第5話 笛の音


 ツキタチが西棟の掃除を終え、離れの休憩室へ戻る頃には昊はすっかり夜の装いになっていた。真ん丸の月が東の端に貌を出し、星々が瞬いている。びゅうっと音を立てて冷たい風が吹き抜け、紅や黄に染まった紅葉の葉が運ばれていく。

 

地丿國ちのくには四季があるんだったな」

 

 サクは何となしに独り言ちた。天ツ原あまつはらには季節はない。常に春であり、夏であり、秋であり、冬である。風は常に冷たく、昊は常に薄雲の流れる星昊。月はない。天ツ原は不変なのだ。故に己霊こだまの名付けは地丿國ちのくにの季節や気候を用いる。そうでなければ今頃、すべての己霊こだまは同じ名を名乗っていたに違いない。

 

「……俺には、わからない」

 

 ぽつり、とツキタチが言葉を零した。視界から目を逸らさない青白い痩せぎすの貌は変わらず感情を感じさせない。サクはその場に胡座をかき、己の脚を支えに頬杖をついた。

「矢張り、御前には此処で気がつく前の記憶がえのか」

「……うん。俺には「鴉」としての記憶しか、ない。俺が何者なのかも、わからない」

己霊こだま、というのが一番考え易いけどな。まあ、僕も己が何者かと問われてすらすら応えられないし。深く考えなくていいんじゃないか」

「……うん」

 若しも此の器とのえにしが解かれたら、ツキタチはどうなってしまうのだろうか。サクは不図そんなことを考えた。サクは天ツ原あまつはらに戻るだけだ。故に、己霊こだまは「消えてはならぬ」という刷り込まれた本当はあっても死の恐れを理解らない。己を意識を保った状態での器の死との対面は初めてなので、そのときの痛みや苦しみは厭でも理解らされるわけだが。

「……まあ、僕も次の器とのえにしが無ければ消えるんだけどさ。御前はどちらなんだろうな。死ぬのか――死なないのか」

 サクの疑問にツキタチは応えない。否、彼も識らぬのだから返せないのだ。

 離れへ視線を戻すと、離れの給仕場と中央棟を行き来する数人の妓女の姿があった。普段よりもうんとめかしこんで華やかだ。一応色は統一しているらしく、みな秋らしい黄を基調としている。その手元には食事や酒を乗せた盆。大広間へ運んでいるのだろう。見窄らしい身形な上、妓女でもなければ女でもないツキタチは余程の用事でなければ客の居る室へ食事を運んだりはしない。掃除をするためにそばを通ることはあるが、客と直接触れ合うような場には出ない。

 

「……この音、笛……か?」

 

 不図ふとサクは呟き、面を上げた。中央棟の方角から深みのある音が流れていた。きっと宴会が始まったのであろう。時間を考慮すればそうでも可怪しくはあるまい。サクはじっと耳を欹てた。誰もいない海辺の風のような音色。矢張り笛のらしい。姐さんたちのうちの何人かも嗜んでいた、聞いたことのある音だ。

「ああ、今日来た楽師は笛の吹き手だったのか。そう言えば手荷物少なかったもんな」

 サクは独り言ちた。するとふわり、とツキタチが笛の音のする方へ足を向けた。ツキタチが用事もない場所へ向かうとは珍しいとサクは首を傾げ、問いかけた。

「どうした、ツキタチ」

 然しツキタチから返答はない。ツキタチは西棟を通り――中央棟へ向かっていた。

 此の娼館はコの字に三つの棟が連なり、三つの棟は池のある中庭とその向こうにある離れを囲うようになっている。大広間は中庭に面してあり、宴会の最中は中庭を魅せるように、大きな襖扉を開け放つ。ツキタチのような下働きのものは間違っても庭を突っ切って通ることはせず、別棟を通って離れへ赴くようにするのだ。故にツキタチは西棟から遠廻りをして中央棟へ向かっていると考えられる。

 中央棟へ這入ると、酒を飲んで陽気になった男たちの騒ぎ聲や彼等の相手をする女たちの「ほほほ」という笑い聲までも聞こえてくるようになった。ツキタチは仕事をする妓女たちの邪魔にならぬようそっと二階に上がった。そしてひっそりと大広間の扉の影に屈み、扉の隙間から中を覗いた。

 

「ああ、舞っているのは鈴蘭姐さんか」

 サクは呟く。鈴蘭姐さんの女郎花おみなえしの重ね――中靑と経青緯黄たてあおぬのききを基調とした色だ――の着物の裾がふわりと舞い、彼女の手頸に掛けられた鈴の飾りがしゃらん、しゃらんと鳴る。その横で紫苑が篠笛を構えていた。長い男の指が笛の上で滑り、その都度たびに異なる音色が響く。

「歌はないのか。珍しい」

 たいていは姉さん達のうちの誰かが歌を添えるのだが、今日はしないらしい。楽師の方針なのかもしれない。サクは「なあ?」とツキタチに聲を掛けるも、ツキタチは何も返さない。ツキタチは只じっと室内へ視線を向けていた。何が彼をこんなにも惹き寄せるのかサクには理解できず、「これまで姐さんたちが芸事の練習をしていても立ち止まりすらしなかったのに、珍しいこともあるものだ」とサクは独り言ち、肩をすくめた。

 

「あら、鴉。そんなところで何をしているの?」

 

 矢庭に、サクとツキタチの背後から聞き覚えのある少女の忍び聲が鳴った。ツキタチが振り返ると、其処には美しく着飾った桜華おうか姐さんの姿があった。

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