第14話 ツキタチ


 僕が今の器――鴉と縁を結んだのは、冬の雪の深い夜だった。目を覚ました先は目前は真闇まくらだった。否、僕自身が深淵だったと言ったほうがよいかもしれない。僕は僕であり、空間だった。何も見えず何も聞こえない。けれども向こうで恨めしそうに見る女の貌を。意識の片隅で、己を「鴉」と呼ばわるざらついた老婆の聲や「御前さえいなければ」と呪う聲を

 

 なんで己が残っているのだろう?

 

 僕は不思議に思ったが、きっと器と性が合わなかった故であろうと思いこむことにした。

 

 それから何年もそんな状態が続き、あるとき、己に罵声を浴びせる女の背中を見た。何をしているのだろう、と眺めていると、女はしくしくと涙を溢し、頻りに誰かの名を呼んでいた。理解出来ぬ行動だ、と思いその場を立ち去ろうとした。だが然し、そう出来なかった。何故か僅かな息苦しさを感じていて、その苦しさがその場を退くのをよしとしなかったのだ。きっと器の具合が良くないのだ。そうに違いない。僕は一心に耳を塞ごうとした。その時だった。

 

「ねえ……さん」

 

 空間の中で、己のものではない聲が鳴った。途端に視界が開け、そらも草木もすべてが色鮮やかになった。そして――僕の前に、濡羽色の髪に常闇を塗り込めたようなまなこをした幼兒おさなごの姿があった。

 

「御前、何なんだよ」

 

 僕は意図せず、問い掛けていた。己の聲が出せると知らず、僕は驚いた。よくよく見れば僕の手も、足もある。僕は空間ではなく、僕だった。

「え、まじかよ」

 僕はまた聲を上げた。聲も聞き慣れた己の聲だ。目前に立つ幼兒は小首を傾げて僕を見ている。その眼は虚ろで、精気を感じられない。

「……で、御前は何なんだよ。僕と同じ己霊か?」

「……こ……だま?」

「名は?」

「……な……?」

 話し方も辿々たどたどしく、僕は頭を悩ませた。何故器と縁を結んでいる己がすらすらと喋っているのか、眼の前のこの子供はいったい何処の誰なのか。疑問は尽きぬが深く考えてはならぬと頭の片隅で警鐘が鳴る。

 

「じゃあツキタチでいいや。御前、とかそこ、とか面倒いし。僕はサク。淡雪のサクだ」


 その翌日になると、視界はまた暗闇だった。異なるのは己の姿があることと、ツキタチの姿がそばにあることだった。

「あれ……?昨日は明瞭はっきり外が見えてたのに。なんでだ?」

 僕は小首を傾げるが何も変わらない。ぐるりと空間を歩いてみるが矢張り何も無い。

「……別に何もねえならそれでもいっか。これで実は縁が解かれてました、ならそのうち天ツ原に行くだろうし」

 取り敢えずツキタチを起こしてみるか、と僕は意識をツキタチへ移した。だがしかし、何度呼んでも返事をしない。しても二度寝を決め込もうとする。致し方なく強く揺すってもツキタチは思いの外寝覚めない。

「おい、起きろよ。ツキタチ」

「……ううん」

「おい……てめえ、起きろ、ツキタチ!」

「……うあ」

 ツキタチは豆鉄砲を食らったような面持ちで飛び起き、その際に誤って僕に頭突きしてしまった。

「痛ってえ!」

 と僕が叫ぶと同時に、僕とツキタチの身體が白い光に包まれた。

「……え?まじか」

 そして気が付くと、鮮やかな視界が目前に広まっていた。不慮の事故で器を起こす方法を知ったのである。だがまあそんなこんなで、サクとツキタチはともに器を共有する同士となったのである。







「……待て待て。じゃあなんだ。器にも僕みたいな意識があるって言いてえのか」

 

 サクは頭を抱えながら、聲を絞り出した。既に頭の中は一杯々々で、処理落ち寸前である。己の器の父親を名乗る男は実に奇妙なことを考え出すものだ。器にふたつの意識が存在するだなんて。

「そうかもしれませんよ。現に御前は話し方が変わったり、様子が変わったりしますし。以前会ったときはもっと物静かな印象がありました」

「それは、ツキタチで……」

 サクははた、と言葉を続けるのを止めた。紫苑はそれを聞き逃さない。真っ直ぐな眼差しで言葉を継いだ。

「ツキタチ、とは何ですか?」

「……いや、ついこの間まで僕と一緒に器を動かしてたやつで……。今まではあいつしか器を動かせなかったんだ。でも桜華姐さんが死んだときに急に姿が見れなくなって……そうしたら僕が器を動かしてたんだ」

「その子は己を「俺」と呼ぶのでは?」

 紫苑の聲は我が子を諭すように穏やかだ。いや、器からすれば彼は父親なのだが。紫苑が何を考えているのか何となく予想出来たサクは口を噤んだ。確かに、ツキタチは「俺」と己を呼ぶ。色々と頭の中で考えが巡って混乱するようになったのはツキタチの姿が見えなくなってから。それは若しや――……。

 

「御前の中に、そのツキタチが隠れているのではないでしょうか。葛藤するのは、ツキタチと御前のこころが食い違っているからではないでしょうか。御前は感情を否定しながら、ツキタチを否定して、押し込めて居るのではないでしょうか」

 

 紫苑の静かな聲に、サクは黙りこくった。ツキタチが器で、サクが己霊。ふたりは縁を結んだ者同士だった、ということか。サクは俯き、紫苑の着物の袖を掴んだ。

「……じゃあ、このもやもやした感じはどうすりゃ治るんだ?」

 肚の底でずっと何が燻って気持ちが悪い。その燻りがサクをそわそわさせ、落ち着かせてくれない。紫苑はくすり、と笑った。

「簡単なことです。話し合い、折り合いを付けるのです。同じ器を持つ者ならばきっといつか……」

 紫苑は優しくサクの頭を撫で、続けた。


「わかりあえるはずですよ」


 サクは暫し紫苑を見詰めた。紫苑の群青の三白眼は優しげに細められている。紫苑は穏やかな聲で言った。

「もう、御前のすべきことは理解わかっているはずですよ」

 サクはきゅっと唇を噛み締め、そして目蓋を閉じ、静かに応えた。

「僕、あいつと――ツキタチと、話してくる」

 

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