐八幡神社ならそれなりに舗装されているし、比較的安全なはずよ‼︎」

 此処で一つ笑い話。

 愛鐘は学校をまともに通っていなかった為、当然防災訓練など受けていない。よって、被災した場合の正しい行動など、全くもって無知である。

 しかし、美海は別だ。

 彼女は優等生なので、その辺りの熟知は完璧だった。

 今頃、宇佐八幡神社は被災者達でひしめき合っているだろう。

 直後、傍らで爆炎が噴き上がった。

「ひゃアァ——ッ⁈」

 激しい熱風に煽られるも、二人は足を止めない。

 振り返る事もしない。

 二次災害によって焼失していく故郷から目を背け、彼女達は天を目指した。



 神社に到着した頃、既に日は落ち切っていた。

 暗闇が支配する中、集合する人の何人かが灯す明かりを頼りに道を探る。

 家内で被災した者達は防災用具や非常食などを持っている。

 同じく外で被災した者達は、手ぶらがほとんどだ。

 愛鐘と美海も、攘夷断行のため腰に差していた御刀一振りしか持ち合わせてはいない。ちなみに二尺四寸ばかりの真剣だ。女の身では居合刀で相手を昏倒させる事は難しいため、真剣で関節などを断ち、行動不能にする手段を取っていた。

 到着し、しばらく回ってみたが、集まった人の数が気に入らなかったのか、美海の眉が怪訝けげんに歪む。

「——これだけなの? 他の人たちは?」

 明らかに少ないのだ。総計しても三十人ほど。

 街は見渡す限り火の海。他の生存者の期待は持てない。

 山脈に恵まれ、津波が押し寄せて来たのは、阿南市、小松市、徳島市の三つだ。勝浦町、那賀町などの山中地域には津波の被害は及んでいない。——と言っても、土砂崩れなどはあるだろう。

 都市部に連なっていたJR線は水に浸り壊滅した。時間も時間だった為、多くの者達が犠牲になっただろう。

 二人は御神木の影に腰を下ろし、液晶型電子携帯端末を開いた。

「良かった。電波は繋がっているみたい」

 ただ、回線はかなり混雑している。

 得られる情報は少ないだろう。

「愛鐘、携帯は一台ずつ使いましょう。私の携帯の充電が切れるまでは、愛鐘は携帯の電源を切って温存しておいて。これなら多分長い間外の情報を得られるわ」

「天才ね」

 愛鐘が感心していると、すぐに一つ目の情報が——。


『——速報です。気象庁は、太平洋南沖を震源とするマグニチュード九点零の地震を観測‼︎ 近畿、四国、九州南部にて甚大な被害が出ている模様‼︎ えぇ〜これは、予測されていた〝南海トラフ大地震〟に相違ありません‼︎ 繰り返します‼︎ これは南海トラフ大地震に相違ありません‼︎ 自分の命を最優先に守るよう行動してください‼︎』


 映像は東京から放送されているものだ。

 スタジオの様子からしても、関東地方へそれほどの被害は出ていないものと思われる。その事実に、愛鐘はほっと胸を撫で下ろした。

 しかし、肝心の愛鐘自身が、現在は危機的状況にあるという事を忘れてはならなかった。

「……これから、どうなっちゃうんだろ……」

 今日は踏んだり蹴ったりだ。

 以降のことを考える気力などあるはずもなく、愛鐘は珍しく弱気だった。

 美海は、そんな彼女を優しく励ます。

「このまま何事もなければ、明日にでも救助隊が来ると思うわ」

 余震や土砂崩れを初め、更に富士山が黙っていなければの話だ。

 本当に、今日は色々ありすぎた。

 攘夷断行数十件に加え、南海トラフ大地震の発現。

 状況の深刻さと現場の空気からそんな事はないと思っていたが、体は案外正直だった。あるいは、隣人の心地良い温もりに当てられたのかも知れない。

 愛鐘は、美海の肩に頭を預け、ぐっすりと眠りについた。



 目を覚ますと、何やら集まっていた人たちが忙しなく支度をしていた。

 地図を見ながら、天候を確認するもの。

 妙な歩き方を教えているもの。

 手持ちの道具を貸し出したり、食料を分け与えているものと様々だ。

「——何してるの?」

 愛鐘の問いに、美海が答える。

「これから瀬戸大橋を目指して山を越えるのよ。その後、岡山から山口に向かうわ。交通機関が使えれば、岡山からは比較的楽になるけれど、それまではかなり険しい道が続くわ。どう? 行けそう?」

