5:襲撃

 あの一瞬の騒ぎのあと、地図を拾いに行った離原はすぐに霄琳の隣に戻ってきたが、特にどちらも話を振らなかったため、黙りこくったまましばらく過ごした。

 けれど、二人の間がどんな雰囲気になろうと、時間はたえず流れ続けている。

 細い月が高く上がり始めると次第に眠くなってきて、霄琳はひとつあくびをした。するとそれまで地図を眺めていた離原が立ち上がり、荷車の準備を始めた。今日は野宿なので、荷車の中で眠るのだ。

 離原だけにさせていられないと、霄琳も荷馬車に乗り込む。とは言っても、それほど広くはない中を整理して寝る場所を確保し、寝床を整えるだけだ。すでに敷布と上掛けは離原がばさばさと叩いて埃を払っていたので、霄琳は衣服を丸めて枕を作った。これで就寝準備は完了だ。

「離原、もう焚き火消してもいい?」

「待ってくれ、確認してからだ」

 結界を張っているので獣や山賊は入ってこれないが、焚き火は風にあおられて火の粉を散らす可能性がある。もう寝る前なのだから消してしまおうとした霄琳だったが、離原の言葉にそうだったと水の入った木桶を手に下げたまま、夜空を見上げた。

 暗い空には細い雲がたなびいている。月も細いせいで、満月の夜に比べると心許なさすぎるほどの明るさだった。

「今日は月も隠れがちだし、見えるかな」

「焚き火の明かりがあれば充分だ」

 大丈夫だと言われた霄琳は、寝る時は布で閉ざしている荷車の後部の縁に座ると荷物の中から手ぬぐいを出し、地面に置いた木桶の縁にかけた。そうしているとごそごそと寝床を設置していた離原が降りてきて霄琳の前に立ち、手を差し伸べてきた。その大きな手のひらに、霄琳は自分の手をのせた。

(やっぱりまだ、俺のじゃないって感じがする……)

 相変わらず、自分のものとは思えない白くほっそりとした手だ。この手を夜ごと、眠る前に確認するのがこのところの二人の日課だった。

 離原が気にしているのは、刺青なのか、擦っても水に濡らしても消えることのない霄琳の手の甲にある花鈿かでんのようだった。

 流れは決まっていて、まず離原は霄琳の手の花鈿を見たあと、必ず絞った手ぬぐいで両手を拭き清める。そのあと足の甲も確認し、同じように裸足を拭くのだ。

 初めて手足を拭かれた日、当然、霄琳は驚いた。

 金に困っている様子もなく、外套や長靴などがそれとなく上質なものなので身分が高そうだなと思っていた相手が、突然跪いたかと思うと霄琳の足を拭き始めたのだ。

「ちょっ、な、なにっ」

 くすぐったいやら困惑やらで霄琳は喚いたが、離原は一切ふざけた様子もなく足の甲にもある花鈿を確認したあと、丁寧に足裏を拭いた。

 確かに、靴の中に収められている裸足に触れるなら拭いたほうがいいだろうとは思ったが、なにも離原がそんなことをしなくてもいいはずだ。次は自分で拭いておこうと考えた霄琳だったが、その翌日の夜も、離原は当たり前のように手拭いを絞った。

「足、今さっき拭いたけど……」

「ああ」

 それがなんだとばかりに頷いた離原は、その夜もしっかり絞った布で霄琳の足裏を丁寧に拭いた。自分で拭いても拭かなくても結果は同じだったうえ、離原は「俺がそうしたいだけだ」としか言わないので、結局好きにさせているのが現状だ。

 そして今日も、離原は丁寧に足を拭いて足の甲の花鈿を確認した。手の甲に触れた時と同じように、少し擦ってみたりじっくりと眺めたりした後、おもむろに足を少し上げたので、霄琳は離原が見やすいように後ろに手をついて体を傾けた。

