ひとを紹介されること
学のある友人からいい酒が届いた。
面倒ごとの予感がするものの酒に罪はない。一升瓶を片手に訪ねると贈り物を持ってきてどうするんだと笑われる。ひとりで空けるには多すぎるのでそのまま酒盛りとなった。
ひとを紹介したいのだと告げられて困惑する。人魚釣りに興味のある奴らしい。おれの家はとっくの昔に人魚釣りを廃業にしている。興味があるだけだから人魚釣りが見られなくても問題ないそうだ。
「君のところでは野生の人魚を見られるだろう」
カニ籠で魚を横取りしていた鉱石人魚のことだろうか。人魚に興味を持って近づくやつは大抵ろくなことにならない。魅入られるぞと苦言を呈せば大丈夫だと言い切られる。それに君もいると言われてしまえばむず痒い。断りきれずにしぶしぶ迎える次第となった。
三日ほど経ってやってきたのは明るい髪色をした軽い喋り方の青年だった。玄関で挨拶もそこそこに釣り竿を抱えて磯へと向かった。家にはキョウチクトウの人魚の花がある。初対面のそれも人魚に興味を持っている人間の目に触れさせたくない。
人魚釣りに興味があると聞いていたが、青年は海に近づくに連れて明らかに目線が泳ぐようになった。海が嫌いかと問えば風がべたついてどうも、と誤魔化す。首を突っ込むのも野暮なので黙って歩く速度を落とした。
磯のへりに腰掛けて無言で釣り糸を垂れる。青年は海から離れた崖に背をもたれかけている。人魚釣りの話どころではない。
波の砕ける音がする。潮風が頬に気持ちいい。潮溜まりで小さないきものが動く。
「あんたは学者か?」
素性を聞き忘れたことに気がついて尋ねる。
「いや、物書きだ。本は読まないのかい?」
「読まない」
「賞もいくつか貰っているから知られているとばかり」
青年についてなにも知らないと告げれば彼は声を立てて笑い、それから自虐的に呟いた。
「学者にはなれなかった。学者は夢と現実なら夢を手放すからね」
よく分からないが口煩い輩ではないらしい。
釣果から一番多く釣れているマアジをとって海へと差し出す。ほどなく鉱石人魚が顔を出した。相変わらず狩りが下手なようでマアジを手にとって丸呑みした。
「人魚を飼っているのかい?」
「飼ってない。狩りが下手でカニ籠を荒らすから仕方なく」
鉱石人魚はおれを盾にして物書きを伺う。物書きの顔は見えないが打って変わって弾んだ声で人魚の姿を青玉やら水宝玉だと例えている。鱗を評価されてるのが分かるのだろう、鉱石人魚は得意げだ。
「黒黒と底のしれない混沌にこんな可憐な方が隠されているとは」
「人魚に惚れるなよ」
釘をさせば物書きは苦笑した。美と性愛は別物だと講釈をたれ、己の恋の対象は憂いを帯びた熟した女だといらぬ説明までつける。溜息をついて釣り竿の先を眺める。鉱石人魚は鱗干しをするつもりか磯に転がっていた。全く呑気なやつだ。
ひとしきり物書きが喋り切ると静寂が落ちた。
ぱしゃんと釣り竿の遠く向こうで水面が揺れる。人魚が跳ねた。濃い緑の植物の葉によく似た細長い背ビレが弧を描く。腰ビレの桃によく似た花が揺れる。トビウオのように広げた手が白い。台形の尻尾が海へと帰るのをぽかんと口を開けたまま見送る。
キョウチクトウの人魚だ。
波が寄せては返す。鉱石人魚はごろりと寝返りをうつ。海鳥がないていた。釣り糸が引かれるのも気にならない。
「君」
物書きはなにか言っているがおれの頭は意味を拾えない。
潮風が冷たくなる頃、釣果と釣り竿を抱えて来た道を帰る。物書きは黙ってついてきて、例の友人のところへ行くと別れた。
後日物書きから届いた手紙には本が一冊添えられていた。君をモデルにしたと手紙にあって反射で握り潰した。どうせろくなことが書かれていないだろう。
瞼の裏には人魚がいる。桃色の花は花弁が欠けたままガラスの器で揺れている。もう一度、もう一目と浮かぶ思考に奥歯を噛みしめた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます