第15話 僕たちはきっとわかりあえる


 サクが目を開くと、其処は真闇まくらな空間であった。はじめてツキタチと出逢ったとき同じ、常闇だ。

 

「……戻って、来れたのか」

 

 サクは独り言ちる。手を伸ばすと、己の白い腕が見えた。女の、柔らかな肌の腕だ。下へ視線を移すと白い着物と己の肩から流れる長い白髪が見える。己霊こだまの、己の姿だ。

「さて、と」

 サクは数回息を吐き出し、そして前を見据えた。よくよく見ると闇の黒は蠢き、常に様相かたちを変えている。

「なんだ。単なる暗い場所だと思ってたけどこんなだったのか。僕って本当に何も見てねえのな」

 髪を撫で付けるように後ろへ掻き上げ、サクは溜息をついた。気にしないでおこう、気にしてはならぬ。呪文のように言い聞かせていたことで、すべてのことから目を閉ざしていた、ということであろうか。サクは不図、肚に手を当てた。

「…………あれ、そういや」

 もやもやとしていた感じが無い。サクは目を瞬かせた。

「ああ、そうか。あれはあいつとあったのか。……たく」

 若し紫苑の言葉の通りなのであれば――詰まりあれは彼の悲鳴なのだ。その嘆きは、サクにしか止めてやることはできないのだ。

「早く見つけてやらないと、な」

 彼は此の空間の何処かに居るはずだ。此処は、ふたりの居場所なのだから。此処は縁の証なのだから。サクは瞳を閉じ、耳を欹てた。しんとした静寂の中に在る筈の彼の音を探る。

 

「――……う」

 

 サクは目蓋を上げた。聲だ。微かで消え入りそうな、弱々しい――泣き聲。間違えない。彼だ。サクは己の両頬を叩き、己を奮い立たせる。彼の元へ往かねば。

 サクは音のした方へ駆けて往く。早く彼のもとへ往かねば。ずっと息を押し殺して泣いていた彼の聲を聴かなければ。次第に聲は明瞭はっきりとなり、彼が泣いているのだとサクの中に確信させた。

「――……此処に、居たんだな」

 サクは立ち止まった。其処には、濡羽色の髪の少年の姿が在った。彼は膝を抱えて、坐り込んでいた。

 

「ツキタチ――いや。

 

 サクは器の名を呼んだ。彼は器で、己が己霊なのであれば、己の名が「淡雪のサク」であるように彼の名は「からす」であるべきなのだ。鴉は青白い貌を上げ、サクを見詰め返した。そのまなこは赤く腫らしている。

 (聲を、かけねえと)

 サクは言葉を詰まらせた。何と切り出せばよいのか、皆目見当付かない。口数の少ない彼を喋らせなければ。鴉は此方を見ない。何時までも俯いて哭くのを抑え込んでいる。サクは絞り出す様に言葉を一息ひといきに吐き出した。

「御前、まじで急に引き籠もるのやめろよ。心臓に悪いだろうが。お陰でこっちは柄にもないことでもやもやさせられてよ」

 鴉は面を上げ、驚いたように黒い瞳を見開いてサクを見詰め返していた。だが矢張り、何も云ってはくれない。

「おい、御前に付いている口は飾りか?黙ってねえで何か云え」

 鴉は真闇の瞳を揺らし、数度その口が空を切る。気不味いのか鴉な目を逸らすと、漸く言葉を発した。

「……あ、え……ごめん」

 突然のことに頭がついていっていないのかその聲からは動揺が感じられる。サクは頭を掻いた。

「…………いや、そうじゃねえんだ。ええと、ううん」

 鴉と視線を合わせるようにサクは膝を付き、目を合わせない鴉の貌を見据える。

「謝るな。泣いていいんだ。泣きてえなら僕に云え。御前は泣きたかったんだろう。でも僕がそうさせなかった。で、僕が御前を押し込めちまったんだ。そうだろう?」

 サクは鴉の両頬を手で包み、己の方へ向けた。ぽかんとした鴉の貌色は悪い。彼はずっと痩せぎすで、青白い。サクは彼の様子は器の健康状態に比例しているのではと考えたこともあったが、深く考えず放置した。今思えば、それは大きな誤りである。その「深く考えないでおこう」という考えが鴉を苦しめていたのだ。サクの気持ちが、鴉の気持ちを疲弊させていたのだ。

 

「まったく、御前は自己主張がなさすぎるんだよ。もっと僕にぶつけろよ。縁を結んだ者同士だろ。」

「……えに、し?」

「そうだ。御前は器で、僕は己霊こだま。僕たちは縁で結ばれているんだ。僕たちはふたりで、ひとつなんだ」

 鴉は目を瞬かせ、サクを見て言葉を失っている。サクはにやりと口端を上げ、笑って見せた。

「御前と僕は別々の存在だけど、僕たちは家族で……そうだな。僕たちは異性同士だからな。こういうのは「夫婦」ていう言葉が合うんじゃねえか?」

「夫婦?」

「そうだ。地丿國では、夫婦は共にひとつの家族を築くんだろう?互いの意思を尊重し合って、時には衝突して。……だから、御前も僕に気持ちをぶつけてくれ。一緒にどうするか、考えさせてくれ。僕は御前の、お嫁さんなんだから」

「……嫌わない?」

「んなことで嫌うかよ。御前とは長い付き合いになるんだ」

 

 鴉の頬に、一筋の涙が流れた。その涙は次第に大粒の涙になり、鴉は嗚咽を漏らした。サクは鴉をそっと抱きしめた。堰を切ったように鴉は聲を吐露する。、

「桜華姐さんは、俺にとって母親だったんだ……」

「うん」

 サクは静かに応え、鴉の背を擦る。

「でも、泣いたらいけないって思って。でも、矢っ張り辛くて……」

「うん」

「俺はどうして、あのひとに何も言ってやらなかったんだろうって後悔ばかり浮かんできて……」

「うん」

「俺は、ずっと桜華姐さんに、有難う、て言いたかったんだ……」

「うん……今度からは言葉に、聲にしていこうな?きっと、伝わるさ」

「うん……ありがとう、サク」

 鴉がサクの腕の中から離れ、そしてサクの両頬を彼の手で包んだ。その黒い瞳は涙で潤んでいるが穏やかさがある。その口元には微笑みが浮かべられていた。鴉はゆっくりと口を開き、繰り返した。

 

「ありがとう、サク」

 

「きっとぼくたちはわかりあえるさ、鴉」

 

 サクもにやりと笑い返し、そしてふたりは口付けを交わした。真闇には光が溢れ、ふたりの額にはふたつに別れた蝶の紋様が浮かび上がっていた。

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