第6話 朝陽憂奈


   第五節 朝陽憂奈



 月のように優しく、淡い光を灯す彼女の瞳は、誰が見ても美しいモノだった。

 暗がりの夜道を照らし、道を示す姿は神にも等しい。

 ——そう。だから願ってしまった。



 〝このを終わらせてくれ〟と——。



 それが、人の時代を終わらせる事になるとも知らずに——。




 山口県萩市はぎし——。

 日本海側に位置する此処は、南海トラフ巨大地震の被害をほとんど受けていなかった。

 震源地が真反対にあるため津波もなく、少し揺れた程度だったと言う。その上で、被災した地域からの難民を受けていれるべく、各集合施設を解放した。

 もっとも、同じ県内でも、岩国市いわくにし周南市しゅうなんし防府市ほうふしなどの瀬戸内寄りは酷いものだった。津波による被害はもちろん、山々が連なるこの地域は土砂崩れの発生が他の県よりも甚大だった。

 そして——。

「——周南市の方から逃げて来た子達は、なんら化け物がおるって言うてパニックになっちょったよ」

 あの魔獣の存在と、黒い海——。

 謎めく超常に悩まされながらも、愛鐘達は御許町おもとまちの萩市役所前に位置する複合スポーツ施設を訪れた。隣接する明倫小学校や旧萩藩校明倫館に別れた者もいる。

 各館内には幾つものテントが敷かれ、内一つが愛鐘と美海のしばらくの家となる。

「——復興が完了するまで、このままなのかしらね」

 美海が言った。

 二人とも災害は初めてだ。

 阪神淡路大震災は言わずとも、東日本大震災も、二人はただ事実としてしか知らない。だから天災と言うものがどう言うものなのか、二人にとっては未知数だった。

「——とりあえず今日はもう寝ま——」

 言いかけて傍らを見やった時、既に愛鐘は横になって寝ていた。

 微風そよかぜのような寝息を立てて、ぐっすりと深い眠りについている。

 大変な状況だと言うのに、全くこのお嬢様は——。

 困ったようで、少し微笑ましくもあり。美海も彼女の横で寝そべり、囁くように眠りを告げた。

「おやすみ、愛鐘——」


 ——その夜。愛鐘は不思議な夢を聴いた。

 そう。観たのではない。——聴いたのだ。

 浮かび上がるモノは何も無く、ただ聴き慣れない声だけが延々と頭の中で響き続ける。

 求めるような——。訴えかけるような——。寄りすがるような——。

 それは一重に〝願い〟と呼ばれる怒涛の思念。


 ——助けてくれ……。

 ——助けて‼︎

 ——誰か……‼︎

 ——死にたくない‼︎

 ——お願い……‼︎


 ——この地獄を、終わらせてください。



 まるで落雷に撃たれたかのような、酷い目覚めだった。

「はぁ……‼︎ はぁ……‼︎ はぁ……‼︎」

 肩を激しく上下させ、服がひたるほどの発汗に酷い不快感を覚えた。

 それでも、まぶたを開いてすぐに写った親友の顔に、ひとまず愛鐘は安堵あんどする。

「——あ、あかね? 大丈夫? すごいうなされてたけど……」

 愛鐘の瞳は昨日と変わらずだった。黄金色の明かりを燦然さんぜんと灯し、その中を白い粒子がきらきら瞬いている。とても神秘的な目。——もっとも、流石に日が高いと、昨夜ほどの神々しさは観られない。

 一体何があれば、このような目をするのか——。

 愛鐘の身を、心から案じる美海。心なしかうるんだ瞳で、今にも泣き出しそうに訴えかけていた。それがどうにも不思議で、つい疑問に思ってしまった愛鐘は左手に伝わる優しい温もりに気がついた。

