6:疑心と疑問



「……りました、では……のお部屋を」

「ああ」

「ご案内いたします」

(なに……?)

 ふっと浮上するように目覚めた霄琳は、軽く上下に揺られていた。重くてたまらない瞼をどうにか薄く開くと、高く広い天井が見えた。

「離原……」

「ああ、起きたか」

「ここは……?」

「宿だ。まだ寝てていい」

 離原は軽い足音を立てて階段を登って行く。離原よりは幾分も背は低いが、それでも小さな子どもではない自分を抱えているのにすごいなとぼんやり考えているうちにそっと布地の上に下ろされて、霄琳は自分がいまの瞬間も少し寝ていたことに気付いた。

 いつまでも眠いのは、昨夜遅くまで起きていたせいだろう。確か、いつものように荷車で寝ようとしたところに黒衣が襲ってきて――

「あっ」

 そうだった、と思い出した瞬間、あんなに眠気がまとわりついていた瞼が晴れ、霄琳はぱっと目を開いた。さっきよりは近く狭いが、細緻な彫りが美しい梁が渡された天井が見えた。

「霄琳?」

 眠りで堰き止めていた記憶が一気になだれ込んだように、霄琳の脳裏には昨夜のことが甦っていた。

 野宿なので荷車で休もうと、離原が焚き火を消したところに黒衣が襲ってきたのだ。離原が応戦し、一旦は逃げた霄琳だったが、財嚢を取りに行ったところで荷車を破壊され、黒衣に見つかった。けれどすぐ離原が助けに来てくれて、飛刃で逃げ出したところまでは覚えていたが、少し話をしたところで記憶は途切れていた。

「こ、黒衣は……それに俺、降りたの全然気付かなかった……」

 昨夜過ごすはずだったあの場所から、どれほど移動したのだろう。どれほどの時間が経ったかもわからず、きょろきょろしながら体を起こした霄琳に、離原はああ、と頷いた。

「よく寝ていたからな。怖い夢は……落ちる夢は見なかったか」

「見なかった。ありがとう、ここまで運んでくれて」

 開かれた窓の外には明るい陽光が満ち、街並みが広がっている。山は見えないほど遠くにあるようで、少なくともそれだけの距離を離原は霄琳を抱えて飛んでくれたようだった。自分ばかりが呑気に眠っていたのは申し訳なかったが、礼を言うと離原は少し笑った。

「いや、危険な目に合わせたのは俺の方だ。怪我もさせた」

「怪我なんて、ちょっとかすっただけだよ。離原こそ、怪我は……」

 切った時に血は滴ったが、それほど大きな傷ではなかったのか、もうかさぶたになっている。それよりも黒衣と戦っていた離原の方が気になった。

「大きなものはない。一応は仙師の端くれのようなものだから、あってもすぐに治る」

「でも、血が……せめて体拭いたほうがいいよ。俺、手伝うから」

 霄琳が手の横におった傷とは比べ物にならないくらい、離原は至る所に傷があった。確かに薄いものが多いが、血がにじんでいるところもある。もともと黒衣に劣らず離原も黒尽くめの服装でほとんど肌の露出はないが、中の内着は白いらしく、裂かれた二の腕のあたりは血のにじんだ白い布が見えていた。

 背中のあたりは手が届かないだろうから手伝おうと霄琳が腰を浮かせるのと同時に、部屋の扉が叩かれた。

「桶とお食事をお持ちしました」

「入ってくれ」

 離原が入室を許可すると、失礼しますと扉が開いて手にそれぞれ水の入った木桶やら布やら食事やらを携えた宿の店員が入ってきた。

 二人きりだった部屋はにわかに人だらけになったが、使用人たちは無駄口をたたくでもなくこまごまと動いて、食事の卓子を準備したり、衝立を引き出してきて水桶をその向こうに隠したりと動き回った後は、波が引くように一斉にいなくなった。けれど、一行の中で何も持たずにやってきた壮年の男性だけが残り、使用人が扉を閉めたのを確認すると、離原に深々と頭を下げた。