 毎日ではないが、離原は時折、足の裏まで見ることがあった。そこにも花鈿があるのかと思って自分でも見てみたが、白くやわいそこには花鈿どころか傷もほくろもなかった。おかげで夜ごと足を拭かれる霄琳の中では、離原は手足を好む人間なのだという妙な認識が生まれつつあった。

「……大丈夫だ。寝よう」

「うん」

 今日の検分はこれで終わりらしい。ようやく解放された足を降ろし、そのまま荷馬車の中に入り込む。焚き火を消している音が聞こえ、あたりが闇に包まれた瞬間だった。

 ドッと空気が震えたと同時に結界がザアと雨のような音を立てて消えた。激しく鞘を擦りながら剣が引き抜かれる音がして、そのまま刃が合わさって跳ね返る音、空を切る音、激しく行き交う足音が響いた。

「白霄琳を寄こせ!」

「っ!」

 息を飲んだのは、押し殺したようなかすれ声に聞き覚えがあったからだ。

 聞いたのはたった一度だが、あやふやな記憶の中でも鮮やかに残っているその声は、まぎれもなく黒衣と呼ばれる男のものだった。

 とっさに自分の口を手のひらで塞ぎ、思わず洩れそうになった声を抑えた霄琳は急いで靴を履いた。荷車の隅に置かれていた離原の外套を取ると、早くもどくどくと脈打ち始める鼓動に浅く呼吸を繰り返す。

「なんのことだっ」

「ふざけるな、俺は聞いたぞ! あれは白霄琳だ!」

 静かな夜の森に、声と剣戟が響き渡る。

 あの時、霄琳は名前のすべてを名乗ることは出来なかった。それでも黒衣にはわかったのだろう。

(俺のことを知っているのは、離原と、黒衣……)

 この二人にどんな因縁があり、霄琳がどんな形で関わっているかなど知るよしもない。けれど、霄琳には自分を探す黒衣の声が恐ろしく聞こえた。

 黒衣のことなど、霄琳は知らない。離原が言うには黒衣は霄琳を殺そうとしているということだったが、なぜ狙われるのかまでは教えられていない。

 聞くべきだったと今更思うが、霄琳が知ったところで黒衣が命を狙ってくることが変わるとも思えない。とりあえず今をどう打破すべきか考えながら、二人が剣を交えている方向に背を向け、霄琳はそっと荷車から降りた。そのまま外套を被り、少し離れた茂みに隠れる。

 剣戟は激しく、体を低くしながら盗み見ると、時折火花が散るほどだ。一切の手加減なく打ちあう二人は、霄琳が荷車から逃げ出したことには気付いていないのだろう。離原は荷車を背後にして応戦し、黒衣は隙あらば荷車を襲おうと動き回っていた。

 黒衣が切りかかり、離原はそれを刃で受け止める。そのまま膂力で跳ね返して一閃を叩き込むが、後ろに跳んだ黒衣には届かなかった。しかし、離原には剣術以外にも仙術がある。剣を持たない腕が大きく振られたと同時に空気を歪ませて見えるほどの衝撃波が黒衣に向かって飛んだ。

 バンと大きな音を立てて空気が振動し、離原の後ろにいるはずの霄琳にさえびりびりとした震えが伝わる。黒衣が吹き飛んだのが見え、それを離原も飛刃で追いかけた。

 暗い夜の森で、月明かりもほとんどない。距離が離れたせいもあって、二人がどこまで行ったかを霄琳から確認することは出来なかったが、交戦の音は遠くから絶えず聞こえた。

(どうしよう……)

 武器も持たず、戦うすべも知らない霄琳が離原と黒衣の間に入ることは出来ない。むしろ足手まといになるのが目に見えている。それでもなにか出来ることやすべきことはないかと考えた霄琳は、もぞりと体を動かした。

(財嚢だけでも、取りに行けるかな)