 ほんのり温かい、うっとりするような微熱。

 目を向ければ、美海の柔らかな右手が、自身の左手を握っている。

 すると、心細かった気持ちを十全に満たすほどの喜びが溢れ出し、愛鐘は何も言わず、美海の体に抱きついた。

「ちょっ愛鐘——っ⁈」

 ——怖かった。

 けれど、強者の立場である自分がそのような泣き言を吐けまいと、虚勢を張らざるを得なかった。今とてそれは同じこと——。

 弱音を口にすることをいさぎよしと出来ず、されど我慢ならなかった恐怖根絶の喜びに美海の体温を借りた。

 美海自身も、言わずとそれを汲み取ってくれたのか——。なにを訊くでもなく、そっと愛鐘の背中を抱きとめた。

「——ん」

 先日の出来事は、本当に怖かった。

 異形の魔獣。

 無惨な遺体。

 そして——。

 覆し、誤魔化すように、愛鐘はより強く美海にしがみ付く。

「愛鐘、大丈夫?」

「……………。うん……」

 今にも消え入りそうな、弱い声音。

 だけど、いつまでもこうしている訳には行かない。

 停滞しては駄目だ。後退など言語道断。それは月岡愛鐘のする事ではない。

 前を向こう。

 顔を上げて、胸を張ろう。

「——んん〜〜っ‼︎」

 そう呻き声を上げながら、テントの幕を開き、——叫んだ。

「おはよおおおおおおおぉぉぉぉぉぉ————ッ‼︎」

 既に起きていた者。テント内で大人しくしていた者。はたまた寝ていた者。その一切が何事かと顔を出した。

「なんだ、こりゃまた元気な嬢ちゃんが来たもんだな」

「可愛い」

「どこの子だ?」

 そんな声も仕切りに聴こえて来たので、愛鐘は堂々と、自慢の銀髪を木漏れ日に照らす。

「私は月岡愛鐘‼︎ 徳島県鳴門市から来た、武士のせがれです‼︎ 大変な状況ですが、皆さんどうか、頑張って乗り越えましょう‼︎」

 館内を透き通っていく、甘い月の鐘。外にまで響き渡るほどの凄まじい声量だが、不思議と不快感はない。綺麗な生歌を聴いているような感覚だ。今にでもレスポンスが帰って来そうなものだが——、そう思った矢先、なんと見知らぬ一人の少女が明後日の方向から呼応する。

「——あああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッ‼︎」

 愛鐘に負けず劣らずの大音声。

「なに?」

 美海もテントから顔を出し、声のした方向——体育館の入り口を見やった。そこには、深緋色こきあけいろの髪をした同い年くらいの子が、凛然と佇んでいた。

 髪は肩口で丁寧に切り揃えられ、前髪も目元付近で綺麗に整えられている。

 長い睫毛まつげにけぶる丸みを帯びた大きな瞳は、輝かしいまでの緋色を灯し、さながら太陽の如く烈々と光っている。中には金色の星屑とも思える微粒子を散らし、それはもう大層鮮やかに煌めいていた。——そう、今の愛鐘と同等の目をしていたのだ。

「……あの子……」

 血色が良いのか、頬を染める薄紅色の気配は天然物で、くちびるに関しては、紅を引かずとも艶やかな丹色を宿している。

 紛れもなく、いや、見方によっては愛鐘をも凌駕するほどの美少女である。

 少女は一目散に愛鐘へと駆け寄り、三尺ばかりの間合いを開けて身構えた。

「キミ、太陰館の鬼小町だね⁈」

 甲高い声が至近距離から鼓膜を穿つ。

 この子もまた元気だなぁ〜、と、つい呆れた美海。比べて愛鐘は、指された指に対し、渾身のビジネススマイルをお見舞いする。

「初対面早々随分失礼な物言いなのね。まずは初めましてでしょう? ガキんちょ」

 面構えは満点の営業笑顔だが、佇まいは暴徒のソレである。めちゃめちゃ喧嘩腰。

 愛鐘の言う通り、目前の赤毛は少々童顔で、幼く見える。

 しかし、身長は平均的だ。

 無論、現在百六十二センチの愛鐘と、百六十五センチの美海との差は広い。

「ガキんちょって……年さ変わらないはすだ! あたし、キミのことは一時いっときも忘れたことないんだから‼︎」

「はぁ——⁈」

 愛鐘が挙げんとした声を、美海の声がかき消した。

 なんで?

