人魚ではないこと

 人魚ではないのです、娘は唐突に言った。

 それきりなんでもなさそうな顔をして黙ってしまう。おれは懐に小刀をしまい、首には猛毒であるキョウチクトウの人魚の花弁を入れたお守りを下げ、手銛まで抱えて立ち尽くす。人魚を釣ってほしいと依頼してきたのは娘の両親である。上の娘が人魚に食われたのだとたいそう気落ちしていた。

 湾の内側の海は穏やかだ。乗合を継いでわざわざ来たのはこのあたりで人魚釣りをやっていた爺さんが腰を痛めたからである。人魚釣りには人魚釣りの情報網がある。おれのうちは親父の代で人魚釣りを廃業にしたがいまだに連絡は続けていた。代わりに頼むと爺さんからも頭を下げられている。

「人魚をおびき出すことはできますか」

 とりあえず娘の質問に答える。人魚をおびき出すのはできる。魚より獣の血や肉を好むので調達して海の側に置けばいい。ひとの気配がすればなおよい。なにがしたいのか分からず娘が鳥を買ってきて殺し波打ち際に置くのを見守る。血が流れやすいように鳥を捌くのが下手だったのでそこだけ手伝った。

「姉は駆け落ちしました」

 淡々と語る娘の話は順番があちらこちらに飛ぶ。うまい合いの手もつけないものだから、娘と共に浜辺の鳥の死骸が見える草陰に移りただ話を聞く。

 娘の話によれば妙齢の姉は田舎を嫌っていたのだという。内陸の華やかな街に憧れていつか出ていくのだと常々溢していた。姉が居なくなる前、縁談話が持ち上がっていた。もっと海に近いところへ嫁がされる前に男と逃げたそうだ。

 人魚に食われたと言っておきなさい、娘は姉の頼みどおり両親に告げた。だから人魚ではない。ではおれはなにをすればいいのだろう。

「もうじき姉と駆け落ちしたはずの男が来ます」

 やはり分からない。娘は感情の籠もらない声で、男が来たら足止めをするから捕まえてほしいと頼んできた。置いたままの鳥の死骸はどうするのか、男を捕まえてなにをするのか。聞いても分からない気がして黙って頷いた。

 娘は浜辺に立つ。まもなく海にはそぐわない男がやってきて娘に話しかけた。一見あいびきのように見えるが娘の手は震えている。頼まれた通り、手銛を置いて走っていって男の胴体に飛びつき組み伏せた。男は悲鳴を上げる。

 腕をつかんで男を立たせる。すっかり混乱して怯えきった男に娘は静かに問いかけた。姉をどちらにやりましたか、と。

 男は知らぬ存ぜぬを貫こうとしたが、繰り返し聞かれる全く同じ言葉にだんだんと身が硬くなっていく。最後には吐き捨てるように叫んだ。

「あの女なら高く売れたよ!」

 人さらいだったらしい。騙しやすかった、内陸まで連れていった、夢を叶えてやったんだ。男の喚き声を娘はじっと話を聞いていた。

 波の音に混じって這いずるような音がする。人魚が上陸してきたのだろう。顔を見ないように位置を確認する。娘の後ろ側にいる人魚は鳥をくわえたまま上半身を起こした。耳ビレと腰ビレはススキの穂、背ビレ腹ビレは濃い緑の葉が細く伸びている。ススキの人魚だ。

 男が急に暴れだす。逃げようとしているのかと掴む力を強くしたが、抑え込めないほどの力で狂ったように手足を動かす。人魚の前では人さらいに構ってなぞいられない。仕方なく拘束を解く。

 男はまっすぐに走っていって人魚の前にひざまずいた。人魚の目を見てはいけない、海のやつらなら子供でも知っていることを知らなかったようだ。

 おれは小刀を抜いて人魚の方へ歩きだす。娘が人魚と男を振り返りもせずおれの腕を引いて止めた。

 男の喜ぶような悲鳴がうるさい。人魚の牙で首を抑えられ、爪で腹をえぐられている。顔は見えないが悲鳴を上げながらも男はうっとりとしているようだった。だんだんと男の声は小さくなりやがて人魚の咀嚼音と波の音だけが響く。娘はおれの腕を離した。

 小刀を懐に隠し、食事中の人魚にゆっくりと近づく。おれたちが黙って人間の食べられるのを見ていたからだろう、警戒する素振りがない。おれは膝を沈めて人魚の背中側からナイフを刺した。人魚の傲慢さと知恵の高さは時として弱点になるらしい、新しい発見である。

 人魚の死骸を担いで娘の両親に見せる。やはり、と鎮痛な顔をする夫婦に、娘はそっと声をかけた。

「仇はとって頂きました」

 おれは浜辺に男の死骸があることだけ伝えた。

 人魚を人魚釣りの爺さんに渡しに行く途中、よかったのかと娘に聞いた。姉は人魚に食われたのです。娘は続ける。

「食われた先のことは自業自得でしょう」

 陸にも怖いものがいるなと思った。

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