「離原様。お食事は簡単なものとのご注文でしたので、とりあえずはこのように準備いたしました。不足がございましたらお申し付けください」

「ならば、食事の毒見を」

「えっ」

 思わず声を上げたのは霄琳だった。なんとなく手の甲を袖で隠しながら離原と男性のやり取りを見ていたが、まさかそんなことを言い出すとは思わなかったのだ。

 毒見をしろということは、用意された料理に毒が入っているのではと疑っているも同然だ。男はおそらく宿の主人や仕切るような立場にいる人間だ。怒らせて追い出されたらどうするのだと思わず離原を見た霄琳だったが、毒見を命じられた男は特に気分を害した様子もなく頷いた。

「かしこまりました。お役目は私でよろしいでしょうか」

「ああ」

 目を見張っている霄琳の前で離原は食事を卓子ごと寝台の近くへ移動させると、そこに並べられていた料理を少しずつ小皿に取り、それを男性に突き出した。

「これを」

「はい。失礼いたします」

 男性は立ったまま小皿の料理を食べ尽くし、空になった皿を卓子の端に置いた。

「よろしいでしょうか」

「いいだろう」

「それでは、御用の際は何なりと」

 また深々と首を垂れると、男は出て行った。ぱたんと扉が閉まると離原は内側から鍵をかける。そうして何事もなかったかのように衝立の向こうに置かれた水桶と椅子を持ってくると、寝台の傍に置いて椅子に腰かけた。

「食事の前に、手を拭こう。ついでに花鈿を見せてほしい」

「それはいいけど、……離原、なんで毒見なんてさせたの? あの人、本当は怒ってなかった?」

 霄琳の手を離原が取り、丁寧に拭いていく。

 何もできない子どもではないのだし自分で出来ると言いたかったが、離原の狙いが花鈿の確認であることはわかっている。拭きながらその形状の変化などを見たいのだろうと好きにさせながら問いかけると、手のひらだけでなく指の間や手首の辺りまで甲斐甲斐しく拭いていく男は、当たり前だとばかりに口を開いた。

「毒が入っている可能性はある。この宿の主人は知り合いだが……黒衣はどこにひそんでいるかわからない。黒衣の手のものは多くいる」

「手のものって……俺、黒衣以外にも狙われてるの?」

 現状、霄琳を守ってくれるのは離原だけだ。それなのに黒衣以外にも狙われていたら、それこそ身がもたない。

 とたんに霄琳は不安になったが、離原はそれを和らげるだけの当たり障りのない言葉で済まそうとはしなかった。

「黒衣の率いる者たちは複数いる。どれだけの数で、どこにいるかは俺にもわからない」

「り……離原の味方、は……?」

 いくら仙術が使えても、数もわからず居場所も知れない無数を敵にするのはあまりに勝機がない。昨夜の月に照らされていた刃の輝きを思い出すと、ぞわりと肌が戦慄いた。

 黒衣一人でもあれほどの激闘だったのだ。離原は仙術も使えるうえ、武術の面でも腕に覚えがあるようだったが、大人数で襲い掛かられたらどうなるかはわからない。

 追いかけられ、捕らわれてしまったら、戦うすべをもたない霄琳では敵わないだろう。抵抗はするだろうが、仙術も使えなければ武術と言えるほど闘いに特化した体術を会得してもいない身では、なすがままにされてもおかしくはない。

 無数の腕が伸びてくる光景が、脳裏に鮮やかに描き出される。そのどれもが霄琳を捕らえ、屠ろうとしている。無造作に掴まれ、引き倒され、地面に肌が擦れる。痛いと悲鳴を上げても、引きずられたせいで裂けた皮膚から血が流れても、誰も気にはしない。

 当たり前だ。彼らは霄琳を殺すことが望みなのだから。

「……ぃん……白霄琳!」

「――っあ!」

 がくんと大きく揺さぶられて、首から頭が転げ落ちるかと思うほどだった。視界が大きく揺れて、一瞬どこにいるかわからなくなる。くらくらと目が回るような心地を味わいながらやっと定まった焦点の先にいたのは、ひどく焦った顔をした男だった。