 振り向く愛鐘に、美海はそっぽ向いた。ますます謎だ。

 ——それにしても、会ったこともないのに、片時も忘れられぬほど思われていたとは、人気者は辛くて仕方ない。故に厄介ごとが持ち込まれることも多いのだが——。

「——それで? あなたは誰? 私はあなたのこと知らないんだけど……」

「それはまた屈辱的なことを言ってくれるね! ——いいだろう! 教えてあげよう‼︎ 聴いて驚くといい! そしてひれ伏すといいさ‼︎ 私は————」

「ゔぉほんッ‼︎ ゴホンッ‼︎ あらごめんなさい。ちょっとホコリが——」

「わざとだよね‼︎ 今の明らかにわざとだよね‼︎」

 澄ました笑顔を絶やさない愛鐘に、ツッコみ散らかす少女。

 愛鐘の笑顔は、見かけこそ上出来なビジネススマイルだが、その実、完全に相手を嘲笑しているような含みも感じられた。——いや、あえて感じさせるようにしていた。そしてそれがまた腹立たしい。

「それで? えっと……小峠英二さん?」

「誰が小峠だ失礼だなァ‼︎ あたしのどこに小峠要素があるというんだ‼︎ あたしは朝陽あさひ憂奈ゆうな! 朝の陽射しに、憂うる奈良って書いて、朝陽憂奈! 香川県の観音寺出身だ!」

「ご丁寧によく出来ました! ——それで、有馬かなさんは、私と何かご縁が?」

「キミやっぱりわざとやってるだろぶっ飛ばすぞ‼︎ どこどうしたら重曹を舐める彼女と間違えるんだ! 最初と最後の文字しかあってないぞ⁈」

「でも、何処となく似てるわよ? ほら、毛色や目元の辺りとか——。ご親戚? 姉妹?」

「キミまで何なんだよ‼︎ 血縁どころか交友関係すらないよ‼︎ 名前で分かるだろ‼︎」

 愛鐘はおろか、美海にまで振り回され始める重曹——ゔぅン‼︎ 朝陽憂奈。その壮絶な揶揄やゆの嵐に、等々息を切らしてバテてしまう。

「はぁ…はぁ…はぁ……っ‼︎ ま、マジで何なんだこの人たち——」

「ふっ、どうやら私たちの勝ちみたいね! キランっ‼︎」

「キランじゃないよ何に勝った気でいるんだよ何と勝負していたんだ。しょうもないことで威張るなキミは何処どこぞの諜報員ちょうほういんか……」

 得意げな顔で莞爾と胸を張る愛鐘に対し、呼吸を乱しながらもまだなおあらがう憂奈。もう嫌になったのか、彼女はきびすを返した。

「——もういいさ。どうやら噂通りの野蛮人みたいだし、関わるだけ時間の無駄だね」

 遠のく憂奈の体。ただでさえ華奢な彼女の背中が、より一層小さくなっていく。虚ろうその姿に、愛鐘は凍える雨の夜を重ねた。

 寒くて、寂しくて、虚しい——翳る月の憂い。仕切りに掘り起こされる悲劇の全てが、だが今だけは上の空だった。

 気がつけば、愛鐘の足は憂奈の跡を追っていた。

「待って!」

 憂奈の手を取った。

「はぁ?」

 拒絶的な冷たい目を浮かべる憂奈。差し詰め太陽の全球凍結だ。

 けれど愛鐘は、眩い月の瞳で、その氷河をゆっくりと溶かして行く。

「良かったら、私たち一緒に居ない?」

「「はぁ——っ⁈」」

 一方は戦慄とも言える危機的な目を浮かべ、片や一方は頬を真っ赤に染め上げた。

「ちょっと愛鐘! なに考えてるの⁈」

 思えば、今日の美海はよく喋る。その上、表情も豊かだ。

「なにって、憂奈ちゃん面白いし」

「それ馬鹿にしてる方の意味だろ」

「そんな事ないよ! ね?」

 美海に共感を求めるのは間違いである。何せ彼女、かなり不満げな顔をしている。

「……………」

 薄く漂白した瞳で、憂奈を睨む美海。その目形めなりと言ったら、餌を横取りされた猫のごとき形相だ。ならば差し詰め、迎える憂奈はカラスか——。

「——とにかく! こんな状況だし、仲良くした方が良いのは事実でしょ?」

「……それは、まぁ……」

 正論である。

 理解の早い親友に感謝し、愛鐘は憂奈に右手を差し向ける。

「——それじゃあ改めて、月岡つきおか愛鐘あかねです! これからよろしくね! 憂奈ちゃん!」

 色々あったが、此処では人と人との信頼、そして助け合いが必要不可欠だ。故に対等な関係性は築いておいて損はない。

 差し出された白肌の手に、憂奈は賢しらに微笑む。

「まぁ、ここだけの付き合いになるだろうけどね」

 鼻の穴をかっぽじり、彼女はこの上ない笑顔でその手を握った。同じ笑顔の向こうで、冷たくかげっていく三日月の美貌を前にしながら——。


 ——先に言っておこう。

 月岡愛鐘が〝阿州の鬼小町〟なら、朝陽憂奈は〝讃州さんしゅう八咫烏やたがらす〟だ。そう呼ばれていたわけではないが、対局的に名付けるのならそうなるだろう。


 けたたましい轟音と共に、体育館の扉が勢いよく蹴破られる。

 鉄の巌門かんもんが見るも無惨に吹き飛び、やがて舞い上がった白煙が渦を巻いた時、その渦中から一羽のカラスが躍り出た。

 煙をまとい、西側に隣接する萩・明倫センター駐車場へと転がる。

 カラスと言っても、その様相は炎の色を纏った太陽の化身——金烏きんうだ。

「なんだ——ッ⁈」

 何の前触れもなく巻き起こった轟音に、当然ながら周りは騒然とする。

「何事だ——ッ⁈」

「大変です‼︎ 朝陽家の御令嬢と、阿州の鬼小町が喧嘩してますっ‼︎」

「誰か二人を止めろオォ——‼︎」

「おうち帰りたい——ッ‼︎」

 しかし、うさぎはそれを間髪入れずに追随——。天上から真っ逆さまに竹刀しないを振り下ろした。——兎と言っても、片や鬼である。

 跳躍と急降下による加速に加え、ご自慢の怪力で渾身の一撃を叩き込む。

 同じくこれを竹刀で受ける金烏。凄まじい打突音があまねく者達の鼓膜を痛めつけ、衝突によって生じた衝撃波が、僅かに砂埃をあげる。

「(スゴい——ッ⁈ こんな重いの——ッ⁈)」

 あまりの威力に度肝を抜かれる金烏。

 鬼は標的の竹刀に乗ったまま車輪を回し、彼女のかすみを蹴り飛ばした。

 カラスの躯体が、撃ち放たれた鉛玉なまりだまのように一直線に吹っ飛んでいく。あわや、駐車された車両に衝突する寸前で踏み止まり、竹刀をついて立ち上がった。

 観戦者達は、その者達の正体を改めて知る。

 朝陽憂奈と月岡愛鐘。竹刀は倉庫にある物をパクったのか——。

「——マジでの娘さんじゃねぇか‼︎」

「片や太陰館の鬼小町……。何が起こってんだ……?」

「太陽館?」

 似て非なる馴染みない単語に、破壊された入り口に立つ美海の眉根がゆがんだ。

 彼女のもとへ、それを知る人物が落ち着いた様子で現れる。

「——朝陽憂奈は、香川県観音寺にある太陽館道場の筆頭だ。そこは憂奈アイツの生家、朝陽家管轄の剣術道場でな、——まぁ月岡んとことほぼ同じ感じよ。けど、阿州の鬼小町の噂が広まってから、剣術を習おうとする子達の多くが太陰館に集中。結果、太陽館の門下生は激減し、今回の災害で完全に潰れちまったんだよ」

