第9話 綻び


 ……

 ……

 ――此処は、何処だ。

 

 満天の星昊に、芦原に囲まれた大きな泉。水面には昊にはない常闇の満月が映っている。――己は泉の中央にひとり、佇んでいた。

 音はない。香りも光もない。誰もいない。其処には自分ひとりだけだった。

 

 しゃらん――……

 遠くから鈴の音がする

 

 しゃらん――……

 鈴の音はだんだん遠のいてゆく

 

 しゃらん――……

 



「わっ」

 サクは勢いよく飛び起きた。サクは瞬刻の間、呼吸を整えることだけに専念し、茫然と手元を見ていた。漸く息が落ち着くと、サクはおもてを上げ、周囲を見渡した。

 

「……て、あれ」

 其処は離れにある大部屋だった。下働きの者や下級の妓女たちの寝泊まりする室だ。薄暗く、サク以外の者の姿はない。サクはひとり、この室の端で寝かされていたらしい。格子窓の外を見ると厚い雲の隙間から鈍く瞬く星々が散りばめられた夜昊よぞらが広がっていた。

、いつの間に眠っていたんだ?」

 サクはううむと小首を傾げ、まだ寝惚けている頭で記憶の糸を手繰る。だがしかし一端すら掴めない。どうしても思い出せぬのだ。

「取り敢えず、姐さんたちのところに行くか…………」

 壁に手を添えて立ち上がると、一寸立ちくらんだ。寝過ぎたのだろうか。手の感覚が弱い。足もふわふわとして、まるで己の身體からだではないようだ。サクはよろけながらも足を進めようとした。すると室の扉が引かれ、薄ぼんやりとした光が室を照らした。

「あら、起きたの。鴉。」

 鈴蘭姐さんだ。明かりを灯した燭台を片手に持っている。姐さんは白練色の夜着に墨染の打掛うちかけを羽織っただけの格好をしている。色素の薄い茶の緩い巻き毛の髪は下ろしていた。

「鈴蘭姐さん、仕事の時間じゃあ」

「御前、覚えていないの?」

「え?」

「今日はあたしと舞鶴は休みよ」

「え?」

 サクは眉を顰めた。舞鶴姐さんと鈴蘭姐さんが同じ日に休みを取ることは先ずない。柊樹の婆が売れ筋ふたりの不在を赦す筈がないのだ。

「御前は一番、姐さんと付き合いが長かったものね……。」

「だから、何……」

 だから何を言いたいんだ。そう言いかけて、サクは言い淀んだ。

 

 待て。

 何故、己が話している。

 ツキタチは、何処だ?

 ここはいつものの前ではない。

 これは、だ。

 

 口を噤んだサクの前で、鈴蘭姐さんがほろほろと涙を流し始めた。気丈な鈴蘭姐さんが珍しい。鈴蘭姐さんは嗚咽を堪えるようにして、聲を押し出した。

「桜華姐さん……」

 サクは漸く、何が起こったのかを思い出した。


 




「舞鶴、大変よ」

 

 凍えるような寒さのある冬の午時ひるどき。さて舞鶴姐さんの遣いに出るかと思った矢先、引き戸の扉が開け放たれ、悲鳴のような聲とともに鈴蘭姐さんが飛び込んできた。あの淑やかな鈴蘭姐さんが髪を乱してみっともなく聲を上げるなど珍しいことだ。舞鶴姐さんは怪訝そうな面持ちで尋ねた。

「どうしたんだい、鈴蘭。そんな息を切らして」

「大変なのよ」

 鈴蘭姐さんは続けた。

 

「桜華姐さんが、亡くなったって」

 

 鏡の前で腰掛け、紅を唇にさそうとしていた舞鶴姐さんは紅を手から落とした。日頃艶やかに笑みを浮かべている筈の切れ長の瞳は大きく見開かれている。

「そ、それは本当かい」

「ええ……旅の御方が……此処まで連れてきてくだすって」

 鈴蘭姐さんの聲はわなないていた。舞鶴姐さんはよろよろと立ち上がり、鈴蘭姐さんの元へ寄る。

「旅の御方って……だって桜華姐さんはお大臣さまのとこに身請けされたじゃあないか」

「お大臣さまの本妻から家を締め出されたらしくて。それで、近くの林道を彷徨っていたみたいで……薄着で、沓も履いていなくて……兎に角、離れへ来てちょうだい」

 鈴蘭姐さんに連れられて、舞鶴姐さんとサクとツキタチは離れへ向かった。そのかん、鈴蘭姐さんはずっと聲を押し殺して泣き、舞鶴姐さんは青ざめて茫然としていた。ツキタチは――ずっと視界の方を見て、サクにはけっして貌を見せなかった。

 

 離れの一階の小部屋――普段は仕事に携わる客人の為の客間として使っている――には、数名の妓女と柊樹の婆の姿があった。小さな格子窓の隙間から灰色かいしょくの白さが差し込んでいた。その遮光の先に、ひとりの女――桜華姐さんが寝かされていた。薄い生成りの着物から覗く白い手脚には無数の痣が見え、足には何も履かれていない。

「姐さん、姐さん……」

 数名の妓女たちが涙を流しながら、桜華姐さんを呼ぶが、桜華姐さんはぴくりとも動かない。何を思ったのか、ツキタチが手を伸ばして桜華姐さんの手にそっと触れるとひどく冷たく固くなっていた。

 

「ねえ、さん……」

 

 小さく呟いた。

「この女性の言う「鴉」は君だったのですね」

 矢庭に澄んだ男の聲がサクとツキタチの横から鳴った。聲のした方へ首だけで向くと、其処にはあの群青の楽師――紫苑の姿があった。ツキタチは震える聲で尋ねた。

「なんで、あんたが……」

「桜華姐さんを此処まで運んでくだすったのよ」

 鈴蘭姐さんがそっと鴉の肩を抱いた。紫苑は静かな聲で続けた。

「桜華どのは最期まで君を案じていました。だから、せめてと思い」

 

 ぐらり、と視界が揺れた。立っていられなく程に空間が歪み、サクは膝をついた。

「おい、ツキタチ」

 聲を張るも、ツキタチは振り返らない。白く滲み、輪郭の定まらぬ視界をじっと見詰め、其処から離れない。喉奥から嘔吐感がし、サクは己の胸を抑えた。

「おい、ツキタ――……」

 彼の名を呼び終える寸前、サクの身體は鈍い白の光を放った。額には朱い蝶のような文様が浮かび上がっている。サクは己に何が起きているのか理解できず、目を見開いた。そして――。

 

 ふつり、と意識が途絶えたのだ。

 

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