第3話 鴉
「
長い木造の廊下で、柊樹の婆のざらざらとした聲が鳴り響いた。薄くなった長い白髪を一本の漆塗りの簪できっちりと結い、
「鴉、まだ此処の掃除をしていたのかい。西棟のが終わってないよ。間もなくお客さまたちがお見えになるんだ。早う、おし」
「はい」
柊樹の婆の視線の先で、室内の塵を集めていた少年が淡々とした聲持ちで応じた。
「つい先日まで、だらだら休ませてやったんだからね。しっかり働くんだよ」
「はい」
「あと、
「はい」
柊樹の婆が何を捲し立てようと、鴉は「はい」以外の言葉を返さない。抑揚のない聲と虚ろな眼差しばかりを向ける鴉に、柊樹の婆は嫌気が差したのか「まったく、陰気で厭な児だよ」と小さく吐き捨てる。そして、
「返事ばかりしてないで、行動で示すんだよ」
と言葉を残してその場を立ち去っていった。
「……御前、本当に語彙が少ないのな」
柊樹の婆の背中が見えなくなるや否や、サクが言葉を溢した。ツキタチは口を噤んだまま、サクを一瞥し、また
鴉は香玉館の妓女がうっかり産み落としてしまった
ツキタチはてきぱきと塵を塵箱に放ると、室を出て西棟へ赴く。まだ客のいない館は妓女たちの楽しげな談笑が飛び交っている。この女たちは
サクはツキタチに凭れ掛かりながら、口を開いた。
「確か、今日は大口の客が来るって云ってたな。となると、そっちが優先だな。ツキタチ、
ツキタチはこくりとひとつ頷く。器の操作はツキタチにしか出来ないので、実際に手を動かすのはツキタチなのだ。覇気が微塵も感じられない彼だが、思いの外よく働く。然し兎に角要領が悪い。放っておくとまた柊樹の婆に打たれるので、忙しい時はこうしてサクが出張るのだ。サクは「如何に手を抜くか」、「如何に手際よくやるか」ということに関してはずば抜けていると言ってもよい。
ツキタチが中央棟へ向かう渡り廊下を抜け、階段を上がろうとした矢先、どんと誰かに
「まあ、鴉。此処にいたのね!風邪で寝込んでいたから心配したのよ。もう大丈夫なの?貌色が良くないように見えるのだけど」
「平気です」
桜華姐さんの聲音と落差のある聲持ちで淡々とツキタチの返す。桜華姐さんは無愛想なツキタチの態度を気に留める様子もなく、心配そうな面持ちで語を続けた。
「本当?前より痩せたように見えるわ。何かあれば必ずあたしに云ってちょうだい。あたしにとってあんたは大事な弟も同然なんだから。ね?」
この娼館の主人や客たちの多くは鴉の可愛げのない様子に辟易とした態度をとるが、妓女の多く――とくに桜華姐さんは実に甲斐々々しく鴉の世話を焼いてくれる。彼女たちのお陰で鴉がこの
ツキタチは彼女たちに感謝の情を感じていないのか、それともそれを表現することが出来ていないのか、決して笑い掛けてやることをしない。サクはそんなツキタチを何時も見届けていた。
「あらいけない、あたし呼ばれているんだったわ。鴉、無理は禁物よ!」
桜華姐さんは暖かな春の日和のような微笑を鴉に投げかけると、足早に去っていった。
サクが格子窓の向こうへ視線を向けると、茜色の昊の下、幾人ものの人々が往来しているのが見えた。サクが「急ごうか」と聲をかけると、ツキタチは頷き、再び中央棟への路を辿り始めた。
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