「……だからあの時——」


『——あたし、アナタのことは一時いっときも忘れたことないんだから‼︎』


 納得だ。

 つまり、憂奈にとって、自身の道場を衰退させた元凶である月岡愛鐘は呪ってしかるべき存在であり、最大の好敵手となっていたわけだ。

 だが——。

「——けど、愛鐘に勝つことは、難しいと思いますよ。……あの子、化け物ですから」

 美海の言う通りである。

 月岡愛鐘は化け物だ。

 人と認識するだけ間違いである。

 俯瞰する戦況に、美海は朝陽憂奈の技量を測る。

 憂奈の足が肩幅に開かれ、竹刀が脇構えをとった。

「——日出暁天ひいずきょうてん——」

「あの構えは!」

 動揺を見せ始める男に、美海も心なしか手に汗を握る。

 見ているだけで分かる。朝陽憂奈の気迫——。ただ者ではない。

 美海が息を呑んだ次の瞬間、——んだ。


『——東雲しののめ‼︎』


 茜色の一閃をき、炎を模した金色のカラスが、一直線に駆け抜けた。

「————ッ⁈」

 正しく光の速度——。

 守備は間に合いはしたモノの、必要となる圧力が足らず弾かれてしまう。

 宙を舞う愛鐘の竹刀——。

 憂奈の勝利は確定し、彼女自身もその愉悦ゆえつに口の端を吊り上げたその刹那——。

「——ぐふあァッ⁈」

 力強く握られた鬼の剛拳が、憂奈の鳩尾みぞおちを貫いた。

「かはッ——ァアッ——‼︎」

 洒落にならないほどの重圧——。

 至近距離から砲弾を喰らった気分だ。

 呼吸が出来なくなり、肺に経験した事のない圧迫感と熱がこもる。

 やがて唾液が、口の中からこぼれ始めた。

「——決闘だと勘違いしちゃった? けど残念。これは喧嘩だよ。だからルールもクソも無ければ、スポーツマンシップなんて望むべくもないでしょ?」

 膝をついて倒れ込む憂奈に、冷酷無慈悲な目を向ける愛鐘。——やはり鬼だ。

 当然ながら周囲は愛鐘をとがめた。

「何やってるの⁈」

「キミは加減を知らないのか‼︎」

「なんて酷いことを‼︎」

 しかし、愛鐘が反省の色を見せる事は言うまでもなく、あまつさえ彼女は、自身の特論をあごをしゃくって語り始めた。

「——私、喧嘩売ってきた人には容赦しない主義なの。可愛くて可憐で、清楚な私だから、今まで散々ナメられてきたけど、私はそのことごとくに裁きを加えて来た。ちなみに憂奈コイツはね、私のこの麗しい手を、わざわざ鼻糞をほじってから握ったんだよ⁈ 信じられないでしょ⁈ 絶対悪の何者でもないよ‼︎」

