第4話 群青の楽師


からす、そっちの帯を持っておくれ」

 

 舞鶴まいづるねえさんが凛とした聲を鳴らした。鈴蘭すずらん姐さんの髪結いの手伝いをしていたツキタチは手を止め、「ただいま」と返す。

 香玉館中央棟二階の最奥。此処は高級妓女たちの室である。今は舞鶴姐さんの室で舞鶴姐さんと鈴蘭姐さんの身支度を手伝っているのだ。

 艶やかな舞鶴と淑やかな鈴蘭。彼女らは使う今をときめく妓女たちだ。年齢としの高い桜華姐さんも「いつまでも若々しくて愛らしい」と人気のある故、同じく中央棟二階を使用しているが、柊樹の婆に呼ばれたらしく不在だ。

 

「あらあら、鴉は幼いのに相変わらず手先が器用なのね」

 

 穏やかな聲持ちで鈴蘭姐さんが独り言ちた。色素の薄い鈴蘭姐さんの豊かな髪は、鮮やかな中靑なかあお色の紙紐ですっきりと、けれどもふんわりと纏められ、鈴蘭の花を模した髪飾りが器用に留められている。舞鶴姐さんはからからと笑いことばを付け加える。

「本当に、よくできた弟だよ!お陰で評判もいい。ほら見てご覧よ。この帯の結び方なんて、鳥の羽根のように軽やかじゃあないか」

「まあ、本当ね!」

 ほほほ、と笑い合うふたりの姐さんに可愛がられながら、ツキタチは黙々と手を動かす。サクはしげしげとそんなツキタチの手元に見入った。

 

「御前、本当に手先が器用だよな。職人の家に生まれてりゃ、困らなかったんじゃあないか」

 

「……さあ」

 ツキタチのあっさりした生返事に、サクは「まあ、そう言うと思ったよ」と返した。こんなに褒められてもツキタチの貌色かおいろひとつ変えない。照れるという感情を知らないのだろうか、と妓女のうちの誰かが言っていた気がした。

「そういや、今日は楽師がくしを呼ぶんだってね」

 と舞鶴姐さん。黄紅葉きもみじの重ね――中黃と濃黄を基調とした布地に金地の紅葉の模様のあしらわれた煌びやかな着物は彼女だから着こなせるというものであろう。鈴蘭姐さんはしっとりと小首を傾げ、「まあ、気合が入っているのねえ。流石、お客さまが國のお役人なだけあるわね」と鈴のように澄んだ聲で返した。

「へえ……柊樹のばば、やる気満々じゃん。普段、楽器は手の空いてる妓女の誰かにやらせるくせに。あわよくば、姐さんのうちどちらか値で買わせる気かね」

 とサクは独り言ち、はんと鼻で嗤う。舞鶴姐さんと鈴蘭姐さんは高価で其処らの小金持ちでは買えない。身請けなど持ってのほかだ。故に彼女等と寝所を共にするのは男たちの間で密かにステイタスになっている程だ。

 

「こら、御前たち。もう間もなくお客さまがいらっしゃるよ。鴉、西棟の掃除は後にして楽師さまを案内しとくれ」

 

 穏やかな姐さんたちの笑い聲を遮るように、ざらざらとしたヒステリックな音が鳴った。何時の間にやら、柊樹の婆が室の入口に立って目くじらを立てている。その後ろには見覚えのない三十路ていどの男。上背のある筋肉質な容姿なりで、短く刈り上げた黒髪に縁取られた白い貌には切れ長の三白眼。珍しい群青色の瞳だ。左耳には大振りの飾りを風流に下げている様子から、下男ではあるまいと予想できる。

 舞鶴姐さんがおや、と聲を上げた。

「柊樹ばば、その御方がお呼びした楽師さまかい」

「ああ、そうだ。失礼のないように」

「はあい」

 くすくすと鈴蘭姐さんが笑うと、柊樹の婆はやや不安気な面持ちをした。からかっているのは百も承知だが、若い男がこうも妓女のそばを訪れるのは珍しい。而も、金を渡している男は。かくいう男はまるでツキタチのように感情を表に出していない。ツキタチがそばに駆け寄ると、柊樹の婆が「大広間にご案内して」と云った。

「……こっち」ツキタチは男に静かな聲をかけた。「付いて来て」

 

「ああ、よろしく。私は紫苑しおんと申します」

 

 鋭い眼差しに反して、紫苑と名乗る男の聲は世捨て人のごとく穏やかなであった。ツキタチは瞬刻の間たじろいだが、何とか絞り出すように名乗った。

「鴉」

「髪か、瞳が濡羽色なのでしょうか。素敵な名だ」

 サクは「驚いた」と言葉を零した。よくよく見れば、男は杖をついている上、彼の群青は何も映していなかった。この男はめくららしい。サクは軽くツキタチの背を小突いた。

「ツキタチ、ゆっくり歩いて部屋の案内をしてやれ」

「…………うん」

 ツキタチはサクを見てこくり、とかしらを縦に振ると再度また視界へ視線を向けた。

 

「……中央棟の一回の奥にある。手洗いは向かいの左奥」

 ツキタチは素っ気無く言い放つ。だが紫苑は厭な貌ひとつせず「有難う」と応え、三白眼の目元を緩ませた。群青色の瞳が澄んだ昊を思わせる。サクは本当に珍しい瞳の色だな、と何となしに呟いた。ツキタチは無言で視線を反らし、大広間の扉を引いた。

 大広間には既に明かりを灯され、薄ぼんやりと畳の間が映し出されていた。壁には紅葉の絵が描かれたものや桔梗や菊のような野花の描かれたものなど、数種類の墨絵が吊るされている。部屋の四隅には少しばかりの金木犀の花が生けられ、仄かに甘い香りがした。

 

 ツキタチは迷いなく、けれども畳のへりを踏まぬようにつかつかと大広間の奥へ歩んでいく。客たちの前にツキタチが貌を出すことは少ないので何処を歩こうが構わないのだが、時折急に呼び出された際に誤ってへりなど踏んだ日には柊樹の婆を怒らせることとなる。故に日常的に礼儀を守った振る舞いをするようにしているのだ。

「あんたの場所は此処」

 ツキタチは淡々とした聲を紫苑に向け、滝の描かれた墨絵前を指差した。もう間もなくで香玉館が客を迎える時刻となる。

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