 万が一ここではぐれたりなどしても、霄琳には頼る知り合いも故郷もない。完全に身一つで、先立つものもない。そんな霄琳に、離原は財嚢をひとつ買ってくれていた。

「もし俺とはぐれたら、そこからいちばん近い宿で待ち合わせよう」

 その時にかかる宿代や食事代、もしくは世話になる相手に払う謝礼などに使ってもいいし、普通に旅の行程で気になったものがあれば使えばいいと、財嚢には金貨と銀貨、あとは細かな陶貨が入れられている。普段はそれを胸元に入れているが、寝る時にまで懐に入れていてはジャラジャラと鳴ってうるさいと、霄琳は夜ごと就寝準備をしている時に出して、荷物の中に押し込んでいた。

 離原は戻って来てくれるだろうが、もしものことを考えたら、せめてそれだけでも手元に置いておきたい。

 そろりと起き上がった霄琳は、少し伸びあがって喧騒が遠いことを確認した。音は遠くから聞こえ、剣が合わさる時の火花は見えない。大丈夫だろうと荷車に駆け寄って中に滑り込み、財嚢を探そうと荷物のあるあたりに手を伸ばしたところで、霄琳は思わず動きを止めた。

 月明かりもほとんどないうえ荷車には布が張られているので、中はほとんど真っ暗だ。そんな中で、ぼんやりと光るものがあった。

 霄琳の手の甲に光る花鈿は、特殊な染料でも使ったのか、銀粉でも薄くまぶしたように光を反射することがある。最初こそ謎に思ったものの、毎日離原が確認しても変化はないようだし、痛みやかゆみがあるわけでもない。あっという間に慣れて気にもしなくなっていたが、花鈿は今、その様相を変えていた。

「……えっ」

 細長い楕円の上下が少し尖った、なにかの種子のようにも見えていた花鈿。それが少し膨らみ、手首側の突端からは蔦のように二又に分かれて手首の内側に回っていた。手をひっくり返すと線は手首の辺りでつながっている。まるで以前からそうだったように、花鈿はその面積を広げていた。

「なんで……?」

 恐る恐る見比べてみたもう片手も、いつの間にか同じようになっている。とっさに指で擦ってみたが、やはり消えることはなく、薄闇の中で花鈿はきらきらと輝いていた。

(刺青じゃない……なにこれ、なんで?)

 離原が花鈿の形状を確認したのはついさっきだ。一刻も経っていない。その時まではこんな線など伸びていなかったし、種子のような形も細長かった。

 一体どうして、と混乱しながら荷車に座り込んだ霄琳だったが、ふとなにかの気配を感じて顔をあげた。

 妙な感じがする。胸騒ぎのような、もしくはなにかの閃きのような、なにかが起こるという予感。それが確信に変わったのは、まばたきを三回したあとだった。

 ズンと地面が揺れた。周囲の樹木が一斉に揺れて葉が擦り合わさり、慌てて飛び立った鳥たちの羽ばたきが更に葉を打つ。数回揺れたあとは静かになり、荷車はその余韻で数度ぎしぎしと小さく軋んだ。

「地揺れ……」

 それほど大きなものではなかったし、長くも続かなかった。それでも体全体に圧が加わったような揺れは独特なものだ。呆然としていた霄琳だったが、遠くから聞こえてきた刃が打ちあう音に、はっと我に返った。

 財嚢を取り出さなくてはいけない。早く探して、また茂みに戻ろうと荷物を漁っていた霄琳は、ザッと真横を通って行ったものの衝撃に体を揺らした。見ると、荷車を覆う布に裂け目が出来ていた。

 さっきまでなかったはずのそれは、すっぱり切れたというよりは裂かれたというに相応しくほつれた形をしている。そろりと背後を振り返ると、反対側の布にも同じような穴が出来ていた。

「……ひっ」

 思わず引き攣った声が零れたが、それは霄琳に耳に届かなかった。二撃、三撃と相次いで黒ずんだ刃のようなものが荷車の覆い布を突き破って霄琳の横を通り抜けたからだ。

 本当に一瞬だったうえ、明かりがほとんどない夜闇の中だ。それでも漆黒の何かが殺意を持って荷車を襲ったのは明白だ。

「出てこい白霄琳!」

 剣戟の音は遠かったはずなのに、怒号が響いたのは思わぬほどの近距離だ。逃げなければととっさに荷車から出ようとした霄琳だったが、本来は開閉しない布の隙間から抜け出ようとしたせいでもんどりうって荷車から落ち、したたかに肩を打った。しかしその痛みに震える暇もない。今さっきまで乗っていた荷車はひどい音を立てて砕け散り、その音に驚いた馬は荷車にかけていた縄がとれたのを幸いと、夜闇に包まれた森の奥へと駆けて行ってしまった。

「いっ……」

 とっさに両手を前にかざしたおかげで大きな破片がぶつかったりすることはなかったが、手の横に鋭い痛みが走る。手首に流れたそれはおそらく血だったが、痛みに構う余裕などない。掲げた手の向こうに、男が立っていた。

 細い月を背後に立つ男を一瞬だけ離原かと思ったが、その低くかすれたような声は、全く違うものだった。

「花鈿が出ている……はっ、ははっ――レイシならば、やはりお前は白霄琳だ……!」

 黒衣が手にする刃が、ぎらりと月光を弾く。座り込んだまま霄琳は、ゆらりと天を向いた切っ先が振り下ろされようとしているのをなすすべなく見ていた。

 しかし、まるで一条の白銀の線にも見えた刃が振り下ろされることはなかった。黒衣の背後に突如として銀糸の網が大きく口を開けたかと思うと、振りかぶった刃ごと彼を捕獲したのだ。

 即座に身を捩ってどうにか銀糸の網から逃れようとした黒衣だったが、軽やかに見える銀糸は意外にも重さがあるのか、もがきながらもドッと膝をつく。その背後から飛刃を操った離原がとんでもない速さで迫った。

「くそっ……殺す、殺してやる……ッ」

 もがく黒衣が網の裾から手を伸ばし、霄琳の足を掴もうとした。しかし霄琳が伸ばした手を離原がつかむ方が早かった。

 空を飛ぶのは怖い。けれど、離原は言ってくれた。絶対に離さないと。

「離原、上がって!」

 霄琳を抱えた腕が強く背を抱く。ぐんと圧力がかかり、臓腑ごと体を後ろに追いやられるような感覚がしたが、飛刃に乗る離原は前へと飛んでいく。あっという間に元いた場所がわからなくなるほど上空まで上昇し、ようやく飛刃は止まった。

「霄琳、怪我は」

 周囲を見渡して黒衣が追ってきていないのを確認すると、離原はすぐに霄琳を見上げた。抱き上げられているのは少し恥ずかしいが、細い刃の上で一人で立つことなど恐ろしくて出来ない。大人しく抱かれたまま、霄琳は小さく首を振った。

「大丈夫、ちょっと切っただけ。でも、離原の方が……どうしよう、近くに村とか……宿に入れないかな」

 明かりは月のほのかな光しかないが、上空にいるせいで遮るものもほとんどない。雲の切れ間から差し込んだ月光に照らされた離原は、明らかに傷だらけだった。

「俺はいい。それより……手を見せてくれ」

「手?」

 怪我をしたからだろうかと、落ちないようにびったりとくっつかせていた体を少し離し、木っ端が掠ったせいで出血した手を見せる。そこでようやく、離原が怪我ではなく花鈿を気にしていたのだと気付いた。

 手は確かに出血していたが、強い風に煽られたせいもあってほとんど乾き始めている。暗い中では血が滴った範囲もわからなかったが、そんな闇の中でも花鈿は銀粉が混ぜられた塗料で描いたように輝いていた。

「……」

 明らかに形状が変化している花鈿を前に、離原は何も言わなかった。眉間にしわが刻まれ、口が引き結ばれる。鼻梁を横切り、左目の下を走る傷痕も歪んでいた。

 苦しげなその表情を見た霄琳は、まるで泣いているみたいだと少しだけ思った。


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