 凄まじいまでの自己肯定感と責任転嫁。そして自主正当化。

 あぁ〜この子、性格悪いな〜。と、この時誰もが思った。

「——だからってお腹はマズいよ。最悪、不妊におちいることだってあるんだから……」

「大丈夫! こんな女子力五パーセントの女、結婚なんてそうそう出来ないですって! 鼻糞擦り付けて喧嘩売って来るような猿ですよ?」

「——いや、館内で一部始終観てたけど、最初に喧嘩売ったのは月岡さんだよね? 朝陽さんのこと散々揶揄からかってさ……」

「そうなの?」

「過去は振り返らない主義ですの!」

「おい」

 今更淑女しゅくじょを気取って何になるのか——。

 四肢をついて悶え苦しむ憂奈と、それを案じる烏合の衆。

 愛鐘はたちまち、虫の居所を悪くした。

 周囲から向けられる冷たい視線には慣れているが、だからと言ってどうしたら良いのか分からないのが現状だ。

 棒立ちしているだけと言うのも落ち着かず、だからと言って今しがたほふった相手をいたわることなど、尊大な自尊心がいさぎよしとしないのもまたしかり。

 愛鐘は不貞腐れ、その場に背を向けた。

「あ、愛鐘!」

 美海はその後を追っていく。

「どこ行くの?」

 眉間にしわを寄せたままの愛鐘へ何気なく尋ねた。

 流石に無言でついて行くのも座りが悪い。

「お腹すいた。なんか食べる」

 あれだけ暴れ回れば無理もない。

「それなら、被災者向けの配給があるわよ? ほら、あっちの方で——」

 言われてみれば、仄かにカレーの香りがする。激昂していて気付かなかった。

 美海が示したのは明倫館の方だ。食堂が開放されており、誰彼問わず振る舞っている。

 センスが良い。カレーは嫌いな者を作らない究極の一皿だ。ありがたく頂くとしよう。

 その道中、美海は耳にした話をそのまま愛鐘へと告げることにした。

 愛鐘は根は優しい女の子だ。——でなければ、も、自身の評判をかえりみず暴走族を蹴散らしたりはしない。だから話せば、きっと分かってくれると美海は信じていた。

「——朝陽憂奈さん。太陰館発展に起因して自分の道場が経営困難になったそうよ」

 しかし、愛鐘は関心を向けなかった。

 一瞥いちべつすら良しとせず、真っ直ぐ歩みを続けている。

 それでも——。

 美海はあくまでも独り言をよそおって、未だかたむかぬ親友の耳を切望した。

「——以来、ずっと門下生の募集をしていたらしいの。学校や町内で演舞を披露したり、剣道部と試合をしたりして、人気を集めようとしたらしいわ。——事実、それを観ていた周囲の子達も楽しんでいたみたいでね、景気は上々と思われていた」


『憂奈ちゃんカッコいいwww』

『一人でやってのける度胸は素直に尊敬するわぁ〜www』

『いやぁ〜憂奈のメンタル見習いてぇ〜www』


「けれどある日——」


『——朝陽ってガチイタいよな〜』

『分かるわぁ〜。あれホントにウケてると思ってんの哀れで笑うわ』

『いや実際ウケてるだろ。馬鹿にされている方の意味で——』

『違いねぇ!』

『アイツの隣歩くの絶対無理だよな』

『同じくらいのメンタルないと死ぬ』


「——楽しんでくれていると信じてやった行いが、結局皆んな独り歩きしているあの子を嘲笑っていただけだった。それを知らされてしまった彼女は、——刀を捨てたそうよ」

 ——あの時、憂奈が竹刀を握ったのは、自身をおとしめた元凶愛鐘を排除する為の最後の剣——。あるいは、自身の行いを肯定、正当化するため、馬鹿にしていた彼らを捩じ伏せるためのものだったのか。——つくづく哀れだ。

