第7話 冬の訪れ


 翌朝になると、桜華姐さんはお大臣とともに馬車に乗せられて遠くの町へ旅立って行った。あの気丈な舞鶴姐さんや鈴蘭姐さんまで涙を流して見送っていた。

 サクとツキタチの生活は何も変わらない。昼前まで眠って、寝覚めたら庭掃除や洗濯をして、食事を姐さんたちの元へ運ぶ。合間には姐さんたちから菓子をもらって彼女たちの芸事のお稽古やお喋りに付き合う。夕方になれば姐さんたちの室を掃除して、姐さんたちの身支度を手伝う。ツキタチが手を動かして、サクは時々口を出す。――その繰り返しだ。ただ、其処に桜華姐さんがいないだけだ。

 

 そして気付けば冬も半ば、しんしんと雪の降り積もる季節になっていた。

 

「はあ……桜華姐さんは元気にしてるのかねえ」

 舞鶴姐さんがため息混じりに云った。舞鶴姐さんのくろく艷やかな髪を梳いていたツキタチは手を止めた。鏡に映る舞鶴姐さんは何処か悲しそうな面持ちをしている。

「あんまり評判のいいお大臣さまじゃあなかったんだよ。でも柊樹の婆が認めちまってね。桜華姐さんも年齢とし年齢としだから、売っ払っちまいたかったんだろうね。高値の付くうちに」

 苦しげに嘆く舞鶴姐さんはふう、と嘆息を付いた。ツキタチは再度また、櫛で舞鶴姐さんの髪を梳かしている。舞鶴姐さんの髪はばさばさの鴉の髪と違ってしっとりとしている。

「いったい何人の妓女が幸せな生活を手にできたのだろうね。――ほらさ、あたしもそろそろ年齢的に、ね。桜華姐さんの次に年齢としがあったものだから、もうそろそろ柊樹の婆に売り出される頃合いなのかね、と気になるのさ」

 

 ツキタチの横で胡座をかいていたサクは舞鶴姐さんに聞こえるはずもない聲で応えた。

「地丿國の器は老いるから大変だな。若くないといけねえなんて。己霊こだまの僕には理解できねえよ」

 サクはううんと背伸びをし、寝そべった。寝そべっても視界は変わらず見えるのだから不思議なものだ。振り返ってサクを覗き込むツキタチの眼は、初めて見たときと同じ虚ろな常闇であった。ツキタチは掠れた聲で尋ねた。

「サクは、老いないのか」

「ま、な。ツキタチも己霊こだまだったら同じだぞ」

「……俺は自分が何なのかわからない」

「それは僕だって同じだ。御前が何なのか知らねえよ」

 ツキタチは沈黙するとまた視界の方へ向き直り、今度は器の聲を発した。

 

「舞鶴姐さん、髪結うから、じっとして」

「あいよ」

 サクは何となしにツキタチが舞鶴姐さんの髪を纏めていく様子を眺めていた。簪ひとつで髪を留めるなどという芸当をやってのけるのはいつ見ても感心する。今日の舞鶴姐さんは椿つばきの重ねの着物を着ていた。中蘇芳と中赤との配色で冬らしさを感じさせるようにしているのだ。香玉館で一、二を争う彼女は香玉館の貌でもあるのだ。故に身に付けるものや髪型、化粧などには細心の注意を払う。

 

「ほら、御前さんの髪も梳いてやるよ」

 ツキタチが最後の簪を差し終えると、舞鶴姐さんが思い立ったように聲を上げた。

「え……」

「御前は男の子だから、髪に頓着しないのだろうけどね。たまには手入れしておやりよ。せっかくの濡羽色が勿体無い」

 くるりと舞鶴姐さんが鴉の方へ向き、鴉の肩下まで伸びた髪に触れた。ざんばらに切っているうえ、ろくに櫛も通さずにひとつに括っているものだからそれは酷く荒れていた。

「それに御前は美形なのだから、身なりを整えていれば女にきっと人気が出るさ。手先も器用でよく働く。きっといい旦那さまになるよ」

「……まだとおにもなっていない」

 ツキタチがぼそりと呟くと、舞鶴姐さんは有無を言わさず鴉の後ろにまわり、髪を梳き始めた。絡まってどうしようもない部分は切って毛先を整え、最後には髪油を塗って仕上げた。鏡に映った鴉は見違えるように身綺麗になっていた。

「髪ひとつで結構変わるもんだな」

 サクはじっと視界の向こうにある鏡に映る器の姿を眺めた。己の器の髪が整っているのを初めてみたかもしれない、とサクが考えてしまうほどに己の器は放ったらかしにしていたのだ。

 

 不図ふと、舞鶴姐さんが「あ」と聲を漏らした。

「そうだ、後でおつかいに行ってくれないかい」

「何を買えばいい?」

 ツキタチは淡々と問う。

「白粉と紅を切らしちまってね。いつものだよ」

「……わかった」

「銭もいつものところから持って行っておくれ」

「うん」

 ツキタチが立ち上がると、サクは「銭はあっち」と指差してツキタチを促す。ツキタチが必要なだけの銭を懐に仕舞うと、舞鶴姐さんが上着を鴉に羽織らせた。

 

「舞鶴、大変よ」

 

 矢庭に引き戸の扉が開け放たれ、鈴蘭姐さんが飛び込んできた。あの淑やかな鈴蘭姐さんが髪を乱してみっともなく聲を上げるなど珍しいことだ。

「どうしたんだい、鈴蘭。そんな息を切らして」

「大変なのよ」

 鈴蘭姐さんは続ける。

 

「桜華姐さんが――……」








 はらはらと粉雪が舞う。昊はどんよりと厚い雲で覆われていた。息を吸うと鼻の奥がつんとするほど空気が冷たい。けれども、女は歌うのを止めなかった。掠れた歌聲は降り積もった真銀ましろの雪に溶けて消えてゆく。

「……痛っ」

 女は歌を止めた。何度も蹴られた肚が痛む。鳥の子色の着物の袖から覗く白い腕は青痣だらけ。女が己の細い指で痣をなぞると、ずきずきと鈍い痛みが走る。女はしくしくと涙を流し、またか細い聲で歌い始めた。

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