第2話 新月の少年


 サクが天ツ原あまつはらに現れ、はじめて器とえにしを結んだのは冬の初めの、淡雪あわゆきの新月の夜だったと云う。だから、サクは「淡雪あわゆきのサク」なのだ。同じ様な名の己霊こだまなぞ幾らでもいる。己霊こだまは、互いが異なるようで同じなのだ。彼らを分かつのは地丿國ちのくにの器とのえにしだけなのだ――。




 

 重い。視界を遮断ざすとばりが鉛のように圧し掛かる。此処は何処だ。おのれは何をしていたのか。曖昧な記憶を手繰たぐり、サクは自身の状況を探る。確か天ツ原あまつはらから器に呼ばれて――ということは此処は器か。徐々に明瞭はっきりとしてきた思考の中、サクは僅かに音にならぬ呻きを漏らした。身體からだがひどく気怠い。

 

「う……」

 

 漸く聲が鳴った。緩々ゆるゆると両のまなこを押し開くと頭の奥からじいんと痛みが走り、サクはこめかみを押さえた。

「痛ってえ。て、まだ

 サクの目前には闇が開けていた。今の縁を結んでから幾度となく此の空間を訪れているサクだが、矢張り慣れないものは慣れない。サクはよろつきながらも身を起こし、前方へ視線を投げかけた。

 

「……よう。久しいな、ツキタチ」

 

 サクの聲の先――其処には、膝を抱えて坐り込んでいるひとりの少年の姿が在った。少年は緩慢ゆっくりおもてを上げ、サクを見詰め返した。そのまなこは深い海底の深淵を塗り込めたような黒。生気がない所為か、虚ろな穴がぽっかりとふたつ空いているようにも見える。ひょろひょろに痩せこけており、見るからに栄養が足りていない身形なりをしている。サクは膝を付きながら、ずいと痩せぎすの少年に詰め寄った。

「てっきり新しい己霊こだまが同居していると思ったんだが、天ツ原あまつはらで御前を見かけなかったんだよなあ。器に意思が宿るなんて聞いたことねえけど、御前なんなんだ?」

 

「……知らない」

 

 ツキタチがか細く、掠れた聲を漏らした。変声期を迎えていない、少女とも付かぬ聲色こわいろ。彼の名はサクが付けた。名無しでも良かったのだが、それでは流石に憐れと思い名をやったのだ。「サク」を読み替えて「ツキタチ」。ツキタチはサクがこの器と縁を結んでから数日経ったころに突如現れた、何処の誰かもわからぬ存在。そして恐らく、男。口数は極端に少なく、表情も乏しい。変わらず静かに黙りこくるツキタチを構うことなくサクは言った。

「兎に角、器を起こそうぜ」

「……うん」

「僕にはできないんだ。今日もよろしく頼む」

「……うん」

 こくりとツキタチは頷き、青白い額でサクの白い額にそっと触れる。すると、目映い白い光が彼らを包みこんだ。

 

「起きな!」

 

 突如、ざらざらとした年老いた女の怒鳴る聲と激しく皮膚を打つが空間に響いた。それと同時に鈍い痛みがサクの右頬あたりに走る。サクとツキタチの目前にはかび臭い小さな畳のへやと、皺くちゃの染みだらけの白髪頭の女。よく見知った貌で――この器の養育者である。

「なんだ、生きとるじゃあないか。三日三晩起きないなんて女どもが騒ぐから、おっんだのかと思ったよ」

「……ご、ごめんなさ……い」

 ツキタチが。サクは痛む右頬をさすりながらツキタチの傍らで胡座をかき、大きく欠伸をした。

 

 理由はわからない。サクがいなければ器は目覚めぬが、ツキタチでなければ器を操れないのだ。本来、己霊こだまは器と縁を結ぶとおのれというものを失う。器の意識と混ざり合い、新たな己となるのだ。故にサクにもおのれを保ったまま器にいるという経験がない。故にいざ器の中で意識を持っても、何をすればよいのかさっぱり解らない。ツキタチと共同でならば器を動かせるとったのは偶然の産物でしかない。はじめてツキタチが器を動かした時、己のに妻が干渉できないとは、なんとも皮肉だとサクは嗤った。

 器の視界の中で、器が老婆に罵倒されていた。器はじっと耐えて老婆の気が済むのを待っている。この器の行動はツキタチが選ぶ。即ちツキタチが堪えることを決めているのだ。

「お前さんが何日も寝込んでくれるから、働き手が足りてないんだよ!」

「ごめんなさい」

「治ったんならさっさと持ち場に戻りな!」

「……はい」

 

 老婆のヒステリックな聲に耳を塞ぎながら、サクはツキタチを見遣った。ツキタチは感情を浮かべず、どんよりと只前を見据えている。見慣れた光景ではあるものの、サクは何となしに訊ねてみた。

「いつも思うんだが。少しは反撃してやればいいのに。なんで何時も我慢するんだ?」

「さらに怒らせたら、もっと痛い。それに……」

「それに?」

 

「どうせ何をしたって変わらない」

 

 視界から視線を外さぬツキタチの眼は変わらず虚ろだ。生きる事に諦めているようにも見受けられる。その眼差しには身に覚えがある。サクははん、と鼻で嗤った。

「まあ、そのはわからないこともない」

 サクは自身の脚を支えに頬杖をついた。サクも長く不運な器ばかりに恵まれ、いつ消えても可怪しくはない状況に立たされ続けている。己霊こだま己霊こだまは消えぬように働きかけるものだ。だがいつの日かその働きかけをサクは怠るようになっていた。サクはにやりと口の端を持ち上げた。

「まあ、御前の好きにすればいいさ。僕には動かせないのだし」

 そして不図ふと思いついた言葉を続けた。

「でも痛いのは僕も同じだから、ほどほどにしてくれよ」

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