人魚絵図を開くこと

 ここのところ人魚絡みの頼み事が多い。

 うっかり釣れてしまったキョウチクトウの人魚はともかく、蓄光性の人魚、鉱石人魚、宿借り人魚、テングサの人魚。それから人魚釣りの話を聞きに来た物書き。今後も続くかもしれない。面倒だが人魚のことを思い出そうと雨の日に箪笥の引き出しを開けた。

 親父は人魚釣りを廃業にするにあたって受け継いできた人魚のヒレやら鱗やら骨やらは売り払った。代々の日記や書簡のたぐいは売っていない。知識を軽々しく売り払ってはいけないと言っていた。売り払ったものたちも全て絵図に残してある。先祖の残したものはいい収入になって、親父とお袋と身体の弱い妹は内陸で暮らせている。

 親父のまとめた人魚絵図を眺める。どの頁にも顔の描き込まれていない人魚の姿と特徴がつらつらと並んでいた。書物などは開いていても目が滑る。

 キョウチクトウの人魚についても書かれていた。外道、強い毒あり危険。大変気が強い。稀に毒を求めて捕る人間あり。関わるべからず。それはそうだとひとりで頷く。

 ぺらりぺらりと頁をめくっていく。簡単な解説や絵図は祖父や父が語る話を思い出させた。文字なぞより耳に返る声のほうがよほど頭に入る。鉱石人魚のヒレの大きいのは旋回が速いなど、忘れていたこともいくつかあった。

 後ろの方に差し掛かるとだいぶ飽きてくる。比較的よく見る人魚は話も分かりやすいが珍しいものになってくると絵も文字も少なく内容が不確定だ。こんなのを見たくらいの話しかない。

 ほとんど最後の頁に聞いたことのない人魚がいた。氷雪人魚とある。桁外れに寒い日に流れ着き溶けて消えた、北のほうの人魚釣りに尋ねると氷雪人魚だと教えられた。曽祖父の代らしく、日付まで載っている。

 溶けて消えるような儚い人魚など聞いたことがない。人魚というのはふてぶてしく危険ないきものである。自ら毒を飲み干した蓄光性の人魚の笑みを思い出す。挟持の高いやつらでもある。そう簡単にくたばってくれるわけがない。

 箪笥から曽祖父の日記を探し出す。どうにも顛末が気になった。

 該当の日付にはずらずらと文字が並んでいる。頭が痛くなる思いで読み始めた。

 天気は曇やや雪。桶の氷すべて凍る。北風身にしみて舟だすものなし。異常なまでの寒さを綴った出だしだった。浜から声がしたと呼び出された若き曽祖父はそこで恐ろしく白い人魚を見る。鱗ところどころ崩れヒレ不揃い。弱っていたらしい。

 白い人魚は喉を震わせてひゅるりと高い音を出していて、曽祖父が近づくと振り向いた。曽祖父はその人魚と目を合わせてしまった。しばし我を忘るる。簡潔な一文だ。おれはその感覚が分かってしまって頭を掻きむしった。

 曽祖父はその人魚を捕まえようと腕を取る。触れたところからじわりと溶けていくのに驚いていると人魚の方から擦り寄ってきた。曽祖父に触れたところからぼろりぼろりと人魚が崩れていく。なにもできずに眺めていると人魚は笑って溶けていった。いままで見てきた人魚とはえらく違うのが気持ち悪い。

 しばらく曽祖父の日記を追う。時々人魚について思いを馳せていた。人魚釣りの集まりの記述があった。北から来た人魚釣りに氷雪人魚だと教えられた。冬に出る人魚もどきの類で触れられた寒さで死ぬこともあり、溶けた人魚を身体に染み込ませるのはよくないそうだ。曽祖父の身体には染み込んでいた。翌日からしばらく寒くてたまらないと書かれていたのを思い出す。

 捕食とは違うがやはり有害ではあるらしい。人魚の形をしたものがしたたかで邪悪なことにおれは安堵して曽祖父の日記を閉じる。

 日記も人魚絵図も片付けると眠くなる。文字なぞ読むものではない。雨音も気持ちがいいし昼寝をすることにした。

 夢に白い人魚がでてきた。知らない男の背に手を回し肩に顔を埋めてひどく幸せそうである。そのうちに人魚は男の身体に埋まるように消えていった。男に溶けたのだろう。

 目が覚めるとひどく頭が重かった。なにか妙な夢を見た気がするが雨の音が煩くて思い出せない。書物なぞ読んだからだと難癖をつけて水を一気に飲み干した。

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