第5話 笛の音
ツキタチが西棟の掃除を終え、離れの休憩室へ戻る頃には昊はすっかり夜の装いになっていた。真ん丸の月が東の端に貌を出し、星々が瞬いている。びゅうっと音を立てて冷たい風が吹き抜け、紅や黄に染まった紅葉の葉が運ばれていく。
「
サクは何となしに独り言ちた。
「……俺には、わからない」
ぽつり、とツキタチが言葉を零した。視界から目を逸らさない青白い痩せぎすの貌は変わらず感情を感じさせない。サクはその場に胡座をかき、己の脚を支えに頬杖をついた。
「矢張り、御前には此処で気がつく前の記憶が
「……うん。俺には「鴉」としての記憶しか、ない。俺が何者なのかも、わからない」
「
「……うん」
若しも此の器との
「……まあ、僕も次の器との
サクの疑問にツキタチは応えない。否、彼も識らぬのだから返せないのだ。
離れへ視線を戻すと、離れの給仕場と中央棟を行き来する数人の妓女の姿があった。普段よりもうんとめかしこんで華やかだ。一応色は統一しているらしく、
「……この音、笛……か?」
「ああ、今日来た楽師は笛の吹き手だったのか。そう言えば手荷物少なかったもんな」
サクは独り言ちた。するとふわり、とツキタチが笛の音のする方へ足を向けた。ツキタチが用事もない場所へ向かうとは珍しいとサクは首を傾げ、問いかけた。
「どうした、ツキタチ」
然しツキタチから返答はない。ツキタチは西棟を通り――中央棟へ向かっていた。
此の娼館はコの字に三つの棟が連なり、三つの棟は池のある中庭とその向こうにある離れを囲うようになっている。大広間は中庭に面してあり、宴会の最中は中庭を魅せるように、大きな襖扉を開け放つ。ツキタチのような下働きのものは間違っても庭を突っ切って通ることはせず、別棟を通って離れへ赴くようにするのだ。故にツキタチは西棟から遠廻りをして中央棟へ向かっていると考えられる。
中央棟へ這入ると、酒を飲んで陽気になった男たちの騒ぎ聲や彼等の相手をする女たちの「ほほほ」という笑い聲までも聞こえてくるようになった。ツキタチは仕事をする妓女たちの邪魔にならぬようそっと二階に上がった。そしてひっそりと大広間の扉の影に屈み、扉の隙間から中を覗いた。
「ああ、舞っているのは鈴蘭姐さんか」
サクは呟く。鈴蘭姐さんの
「歌はないのか。珍しい」
たいていは姉さん達のうちの誰かが歌を添えるのだが、今日はしないらしい。楽師の方針なのかもしれない。サクは「なあ?」とツキタチに聲を掛けるも、ツキタチは何も返さない。ツキタチは只
「あら、鴉。そんなところで何をしているの?」
矢庭に、サクとツキタチの背後から聞き覚えのある少女の忍び聲が鳴った。ツキタチが振り返ると、其処には美しく着飾った
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます