第11話 聲を閉ざす


 これまで、サクには「感覚」――痛い、くすぐったい、柔らかいといった――はあっても「。きっとこういう事実を伝えるとき、地丿國の者ならばこういう表情でこういう言葉を使うだろうという知識のもと、地丿國の者の真似をすることは幾らでもあった。

 己霊こだまは「意識」のなかで地丿國の器を生かす原動力として生きる存在なのだ。とはいえど、矢張り己霊こだまは器にとって異物に過ぎない。ふたつの異物が混ざり合うことで「感情」という不純物が生じ、そしてそれは育ってゆくのだ。

 己に違和感があるのはきっと本来の位置に己がいない所為だ。サクはぎりぎりと歯を食いしばった。まるでこの身體は己のものでない。胸の奥で何かが燻っている。

 天ツ原で、このような感覚を味わったことは一度だってない。知らない言葉や事象に出逢ったとしても、地丿國の器のように不安や焦燥に駆られることはないのだ。其れはまだ器から獲得していない知識であると割り切れるのだ。その上、多くの知識はきっといつか縁を結んだ器から学ぶ知識であろうことも知っている。故に不思議に思うこともない。

 だから、こんなのは俺じゃない。今の俺は、俺じゃない――……

「君は、感情を知らないのですか」

 紫苑は静かな聲で尋ねた。サクは己に言い聞かせるように聲を荒げた。

「ああ、知らないとも。そもそも俺たちにはそんなものはないんだ」

「……けれども、私には今の君に感情があるように思えます」

「はん!馬鹿々々しい。この話は終いだ」

 サクは聲を張り、これ以上の紫苑の言葉を拒絶した。頭の端で、認めてはならぬと己霊こだまの性質が囁くのだ。天ツ原は不変だ。天ツ原に生きる己霊こだまも不変だ。知識を蓄えても、その本質が変わることはない。変わることを赦してはならない。

「いったい、どうしたの。大きな聲を出して」

 サクの聲を不審に思ったのであろう。二階から降りてきた鈴蘭姐さんの姿が其処にあった。鈴蘭姐さんはサクを心配そうに見詰めていた。

 あゝ、これはいけない。これ以上掻き乱されてはならない。

 サクの額から冷たい汗が伝う。サクは徐ろに鈴蘭姐さんと紫苑を交互に見遣り、此処から逃げ出してしまいたい、という衝動に駆られた。

「鴉?どうしたんだの」

 鈴蘭姐さんがサクの方へ手を伸ばした。サクは理由もわからずその手を強く振り払った。鈴蘭姐さんは酷く驚いた貌をしている。サクは息苦しくてたまらない。この身體の感覚に付いていけない。

「――……!」

 サクは鈴蘭姐さんを退けて其の場から飛び出していた。背後から鈴蘭姐さんや紫苑が己を、この器の名を呼ぶ聲が聞こえるが、サクは構わず走り抜けた。






「……あの子は、いったい何者なんですか」

 

 鴉を追い掛けようとする鈴蘭姐さんの手を掴んで留め、紫苑は尋ねた。

「え、どういう……」

「あの子は感情を持たぬと言っていました。いいえ、まるでそうでないといけない、という風でした」

 紫苑の言葉に、鈴蘭姐さんは僅かに動揺を見せた。紫苑はまるで見えているように真っ直ぐと群青を向けている。

 

「死んだ妓女の遺児だよ。」

 

 矢庭に、凛とした女の聲が鳴る。舞鶴姐さんだ。

「舞鶴、あの子は……」

「取り敢えずあたしの室に留め置いておいたよ」

「そう……」

 舞鶴姐さんは下ろした長い黒髪を掻き上げ、「だから安心をし」と鈴蘭の肩を叩く。鈴蘭姐さんが中央棟に戻らぬことを懸念した舞鶴姐さんは偶然、鴉を捕まえたのだ。幼い子供を花街にひとり彷徨わせるわけにも行かぬので、舞鶴姐さんは他の妓女に言って舞鶴姐さんの室に送ってもらったのだ。

 

「矢っ張り、ちっさい時の記憶が残ってるのかね」

 

 ふう、と舞鶴姐さんは溜息を溢す。鈴蘭姐さんは見当もつかず小首を傾いだ。それも致し方の無いことだ。鈴蘭姐さんは舞鶴姐さんよりも後にこの娼館に売られたのだ。故に

「あの子が物心も付かぬ頃はね、誰もあの子に構ってやらなかったんだ。飯とかは与えていたんだがね」

「え、桜華姐さんも?」

「寧ろ桜華姐さんが一番酷かったね。何時も呪っていたよ」

「なんでまた……」

「あの子を生んだ母親を好いていたからさ。あたしも会ったことがないが、客にはもちろんのこと、多くの妓女たちに好かれていたらしい。その妓女は、あの子を生んで死んだ。要するに、逆怨みだね」

 

 鈴蘭姐さんは困惑顔をした。鈴蘭姐さんの知っている桜華姐さんからは想像もできない。いつも愛らしい笑顔を浮かべて一番鴉を可愛がっていた。弟のような存在だ、と云っていたが傍目には母子のようだった。淡白な鴉は桜華姐さんを愛おしそうにする素振りを見せなったが、それでもきっと大事にしている、し合っているように思えた。

「……その妓女の名を聞いてもいいですか」

 紫苑がゆっくりと口を開き、尋ねた。その群青の三白眼には動揺の色が浮かべられている。舞鶴姐さんは顔を顰めた。

「なんでそんなこと、気になるんだい」

「いえ……」

 ふうん?と舞鶴姐さんは訝った。紫苑は尚も気になる様子。舞鶴は嘆息をついた。

 

「確か――……、翡翠だよ。」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る