第8話 愛しいひと


 あたしの愛しい坊やに会いたい

 あたしの愛しい家族に会いたい――……

 

 女は銀世界の中を歩行あるいていた。冷たい外気が身體中の痣に滲みる。じくじくとした痛みが腕を脚を背を肚を駆け巡る。女の心は疲弊つかれていた。

「……ねむり……いとしい……まえ……」

 女は凍える唇を震わせながら、聲を絞り出して歌う。雪を踏みしめる足には何も履かれていない。霜焼けて赤くなった両の足指の感覚はない。女は雪深い林道をひとり歩んでいた。連れは無い。女は孤独ひとりだった。

「……あ」

 女の足を、長く伸びた樹木の根が絡めとり、女は毛躓けつまづいた。女はとうに涙も枯れ、虚ろなまなこでぼんやりと雪を見る。


 あゝ、きっと此処であたしは死ぬのだろう

 あゝ、白い、白い雪。

 そんな雪の日だった。

 あたしの姐さんが死んだ日。

 あたしの――……


「もし、大丈夫ですか」


 雪で冷えた空気の中、澄んだ男の聲が鳴った。女は眼だけを動かし、霞んだ視界の端で群青色を見た。


「しっかり。聞こえますか」

 男は女を抱きかかえ、何度も聲を張って女の意識を留めようとした。着物越しにもがっしりとした男の胸板とその暖かな熱を感じられる。

「あなた、は」

 あなたは誰。女は途切れ々々々の掠れた聲を出す。男は懐かしさもある表情の乏しい貌をしていた。男が僅かに目元を緩ませると、別の懐かしさが湧く。

「私は紫苑しおんと申します。旅の者です」

 男は淡々と、けれども穏やかな口調で云った。

「あゝ、旅の御方。どうかあの子を……」

「しっかり」

「あの子は、あたしが育てました。けれどもあたしはもう、きっと死んでしまう。もうあの子のそばにはいられない」

 男はぎゅっと力強く女の手を握った。女は言葉の合間にひゅうひゅうと苦しげな呼吸を混ぜていた。男が彼女を抱えて走らぬのは、きっと彼も女がもう助からぬと理解しているからであろう。

「わかりました。あなたと、その子供の名を教えてはくれませんか」

 男はゆっくりと告げる。女は幸せそうな笑みを浮かべた。

「あたしの名は――……」





「おや、また随分と可愛らしいが来たものだね」

 

 汗の滲む夏の真昼時。大きな娼館の前でへやを案内されるのを待っていたあたしの前に、ひとりの美しい女が現れた。凛とした、少し低めの聲。不敵そうな笑み。艷やかな濡羽色をひとつに纏め、煌びやかな簪を幾つも挿している。見窄らしい生成りの着物以外何も持たぬあたしと大違いだ。あたしは何となしにこの女を気に入らない、と感じた。

「……あんた、誰でえ」

「あはは、威勢もよさそうだ。あたしは翡翠ひすい。ここの妓女さ」

 詰まりはあたしの先輩に当たる、ということだ。その事実が尚更あたしを辟易とさせた。十二になったあたしは今日、この娼館に売られたのだ。あたしの家は貧しい小作人の家だ。だのに妹弟がわんさかといる。生活に苦しんだ末、あたしが売られたということだ。なんてことはない、貧しい家の娘ならばよくあることだ。

 

「こりゃ。そんな暗い貌をするでないよ」

 

 翡翠と名乗る妓女の細い指先があたしの鼻先を弾いた。

「いで、なにすんでえ」

「生い先長いんだ。だのにそんな陰気じゃあ詰まらないだろう」

「売られてきだというのに、笑えるやつがあるか」

 あたしはひりひりと痛む鼻先を手で抑えながら、女をめ付けた。綺麗事だ。あたしは捨てられたのだ。にこにこ楽しく笑えるはずがない。あたしにはもう、幸せになれる資格がない。あたしは売り物で、あたしは一生日陰者なのだ。この女も同じはずなのに、にこにこと楽しそうに。きっと能天気な奴に違いない。

 すると矢庭に、翡翠の白い手があたしの両の頬を包んだ。

 

「御前はひとりじゃあない。あたしも付いている。だから、そんな気張らなくていい。でも強くおなり。みちを己の手で掴めるほどには。――泣きたいのならば今のうちに泣いておきな」


 あたしをじっと見据える翡翠の、切れ上がった鴉色の瞳は穏やかだった。何処か寂しげでもあった。

 あゝ、このひと

 心の片隅で、不図ふとそんな考えが浮かび上がった。この女も家に捨てられて、此処に居るのだ。あたしが周囲へ威嚇してまわることで悔しさや悲しさを堪えているように、この女もまた笑って強がって、己を奮い立たせているのだ。

「……あ、あんだは路を選べてんのか?」

「もちろんさ。客を選べるほどにはね。あたしはこう見えてもこの店一番の妓女なんだよ」

「でも売りもんだ。そんなんで幸せなのか?」

 翡翠はにっこりと笑った。柔らかで穏やかな笑みだ。嘘偽りを感じさせぬ、目映い笑顔わらいがお

 

「ああ。あたしは幸せだよ。そりゃあ、辛いこともたくさんあるけどね。でもあたしは、あたしを不幸せだとは思っちゃいないよ」

 

 羨ましい。あたしは切実にそう感じた。本当にそうならば、本当にあたしも幸せになれるらば。 

「あ、あだし……」

 狼狽えたあたしの聲は震えてしまっていた。

「ここで上手くやっていげるがな……あだし、幸せになれるかな」

「ああ、きっとさ。あたしも手伝ってやる。だから心配するでないよ」

 それから、あたしは新しい名を貰い、新しい生活をするようになった。不慣れなことの多く、あたしが困惑していると必ず、翡翠姐さんが助けてくれた。翡翠姐さんはいつも眩しい笑顔をあたしや他の姐さんたちに向けて、みなを励ましていた。あたしのような学のない妓女に文字の読み書きや簡単な算術、舞いや唄などを教えてくれた。


「姐さんは何でもできるのね」

「そんなそとないさ」

「姐さんはどうしてそんなに物識りなの」

「生き残るため、学んだのさ」

「生き残るため?」

「そうさ。あたしたちは賢くなければ。御前も賢くおなり」

「あたしが頑張れば、姐さんはずっと此処にいてくれる?」

「きっとね」

 

 だから、翡翠姐さんが身籠ったと聞いたときは驚いた。そしてそれと同時に裏切られたような気分になった。翡翠姐さんはけっして御相手の名を告げなず、児を流すことも頑なに拒んだ。

 

 そして雪の深い夜。

 姐さんの児がうまれた。

 姐さんに生き写しな嬰児だった。

 姐さんは――……



 

 死んだ。


 

「御前さえ、御前さえ生まれてこなければ」

 呪いのことばをあたしは幾度となくその子に吐きつけた。何年も、何年も。姐さんと同じ貌を見ることは出来ぬから、目を逸らし触れぬようにしながら。あの乳呑児がよちよちと歩き始めてもなお、あたしは唱え続けた。「御前さえ、いなければ――……」

 

「ねえ、しゃん」

 

 小さな手があたしの頬に触れた。やわらかで、あたたかな手だ。あたしが此処へ連れてこられた時、恐ろしくて哀しくて胸の内で泣いていたあたしを優しく包んでくれたあの手と、同じ。

「あ、――……」

 気が付けばあたしは子供を抱いてわあわあ泣いていた。

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