 無表情ながらも、可愛らしく小首を傾げる美海。

 行けそう——ではなく、行くしかないだろう。

「——頑張るよ‼︎」

 胸元で拳を握り、深く意気込む愛鐘。その熱烈な気合いに感化された烏合の衆が一斉に寄ってたかる。

「さすがは阿州の鬼小町ちゃんだ! 期待しているよ‼︎」

「この前は街を守ってくれてありがとうね」

「俺らも負けてらんねぇな!」

「お前この神社登る段階でへばってたクセに何言ってんだ」

 士気は上々。——皆まだ元気だ。

 もちろんそれなりな不安はあるだろう。

 けれど、後ろ向きになってはダメだ。

 前を向こう。

「それじゃあ、途中休憩を挟みつつ、瀬戸大橋を横断します‼︎」

『『おう‼︎』』

 やむなくして、愛鐘は生まれ故郷を巣立って行った。

 現在地、宇佐八幡神社から岡山までは二十七里弱。土砂崩れなどによって崩落している山道を血反吐を吐く思いで渡っていく。

「——ねぇ! なんで大鳴門橋から神戸じゃなく、わざわざ山を越えて瀬戸大橋なの?」

 道中、愛鐘が疑問を口にした。

 彼女の言う通り、本来ならば鳴門市から延びている大鳴門橋を渡り神戸を目指した方が合理的だ。——しかし、それは交通機関が利用出来ればの話。

 もしも——と言うより期待する方がむしろ野暮だろう。

 交通機関が麻痺していれば、近畿は陥落していると考えていい。ならば、当然神戸から歩くことになる。それも現地の被災者達がこぞって来ることになるだろう。

 足手纏いは居るだけ邪魔だ。

 そして、もし津波で浸水していれば、そもそも歩くことさえままならない。

「——あっちもあっちで被災しているだろうし、向かえば負担が増えるだけなの。なら、ちょっと遠回りしながらでも、山を抜けて高松自動車道を歩いた方が、津波にも浸水していない上、どうせ途絶しているであろう高速道路を真っ直ぐ歩けて楽じゃない?」

