海から離れたいと思うこと

 このところ人魚で頭がいっぱいだった。

 立て続けに巻き込まれた先で会ったのは立場の違うやつらだ。人魚に同情するやつ、魅入られたやつら、恨むやつ、それから人魚を蹴散らそうとするやつ。入れ代わり立ち代わり頭の中にでてきては勝手なことを言う。

 おれのうちは親父の代まで人魚釣りをしていた。廃業する前には手伝っていたから人魚に接するときは考えすぎるなと教わっている。半分人の形をしたものをバラすのも、人魚を殺して憎まれるのも、人魚釣りの仕事とはそういうものなのだからしょうがない。亡くなった爺さんも内陸で暮らす親父も口癖のように言っていた。

 家の中にはキョウチクトウの人魚の花がガラスの器の中で揺れている。たった一枚になった花弁はいまだ濃い桃色を鮮やかに保っていた。花弁は首から下げたお守りにも一枚入っている。人魚にもよく効く即効性の猛毒で、これに守られたのこともあった。

 釣り道具を持ってぼんやりと灯台の足元まで釣りに行く。

 実業家と話したあとに学のある友人の元を訪ねた。航路を拓くとはどういうことか噛み砕いて説明してもらい、途方もない話に頭が痛くなった。灯台を見上げて思い出す。外の国の灯台は遠くまで光を届けるのだという。いまそこにある石でできた人の背より高い灯籠よりもずっと大きく立派で眩い光を放つそうだ。

 釣り糸を垂れても頭の中がすっきりとしない。当たりが来ても逃す始末である。粘っても二匹しか桶に入らなかった。

 小さな浜を通り過ぎようとして海に目がいく。海と空の境にはうっすらと線が引かれ、穏やかに白波が寄せては返す。波の音は子守唄のように優しかった。

 ざざ、と砂を連れていく波に足を浸したくなる。

 釣り竿と桶を置いてふらふらと海に近寄る。履物を脱ぎ捨て波打ち際に立つ。波とともに砂が指先をすり抜けて気持ちいい。

 人魚は海のものだが海は人魚のものではない。

 実業家は当たり前のように言っていた。思い返せばそれは真実のように思われる。人魚も怖いが海も怖い。ひとなぞあっという間に連れて行かれる。連れて行かれれば体も帰ってこたない。すうっと頭が冷える。当たり前の話だった。

 帰ろうとした矢先、濃い桃色の花が視界に入った。

 耳ビレあたりから伸びる枝と緑の細い葉。その先に咲く濃い桃色の花。肩から上を海面からだした人魚がいた。

 キョウチクトウの人魚である。

 足が海へ向かう。人魚はただそこにいた。

 くるぶしほどだった海水はふくらはぎ、ひざ、腿とどんどん深くなる。服を着たままそれ以上進めずに人魚を見る。人魚はゆっくりと瞬きをする。耳ビレの上で花が揺れる。五枚揃った花弁は丸く完璧だ。

 どれだけ見つめていただろう。

 よいか、と思った。

 一歩、もう一歩と足を進める。海の底には竜宮がある。友人の話を思い出した。本当にあるというのなら見てみたい。キョウチクトウの人魚はじっとこちらを見ている。まだ遠い。もっと近くで眺めたかった。いつかキョウチクトウの人魚を釣ったときのように近くで、ふっと笑うのが見たい。

 足元になにかがまとわりついてきた。進む足は当然にぶる。

 キョウチクトウの人魚までは距離がある。もどかしくなって足元を見る。水色の鱗がきらりと輝いた。鉱石人魚である。

「あ」

 そういえば今日はこいつを見ていなかった。腹が減っているのだろう。つい桶を取ろうとして自分が腿まで海に浸かっていることを意識した。思わず後退り、慌てて踵を返して波打ち際まで戻る。

 ぱしゃんとささやかな水音がして海を見る。キョウチクトウの人魚はもういない。代わりによじよじと鉱石人魚が浅瀬に上がってきていた。桶の中の二匹の魚をくれてやる。

 浜辺にへたり込んだ。

 なにひとつよくはない。よくはないのに、よいと思ってしまった。背筋が冷たい。心臓が跳ねて落ち着かない。

 人魚釣りが人魚に釣られるなぞ笑い話にもならない。さっさと帰って熱い湯を浴びて海の冷たさなど忘れた方がいい。運が良かったのだ、帰ってこれてよかった。

 ひどく安心しているのに、行きたかったと惜しむこころが僅かにこびりついて離れない。額に手を当てる。駄目かもしれない、生まれてはじめて海から離れたいと思った。

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