第10話 にごり雪
サクは外の空気でも吸おうかと、階段を降りていた。その夜はひどく静かだった。月は無く、厚い雲に覆われた昊の星の瞬きが弱々しい。しんしんと粉雪が降り、肌を僅かに刺す冷たさがあった。
だがサクはこれらの感覚はまるで、己のものではないようなそんな気分になっていた。
(器からの感覚ってこんなだったか)
「おや、目を覚ましたのですか」
遠くの方から澄んだ男の聲がしんとした空気に渡った。サクが階段を降り終えると、縁側に腰掛けた群青を宿した三白眼の男の姿を認めた。思いの外近くで彼の聲は鳴っていたらしい。サクは不慣れな耳に難儀しながらも彼のそばまで寄った。
「あんた、まだ此処にいたのか」
「此の時間だと他の宿にも行けなくてね。君はもう、大丈夫なのですか」
「ぐっすり眠ったからな」
サクは自分で何を言っているのかさっぱり理解出来なかった。ぐっすり眠ったら何かあるのか。御前は何を口走っているのか。普段、他者との遣り取りはツキタチに丸投げしているので、いざ己で喋らねばならなくなると言葉が出ない。こう話せば良いはず、という知識があってもぱっと言葉が組み立てられないのだ。会話とはこんなにも難しいものなのか、とサクは染み々々と感じた。
「……君は本当に、あの鴉なのですか」
「は?」
「先程聞いたときと聲の様子が違うように思いまして」
サクはどきり、とした。この男は
「あ――……。気の所為だろ」
「まあ、そう……ですね。まだ私は君をよく知らない」
紫苑は納得のいっていない面持ちをしているが、サクは押し切ることにする。説明したところで頭の可怪しな奴と思われるのが関の山だ。
(……あれ)
不図、サクは己に違和感を感じた。
(なんか俺、変?)
然し一体何処に奇妙さを感じてあるのか分からない。サクはううんと頭を捻るが矢張り分からず、思案を諦めることとした。
「君は、この娼館で生まれたのですか」
紫苑は見えぬはずの中庭を眺めて云った。サクは彼の横に胡座をかいて坐す。
「そうだけど。なんだ、卑しいやつだって言いてえのか?」
「いいえ。私の知人もかつて此処で生まれたと云っていたので……」
「なんだ、あんた此処に来たことあんのか」
「ええ。もう十年ほど前ですけど。嘗てはここで専属の楽師をしてました。他にも楽師はいたのですが、
ふうん、とサクは声を漏らした。サクの器――鴉の生まれる前の香玉館はもっと栄えていたと聞く。専属の楽師を置いておける程とは知らなかったが。香玉館が廃れる
「あのひとは、聲の綺麗なけれども寂しいひとだった」
紫苑は光を宿さぬ群青を細めた。
「その頃からあんた、見えてねえの?」
「はい。幼い頃に流行り病に罹って以来ずっとこうです。でもそのお陰で、
「ふうん。でも、せっかくの綺麗な姐さんたちも見えなくて残念だったな」
ははは、と紫苑は笑う。サクは中庭へ視線を移した。裸になった紅葉の
(ツキタチは、いつもこんな景色を眺めていたのだろうか)
まるで己の視界ではないような、何処か余所々々しい景色。身體から伝わる感触は鈍く、他者の経験を見て、聞いて、感じているような気分。サクの胸の奥でちくり、と何かが刺したような感覚がした。
(ちくり?)
誰かが同じ様な感覚を云っていたような気がする。然し矢張り思い出せない。サクは筆舌に尽くし難い感覚に苛つきを覚えた。
「……どうかしたのですか」
紫苑の静かな問いかけが鳴った。サクは面を上げ、貌を顰めた。
「は?」
「何となく、君が苦しんでいるように思いまして」
「苦しい?俺が?まさか」
「可怪しくはないでしょう。ひとならば誰しも感じうることです」
「はははは!」
サクは肚を抱えて嗤った。紫苑は怪訝な面持ちをしているが、構わずサクは嗤った。サクは徐ろに立ち上がり、語を続けた。
「俺が?地丿國の奴らじゃあるまいし、そんなことあるわけないだろう」
「……君は何を言って……」
紫苑が困惑しているのは見てわかった。視点の定まることのない三白眼を泳がせ、サクの真意を探ろうとしている。探れるはずがない。
「俺に感情があるはずはないんだよ。そんな
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます