第3話 鴉


 香玉館こうぎょくかん。それは地丿國でも有数の宿場町「海燕かいえん」の中心部から南に行った花街の一角に構えてある。木造二階建ての宿三棟の、そこそこに規模のある宿である。主人である柊樹ひいらぎばば。十数名の妓女が旅人を迎え疲れを癒やす、夜の街の象徴である。

 

からす、何処にいるんだい」

 

 長い木造の廊下で、柊樹の婆のざらざらとした聲が鳴り響いた。薄くなった長い白髪を一本の漆塗りの簪できっちりと結い、芥子色からしいろの着物をきちんとまとった老女は背筋を伸ばしている。その後ろ姿であれば齢を感じさせない程にぴんと伸びていた。きびきびと廊下を渡り、ひとつのへやの前に立ち止まると、再度また聲を張った。 

「鴉、まだ此処の掃除をしていたのかい。西棟のが終わってないよ。間もなくお客さまたちがお見えになるんだ。早う、おし」

 

「はい」

 

 柊樹の婆の視線の先で、室内の塵を集めていた少年が淡々とした聲持ちで応じた。とおにも満たぬ美しい貌造りの児童こどもだ。艶のない黒髪を馬の尾のように垂らし、僅かに眼を覆う前髪の隙間からは常闇を塗り込めたような黒色のまなこを覗かせている。網代文様あじろもんよう中靑なかあお色の着物からはひょろひょろと痩せぎすな小麦色の手脚を生やしている。

「つい先日まで、だらだら休ませてやったんだからね。しっかり働くんだよ」

「はい」

「あと、鈴蘭すずらん舞鶴まいづるの身支度の手伝いに入っておくれ。今日はお偉い方々をお迎えするから、とびきり着飾らせにゃならんからね」

「はい」

 柊樹の婆が何を捲し立てようと、鴉は「はい」以外の言葉を返さない。抑揚のない聲と虚ろな眼差しばかりを向ける鴉に、柊樹の婆は嫌気が差したのか「まったく、陰気で厭な児だよ」と小さく吐き捨てる。そして、

「返事ばかりしてないで、行動で示すんだよ」

 と言葉を残してその場を立ち去っていった。

 

「……御前、本当に語彙が少ないのな」

 

 柊樹の婆の背中が見えなくなるや否や、サクが言葉を溢した。ツキタチは口を噤んだまま、サクを一瞥し、またに視線を戻した。からす――それは、サクの器の名である。黒髪黒目だから鴉。哀しくなる程に単純な名だが、名付けてもらえただけ有難い身の上なのである。

 鴉は香玉館の妓女がうっかり産み落としてしまった男の児おのこである。母親にあたる妓女は産後の経過がよろしくなく、そのまま命を落とした。遺された鴉は幼い頃より香玉館で働くことにより生き長らえたのだ。サクは「こういうときは異性の器でよかったと思うよ」とぼやいたものだ。鴉は顔貌かおかたちの整っている故、女児であれば間違えなく未来の妓女として育てられていたに違いない。

 ツキタチはてきぱきと塵を塵箱に放ると、室を出て西棟へ赴く。まだ客のいない館は妓女たちの楽しげな談笑が飛び交っている。この女たちはみな、鴉にとって姉であり母であり同僚である。時折妓女の数人が、「おや鴉、お疲れさん。菓子をやるからへやへおいで」と明るい聲を掛けてくる。ツキタチは静かに「ありがとう、ねえさん」とだけ返して足早に通り抜けた。

 

 サクはツキタチに凭れ掛かりながら、口を開いた。

「確か、今日は大口の客が来るって云ってたな。となると、そっちが優先だな。ツキタチ、鈴蘭すずらん姐さんと舞鶴まいづる姐さんの手伝いを先にしちまおう」

 ツキタチはこくりとひとつ頷く。器の操作はツキタチにしか出来ないので、実際に手を動かすのはツキタチなのだ。覇気が微塵も感じられない彼だが、思いの外よく働く。然し兎に角要領が悪い。放っておくとまた柊樹の婆に打たれるので、忙しい時はこうしてサクが出張るのだ。サクは「如何に手を抜くか」、「如何に手際よくやるか」ということに関してはずば抜けていると言ってもよい。

 ツキタチが中央棟へ向かう渡り廊下を抜け、階段を上がろうとした矢先、どんと誰かに衝突つかった。「きゃあ」という聲にツキタチが面を上げると、ひとりの妓女の姿が其処にはあった。栗色の癖毛の髪をひとつに纏め、桜の花模様の散らされた簪を挿している。この娼館で一番歳の高い妓女――桜華おうか姐さんだ。桜華姐さんは鴉の姿を認めるや、ぱっと白い貌に花を咲かせた。

 

「まあ、鴉。此処にいたのね!風邪で寝込んでいたから心配したのよ。もう大丈夫なの?貌色が良くないように見えるのだけど」

 

「平気です」

 桜華姐さんの聲音と落差のある聲持ちで淡々とツキタチの返す。桜華姐さんは無愛想なツキタチの態度を気に留める様子もなく、心配そうな面持ちで語を続けた。

「本当?前より痩せたように見えるわ。何かあれば必ずあたしに云ってちょうだい。あたしにとってあんたは大事な弟も同然なんだから。ね?」

 この娼館の主人や客たちの多くは鴉の可愛げのない様子に辟易とした態度をとるが、妓女の多く――とくに桜華姐さんは実に甲斐々々しく鴉の世話を焼いてくれる。彼女たちのお陰で鴉がこの年齢としまで生き長らえたと言えるだろう。

 ツキタチは彼女たちに感謝の情を感じていないのか、それともそれを表現することが出来ていないのか、決して笑い掛けてやることをしない。サクはそんなツキタチを何時も見届けていた。

「あらいけない、あたし呼ばれているんだったわ。鴉、無理は禁物よ!」

 桜華姐さんは暖かな春の日和のような微笑を鴉に投げかけると、足早に去っていった。


 サクが格子窓の向こうへ視線を向けると、茜色の昊の下、幾人ものの人々が往来しているのが見えた。サクが「急ごうか」と聲をかけると、ツキタチは頷き、再び中央棟への路を辿り始めた。

 

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