「霄琳、俺がわかるか」

「り……」

 その先が出てこない。なんだったっけ、と考えたのは瞬きを二度する程度のわずかな間だった。

「…………り、げん……離原」

 喉に何かが詰まっているような、記憶の中の濃い霧がかかった場所が一瞬晴れそうだったような感覚だった。とっさに脳裏にひらめいた名前を口にする。けれど、これだという確信はあるのに、なんだか違うような気がした。それは少し、未だに自分の体に抱える違和感と似ていた。

「そうだ。……心配しなくていい、俺にも味方はいる。ここの店主もそうだ」

「さっきの?」

「ああ、味方……というか、便宜を図ってもらえる。そういう協力者もいる。だが、味方は周苑に多いんだ。だから今はとりあえず周苑に向かっている」

「周苑……」

 国都の名前だというのは以前も聞いた。どんな場所なのだろうとぼんやり考えているうちに手は肩から離れ、再び足元に跪いた離原はまた霄琳の手を拭き始めた。

 丁寧に拭われていく手の甲には、花鈿が輝いている。昨晩見た時と変化はないようだが、もともとはただの楕円が描かれていただけなのだ。そこから蔓が伸びたような柄に変化している。それだけで十分に不思議だった。

 両手を拭き終わった離原は、一度手ぬぐいを自分の膝にのせた後、霄琳の両手の指先を掴んだ。じっと眺める視線は強く、その図柄を目に焼き付けようとでもしているかのようだ。

「これは……いつ、変化した?」

 独り言のような小さな問いかけだった。指先だけを掴んでいた手が手のひらにまで伸び、親指の腹が手の甲を撫でる。くすぐったかったが、離原の温かい手のひらの感触はどこか安心した。

「昨日、離原が黒衣と戦ってる時だったと思う」

「地揺れがあっただろう。あの前か」

「えっと……うん。俺、荷車に財嚢を忘れてたから、それを取りに行ったときに気付いたんだ。そうしたら絵が変わってて……そのあと、黒衣が荷車を壊した」

 花鈿の柄が変わっている、と気付いたあとに地面が揺れた。そして直後に黒衣に襲われて荷車が破壊されたことは、霄琳もはっきり覚えていた。

「黒衣には気付かれたか?」

「花鈿?」

「ああ」

「うん、花鈿が出てるって言ってた。それから、レイシだから俺は白霄琳だ、みたいなこと言ってた気がするけど……。俺はレイシってやつだから黒衣が狙ってるの?」

 混乱と恐怖はあったが、黒衣が放った言葉が謎に満ちていたせいもあったのかもしれない。意外にも霄琳は彼の発言を覚えていた。

 聞き馴染みはないもののどこか耳に残る単語を問いかけると、離原は霄琳の手を深く握りこんだ。

「レイシって何? この花鈿は関係してる? ……なんで黒衣は俺を殺そうとしてるの? なんで離原は……俺を守ってくれるの?」

 矢継ぎ早に問いかけながら、掴まれた手が熱いと霄琳は思った。

 離原の手のひらはいつの間にか手首を下からすくうように掴んでいた。

 霄琳の記憶には未だ濃い霧がかかっている。その霧が、黒衣から告げられた言葉を思い出すと揺らぐのだ。霄琳にはその揺らぐ向こうに、見てはいけない、思い出してはいけない恐ろしいものがある気がしていた。けれど、そのすべてを思い出さなければならないとも思った。

夏子静か しせい、という名前に覚えはあるか」

 霄琳は一瞬なぜだか、うん、と頷きそうになったが、知らない名前だ。

「……わからない」

 首を横に振った霄琳の肩を、相変わらず細く長い髪が滑った。昨夜は寝る前に紐で結わえていたはずだったが、あの騒ぎでほどけてどこかへ行ってしまったのだろう。そういえば紐の残りも荷車に置いたままだったとふと思い出した霄琳を前に、離原はならばと息をついた。

「食事をしてから教える。……愚かな男の話だ」

 卓子を運ぶと言って、離原は椅子から立ち上がった。掴まれていた手はそこで自由になったが、食事の準備をする離原の後ろ姿を見ながら、なぜだか霄琳は、そのまま掴んでいてほしかったなと思った。 



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