 しかし——。

 思い返される先の喧嘩。

 あの愛鐘が、一度は竹刀を弾かれた。

 どれだけ馬鹿にされ、嘲笑されようとも、あの技術は本物だ。

 明倫館の食堂に到着した愛鐘は、スチロールパックに乗せられたカレーを二人前取って姿を消した。



 何食わぬ顔で再来した鬼の気配に、憂奈は悪態をつく。

「——何しに来たの」

 体育座りをし、膝の上で組んだ腕に顔をうずめている。

 泣いているのかコイツ——。

「ん」

 その目前に、スパイシーなカレーの香りを近づけてやった。

 顔をあげる憂奈。赤く腫れた目蓋で、湯気の立つカレーを鋭く睨む。

「なにこれ」

「カレー。知らない? インド発祥で、明治初期の文明開花と一緒に西洋から日本に——」

「そうじゃなくて……。その——」

「食べなさい。お腹空いてるでしょ? 美海ちゃんなんて特盛り頼んだんだよ? ほら——」

 見ればそれはなんと見事な漫画盛り。創作物の中でしか観ない量だぞアレ。

「……………」

 今にも七つの玉を集めて冒険に出そうな勢いだ。

「またいつ何が起こるか分からないんだし、食べれる時に食べといた方がいいよ。んん〜おいひぃ〜」

 一人でにカレーを堪能し始める愛鐘を前に、憂奈も皿とスプーンを手に取った。

 しかし、思うように喉を通らない。

 憎き元凶のくれた物など誰が好んで食べるだろうか。

 カレーを置き、その場から退散しようと腰を上げる憂奈。愛鐘の重い口が開かれたのはそれとほぼ同時だった。

「——さっきはごめん。からかって……」

 信じがたい言葉を前に、上がりかけた憂奈の腰が思わず静止する。

 やや驚いた様子で、彼女は愛鐘へと振り向いた。

 信じられない。この娘の辞書に謝罪なんて言う文字が存在したのか——。

 更に愛鐘は言葉を重ね——。

「憂奈ちゃんは強かったよ。すごく——。初めてだよ、ペース崩されたの。だから……、その……。剣、続けて欲しい。馬鹿にされたからって諦めちゃうの勿体無いよ。確かに、今の時代、刀とか剣術なんて中々受け入れられないし、私もよく変人扱いされたよ」

 まぁそうだろうな。——でなければあんな異名は付かない。

 愛鐘自身も、今まで何度生まれる時代を間違えたと思い悩んだことか——。

 本気でペリーの来航や薩長、徳川慶喜とくがわよしのぶを恨んだりもした。

 けれど——。

「——でもさ、これって古き良き伝統でしょ? 私たちみたいに、続く人達が居ないと、伝統を重んじてきた昔の人たちの努力が無駄になっちゃうと思うの。それに——」

 愛鐘は重ねていた。朝陽憂奈に、唐沢癒雨という男の存在を——。

 彼ほど酷くはないが、憂奈もまた、他者によってしいたげられてきた側の人間だ。

 唐沢癒雨を助ける事は出来なかったけど、——でもだからこそ、せめて彼女だけは手を取ってあげたい。

「このままだと憂奈ちゃん、私の知ってる人みたいになっちゃいそうで、怖いから……」

 カレーの具と睨めっこをする愛鐘に、憂奈は顔をしかめる。

「なにそれ……」

 弁明する気があるのなら、目を合わせるべきだろう。

 ——とは言え、気まずいのは憂奈も同じだ。

 これだけ素直に謝られると、彼女としても決まりが悪い。

 自身の過ちを反省し、悔い改めんとする者を無碍むげにするほど、憂奈自身も非道を歩んでいない。

「………………」

 調子が狂う。

 むず痒くなる気持ちに奥歯を噛み締め、憂奈はもう一度、愛鐘の隣に腰を下ろした。

「——いただきます!」

 もはやヤケクソだ。

 与えられたカレーをむさぼり尽くす。

 暖かく、仄かに辛い濃厚な風味が、憂奈の体を内側から温める。

 傍らを見やれば、淡く灯る半月の美貌——。

 不思議と、憂奈の頬には熱がこもった。

 傍観していた美海は思う。

 きっと憂奈自身、剣術を辞め刀を捨てることに踏ん切りが付かなかったのだろう。それを愛鐘が上手くさとしたことで、彼女の劣弱意識を肯定した。

 美海もそうだったが、愛鐘は昔からよく人に影響を与える。唐沢癒雨のように、それが悪い方向に転がる事もあるが、彼女が成長し、人を心から思いやる事が出来れば、きっと何かを変えるきざしになる。——そうなる日が、いつか必ずくるのだろう。

 親友の類い稀なる才能をどこか誇らしく思い、美海は甘美なカレーの甘味を堪能した。

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