定置網に人魚がかかること

 定置網に人魚がかかったそうだ。

 釣り場まで集落の若い青年が迎えに来た。おれの家が人魚釣りを廃業して以来、集落で人魚を見かけることは格段に減っている。年寄はともかく若いのは人魚に慣れていない。毒のあるなしといった知識から扱い方まで分かっていないのだ。

 慌てる青年に舟を漕がせて件の人魚を見に行く。なんてことはない海藻人魚だ。ごく浅いところで定置網に寄り添っていた。やや白く不透明なヒレを根本から脈のごとく枝分かれした暗い赤色のすじが支えている。テングサの人魚だろう。

 舟が近づくとテングサの人魚は身を震わせて暴れ出した。舟が傾くほどの波を起こすでもないので見守る。どうもヒレを引っ掛けたようでどれだけ暴れても定置網から離れない。

 息を呑んで櫂を握る青年に声をかけて海に飛び込む。一度水面に顔を出して空気を大きく吸い、テングサの人魚へと近づく。暴れていたテングサの人魚はこちらを見ると縮こまって震えだした。人魚にしては珍しい仕草だ。油断させておいて爪やら尻尾やら牙やらで攻撃してこないとも限らないので慎重に近づく。

 引っかかった腰ビレは暴れたせいか定置網に二重にも三重にも巻き付いていた。周りの定置網を弛ませるべく引っ張る。テングサの人魚は身を丸くしている。動かないのをいいことに震える腰ビレを絡まりから解放させていく。

 定置網を切らずに済んでよかった。腰ビレが自由になったのを確認してテングサの人魚から離れる。テングサが人魚はまだじっとしていた。

 一度浮上して呼吸を整える。舟には戻らず水中を観察する。おれの気配が遠くなったのに気がついたのかテングサの人魚がおそるおそるヒレを動かす。自由になったのに気がついたのか大きくぐるりと宙返りをした。そして水面を見上げておれと目が合うと肩を揺らす。どうにも臆病なようなので舟まで戻り乗り上げた。

 あっ逃げた、青年のほっとした声に振り返るとテングサの人魚はもういなかった。逃げヒレの速いやつだ。

 青年はやたらと感心しながら舟を漕ぐ。陸につくまで自分じゃああは行かなかったと話していた。近づけば暴れるし声も届かないしどうしたものかと随分弱ったそうだ。その割に大人しかった。青年に人魚釣りの家は人魚を鎮める手段があるのかと聞かれて逆に驚く。すぐに否定しておいたが信じてもらえたかどうか怪しい。変に尾ひれがつきそうな気がした。

 一仕事終えてまた釣りに戻る。魚釣りはおれの仕事であり趣味だ。釣り場を変えて釣り糸を垂れる。波は穏やかで日陰はほどほどに温かくあくびがでるほど呑気だ。

 市で買った重りは調子が良い。首から下げた布袋にはキョウチクトウの人魚の花と共に小さな羽が入っている。あれがなんだったか考えることもあるが、陸の異形のことはよく分からない。聞く当てもないしまあいいかと放ってある。

 ばしゃんと大きなものが跳ねる音がした。釣りの邪魔だなと目をやれば水面から顔を半分出した鉱石人魚が覗いている。警戒心などかけらも見せたことのない鉱石人魚が剣呑な目をしていた。

「腹が減ったのか」

 竿を上げて釣果から適当に魚を取り出す。眉を寄せたまま鉱石人魚が磯に手をかけて登ってくる。腹は減っているらしいが近寄っては来ない。

 野生の距離を覚えたのだとしたらめでたいことだ。魚を投げる。鉱石人魚は磯に落ちた魚に手を伸ばして見聞している。えらく慎重だった。

「毒なんぞ盛ってない」

 鉱石人魚を売ればいい値がつく。だから素人が手を出して返り討ちにあい食われる。人間は鉱石人魚のいい餌だとかつて祖父に聞いたことがあった。いまどき人魚の売買は大悪である。闇市に手を出すほどおれは切羽詰まってもいない。

 魚を食い終わった鉱石人魚がこちらを睨む。どうもおれではなく首から下げた布袋を睨んでいるらしい。珍しい仕草に首を傾げた。ペチペチと尻尾を磯に叩きつけてなにやら抗議している。なにをいいたいのかは全くわからない。おれの察しの悪さに嫌気が差したのかそのうち海に戻っていった。

 人魚にも効くキョウチクトウの人魚の花弁を持ち歩いているのは以前からだし、鉱石人魚はおれのことを侮っているフシがある。なんだったのかわからないが人魚のことなど考えても不毛だ。釣り竿を手に取って日常へ戻ることにした。

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