第12話 翡翠の君
「紫苑――……!」
とたとたと、木造の廊下を駆け抜ける小さな足音が鳴る。紫苑は音の鳴る方へ振り返った。視界に映るのはぼんやりとした輪郭。色も混ざり合い、判別が付かない。
「翡翠?朝から騒がしいよ」
「姐さんたちから菓子を貰ったんだ。あんたにも分けてやろうと思ってさ」
そう言って翡翠は紫苑の手を取り、その上に小さくころころとした何かを乗せた。
「……これ、なに?」
「金平糖って言うんだってさ。舐めてみなよ、甘くて美味いよ」
言われるがままに口の中に放ると、ほんのりと甘い。表面にいくつか突起のあるらしく、舌触りも愉快だ。
「ああ。もうすぐあたしも姐さんたちの仲間入りかあ。」
翡翠は悲しげな聲を漏らす。翡翠はもう間もなく十五を迎える。紫苑と翡翠はともに妓女の子供で、双子の姉弟であった。
女の子の翡翠は姐さんたちと一緒に客を取ることが約束されていた。器量のよく、人当たりもよく、賢い。そんな女を無償で育ててやるほど世の中甘くない、と柊樹の婆は言い聞かせていたものだ。紫苑は目の色こそ珍しいが男の子だったので、妓女の路に行かずにすんでいた。下働きでも良かったのだが、篠笛の腕が良かったので楽師になれ、と言われている。
「あんなに着飾っている翡翠、想像つかない」
「あたしもだよ。簪いっぱい挿して、紅さしてさ。紫苑は本当に楽師になるの?」
「うん。この眼だと、やれることしれてるしね」
「ふふ、じゃあずっと一緒だ」
翡翠はぎゅっと紫苑に抱きしめた。紫苑もまた、抱きしめ返した。
それから翡翠は髪を上げ、紅を差し、女の着物を着て店に出た。
「……詰まり、あんた。昔はここに出入りしてたってことかい。」
舞鶴姐さんは驚いた様子で聲を上げた。紫苑は静かに頷く。
「でもあんたの場合、身寄りも伝手もないんだろう。どうやってここを出たのさ」
「ははは、笛の腕を買われてね。是非弟子にほしいと、外の楽師が言い出したんですよ。ちょうど國の飢饉騒動で香玉館も経営が苦しくなりつつあったのところを理由を付けて追い出された、ということですよ」
「羨ましいかぎりだよ。弟子ってことはそこそこ大事にされたんだろう」
舞鶴姐さんの言葉に紫苑は苦笑した。妓女たちの多くは娼館から抜け出せない。抜け出せたとしても、金持ちの愛人として外に出る事が多い。大事にされることは殆どない。幼い頃より娼館にいた紫苑は十二分にそれを知っていた。
「でも私にとって、翡翠を置いていくのは身を切るような思いでした。ずっと一緒にいましたからね」
「……ねえ、野暮なことを聞いてもいいかしら?」
申し訳無さそうに、怖ず々々と鈴蘭姐さんが手を上げた。聞いてもいいのだろうか、という風で垂れ目の奥の眼が泳いでいる。
「…………もしかして、あんたが鴉の父親だったり、するの?」
気不味い沈黙。鴉の父親は誰にも明かされていない。桜華姐さんも知らない。あの柊樹の婆ですら知らない。鴉の母親――翡翠が最期まで彼女の胸のうちに留めていたのだ。翡翠は売れ筋の妓女であった為、余程の金を積まない限り共寝をしなかった。金を積んでも柊樹の婆や翡翠のお眼鏡に叶わなければ赦されない。故に
「鈴蘭、冗談をお言いでないよ。このひとと鴉の母親は姉弟なんだろう。そんなわけないじゃあないか」
舞鶴姐さんが困惑顔で言った。
「……いえ。きっとそうです」
「「え」」
舞鶴姐さんと鈴蘭姐さんは同時に聲を上げた。紫苑は目を伏せ、続ける。
「私にとって翡翠がすべてであったように、翡翠にとってもそうだった、ということですよ。……まさか、命を落としてしまうとは思わなかった。そうと知っていれば、私は翡翠の要求を拒んだのに」
再び気不味い沈黙。舞鶴姐さんも鈴蘭姐さんも驚きのあまり言葉を発せないでいた。紫苑は苦しげに言葉を溢す。
「……あの子は、小さい時どんなだったのですか」
「はじめは、そうだね。ぼうっとした子だったよ」
舞鶴姐さんは応えた。舞鶴姐さんが香玉館へ売られたばかりの頃、鴉は厭われていた。あの桜華姐さんですら毎日のように貌を合わす
「でも桜華姐さんが構うようになってからは、少しマシになっていたね。時折何も無いところをぼうっと見ていたけれど。でも、笑わないのは変わらない」
鴉は笑わない。怒りと悲しみもしない。舞鶴姐さんは中央棟へ視線を向け、小さく吐露した。
「……あの子は感情を押し殺すうちに、感情を見失ってしまったのかもしれないね」
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