 高松自動車道は瀬戸大橋から延びる高速道路。山を抜ければそこへ進入できる。

「天才ね!」

「緊張感ないわね……」

 歩くこと一時間足らずで、高松自動車道へと降り立った。

 まだ依然として鳴門市内だ。

 撫養町黒崎と撫養町斎田に挟まれている国道二十八号線のど真ん中。

「ちょっと——と言うかかなり暑いわね」

「まだ山道進んでた方が湧き水か何かあったんじゃない?」

「最初に土砂崩れを危惧してたのは愛鐘でしょ?」

 ——そうだった。

 愛鐘達は現在、水を持っていない。何なら食べ物すらない。

 起きてすぐ、非常食持参軍団から少しだけ分けてもらったが、当然ながら限りがある。果たして神戸まで保つか——。

「——この高松自動車道は高架線だから、降りるわけにも行かないし、厳しいわね」

 おもむろに汗を拭う美海。

 そんな時——。

「美海ちゃん美海ちゃん!」

「え?」

 愛鐘が示したのは乗り捨てられた車だ。そこら中にある。

 彼女は思うがままに中を物色し、一つの買い物袋を見つけた。

「当ったり〜‼︎」

 水やお茶、その他お菓子など、そこは宝の山だった。

「アンタ……それ立派な車上荒らしじゃない」

 いくら非常事態とは言え、それを平然とやってのける神経の図太さと言えば、さすがは阿州の鬼小町だ。

 ——とは言え、この機を逃すわけにも行くまい。

「……い、いただきます」

 それにしても、こんな貴重な食料を残して、この車の車夫は一体どこへ行ったのだろう。加えて、各地に見える朱色と鉄錆てつさびのような異臭はいったい——。

「さっきから妙に臭うな〜」

 これだけ無造作に放置された車の数だ。そういう物なのだろうと割り切っていた。だがこれは明らかに生臭い。

 男の一人が我慢の限界に瀕し、鼻を摘んだ。

「誰か魚か何かを放置しちゃったんですかね」

「勘弁してくれ……」

 しかし、進めど進めど異臭は絶えない。

 重ねて、荷物が残されたまま、人だけがもぬけの殻となった車があちこちに散らばる。

「——妙ね」

 美海は目頭を細め、無意識のうちに、左腰に差した刀へと手を掛けた。



 早朝から出発し、東かがわ市、さぬき市、高松市を越えて、等々瀬戸大橋にやって来たのは、ちょうど昼食時だった。

 それから一時間も掛からず岡山県倉敷市の土を踏んだ。

「着いた〜‼︎」

 愛鐘は元気だ。

「あアァァ……ッ‼︎ どこの冒険活撃譚よ……」

 美海は疲労困憊だ。溜め息に濁点が付くくらいには疲れている。

「美海ちゃん!」

「ん?」

「お腹空いた!」

 ぶっ飛ばすぞこの鬼小町。

「見たところ、津波の被害はそれほど酷くないね」

 男の一人が言った。

「——港が盾になってくれたのか、街は案外無事みたいだ」

 彼方を見渡す彼に——。

「何棟か焼け崩れてる建物があるけどね!」

 愛鐘は甘美な声を高らかに響かせた。

 この鬼小町は何でこんな元気なんだ。

「いっぱい歩いたし牛丼食べたいね! 吉野家あるかな」

「営業してる訳ないでしょ。コンビニの菓子パンで我慢しなさい」

 無論、店員など望むべくもないが、お金はきっちり置いていく。

「——せっかく万引きのスリルを味わえるのに……」

「黙りなさい鬼小町」

 しばし休憩を挟み、再び岡山を立つ。

 案の定、交通網は死んでいたので、徒歩による遠征だ。

 沿岸部は危険なため、極力内陸部を進んでいく。

 ——愛鐘の元気は、異常だった。

 違和感を持ち始めたのは浅口市に差し掛かったころだった。

 早朝から歩きっぱなしで、誰もが口数を失い瀕死状態にある中、彼女の声が止むことは無かった。

「——さあさ皆さん善男善女‼︎」

 突然、そう歌い出したのだ。

「スタスタ、スタスタ、スタスタ坊主の来るときは、——」

 そんなのが終始続いた。

 ある意味活気があるが、この炎天下の中、繰り返される歌唱に嫌気を刺した男が彼女を処断した。

「ちょっと黙ってくれないかな……。余計疲れて来る……」

「ごめんなさい!」

 美海が謝り、愛鐘をその場に座らせる。

「愛鐘、ちょっといい?」

 彼女の額に手を当て熱を測るも、異常はない。

 しかし、明らかにおかしい。

「どうしたの美海ちゃん。私は元気だよ?」

 それが問題なんだ。

 気が触れていると言うか——。

「愛鐘、少しだけ静かにして? ね? あと、絶対私の手を離さないで」

「もちろん!」

 念の為、しっかりと手を握っておく。

 彼女も美海も、刀を持っている。

 少々精神的に問題が見られる今の愛鐘を、野放しにしておく訳には行かなかった。

 他の人達とはやや距離を置き、日が傾き始めたころ、彼女達は福山に入った。広島県だ。そこで、愛鐘達は地獄を目にする。

「……な、に……これ……」

 血が、そこら中に塗りたくられていた。

「これ、絵の具じゃなくて?」

「なんでそんなもんがこの状況で、しかもこの量あるんだよ」

 唖然とする男達。

 息を呑み、進むべきはずの足が硬直する。

 されど愛鐘は——。

「ちょっ⁈ 愛鐘——⁈」

 前に出た。

 鯉口に手をかけ、何かに目を凝らしている。その瞳と言えば——。

「————ッ⁈」

 光っていた。

 まるで本物の月のように、淡い黄金色を灯し煌めいていた。

 刹那、突風が渦巻く。

 自然現象ではない。

 愛鐘が地面を踏み抜き、跳んだのだ。一直線に——。

 いつの間にか抜かれた刀が、虚像を捉えて穿ち抜いた。

「愛鐘——ッ⁈」

 何もないはずの虚空に、鮮血が飛ぶ。それも黒い血液だ。

「な——ッ⁈」

 やがては実体化し、むくろとなってその場にたおれた。

「イヤアアアアアアアァァァァァァァァアアアアアアアアアアァァァァァァ————ッッ⁈」

 断末魔を上げたのは、鳴門市から一緒だった一人の女性。目の前の異形に戦慄し、恐怖のあまり悲鳴をあげた。

 は、——化け物だった。

 人一人分の大きさだが、漆黒の肌——と言うよりは装甲のようなモノで我が身を覆い、三つの足を頭と思しき部位から蜘蛛のように生やした身の毛もよだつ怪物。

 ——いや、顔と体はそれ一つで一体となっているのか。

 おそらく今代においては、と言った方が想像に容易いだろう——。

 とても刀で貫けるような躯体には思えない。

「まさか、こんなのが内陸部に——⁈」

 恐怖のあまり顔を真っ青に染める美海に対し、愛鐘は酷く落ち着いていた。

「——いや、多分まだそれほど多くないよ。それより——」

 突然走り出した愛鐘を、美海ら一行は咄嗟に追う。

 訪れたのは海岸沿いだ。

 けれど、見渡す海は、海と呼ぶにはあまりにも黒かった。

 混じり気のない漆黒。一周回って綺麗なくらいだ。

「う、海が——」

 足元に打ち寄せる波。それが、二つの遺体を運んでくる。

「————ッ⁈」

 愛鐘達と差して変わらぬほどの少女二人が、一人は下半身を、もう一人は頭部を失って転がった。

「……い、いや……何の冗談よ……。震災でこんな亡くなり方、しないでしょ……」

 震える声と吐き気に、思わず口元を抑える美海。

 まるで猛獣に捕食されたかのような有り様に、冷淡な相貌が等々崩壊を始めた。

 溢れ出そうになるものを必死に抑え込み、飲み殺す。

「——とにかく、先を急ごう。山口に行けば自衛隊も居るし、ここよりは安全なはず」

 おもむろに刀を納める愛鐘。先程までの楽天的な笑顔を消し、今は険しく現状の分析を行っている。

 まるで別人のような所作と言葉の熱——。

 しかし事実として、いま此処には人の気配がまるでしない。

 全員殺されたのか、あるいは逃げ延びているのか——。

 いずれにせよ、今は人から情報を得るしかない。

 不振な点はあるモノの、強く、毅然とした佇まいを決して崩さない愛鐘が唯一の頼りだ。

 彼女を先頭にし、一行は眠れない夜を歩いて行った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る