3:旅の始まり
翌朝、借りたままの外套にくるまった霄琳が目覚めた時には、離原はすでに身支度を整えていた。
「少し行けば、
「うん。ところで……あの、離原。本当に申し訳ないんだけど……俺、靴がないみたいで」
記憶を失う前の自分は、一体どこで何をしていたのだろう。陽の光の中で改めて自分の格好を確認した霄琳はげんなりしていた。
真っ白な長衣は透けこそしてはいないものの、袴や二股などを履いていないせいで、やたら風通しがいい。足元まで丈があるのはありがたかったが、おそらくこれは寝衣で、外に出るならあと一枚は羽織るべき恰好だった。そのうえ、足元は靴下どころか靴さえない。
目覚めた時にいた村からこの洞窟まではほとんど離原が抱いていてくれたおかげで裸足でも怪我ひとつ負ってはいないが、自分のものとは思えないほどやわらかく白い足裏は、山道を歩けばすぐに皮膚が破れてしまいそうだった。
「気にするな。濤辺についたら、まず靴を買おう」
そもそもどうして自分は裸足なんだと思いながら素足を見下ろした霄琳に、目元を和らげた離原は頷いてくれた。
「ごめん……あの、おんぶでお願いします」
昨日は離原と向き合う形で抱き上げられていたが、それでは疲れるだろう。かと言って俵抱きにされるのは避けたい。考えた結果、背負ってほしいと霄琳は頼んだが、それはすぐに却下された。
「背後から襲われた時に対処が遅れるのは避けたい。昨日と同じように抱きあげるのではだめか」
「でも、ずっと抱いて行くのは大変だし……」
「大丈夫だ。気になるなら……霄琳、すぐに着くから、飛刃を使ってはいけないか」
言われて思わず目を見張ったのは、闇の中を剣の刃に乗って飛び回った昨夜のことを思い出したからだ。
昨日も十分怖かったが、それでも暗いせいで周囲があまり見えていなかった。だが今は朝陽が昇っている。明るい中で高所に上がるのは、暗闇とはまた違った恐ろしさがありそうだった。
「飛刃で……どのくらい飛ぶ?」
「これから嶺を越えて降りたらすぐ濤辺だ。四半刻(約三十分)もかからない」
「じゃ、じゃあ歩いて行ったら?」
「一刻(約二時間)ほどだ」
「…………目隠し出来る布ってあるかな」
上昇する感覚や上空の強風はどうにもならないが、目さえ覆ってしまえば視覚からの恐怖は薄れる。恐ろしくはあるが、本来なら一人でさっさと飛んでいける離原が、靴を履いていない自分のせいで倍以上の時間をかけて山道を歩いて行くよりはいい考えだと思った。
「目隠しはないが、これを頭から被ればいい。音も少しは防げる」
そう言うと離原は、ついさっき霄琳が返したばかりの外套を脱いだ。
「風も防げてちょうどいいだろう」
「ありがとう」
昨日からお世話になっているこの外套は、確かに少し厚みもあるので音や風を防げるだろう。よく見ると縫製も丁寧で触り心地もいい、明らかに上等そうなものだが、昨日から見る限り布の代わりとして扱っているらしい離原は気にする様子もなく、霄琳の頭にふわりとかぶせてくれた。
「他に懸念はあるか? 不安があるなら、何でも言ってほしい。俺が出来ることならなんでも対処する」
「ないよ、俺の方こそなにか不満があったら言ってほしいくらい。本当にありがとう、お世話かけます」
霄琳はなにひとつ出来ずにいるのに、離原は寝床を探し、食事を与えてくれている。そのうえ交通手段まで霄琳の不安と移動の効率の折衷案を提案してくれて、これ以上を望むのは却って申し訳ない。
首を振り、よろしくお願いしますと深々と霄琳が頭を下げると、離原は浅く顎を引いた。
「では行こう。さっきも言った通り四半刻もかからないと思うが、もし何かあったら……空に上がってからでも、降りたいと思ったら言ってくれて構わない」
「わかった」
うん、と頷くと離原は長躯を屈めて霄琳を抱き上げた。地面についていた裸足が浮くと心許なさは否めなかったが、腰に佩いた剣を抜いた時以外、離原の両腕が霄琳を抱く腕を緩めることはなかった。
空に上がる浮遊感こそ感じたものの、外套にくるまっているせいで風も音も昨日ほどひどくはない。自分でも目を瞑って外套の影に隠れるように身を竦めていたので、視界からの恐怖もだいぶ薄らいだ。
(どんな町かな……)
濤辺という町までは、それほどかからないと離原は言っていた。
到着したら、まず靴を買わなければならない。それから、寝衣のようなこの格好もどうにかしなければならないし、他にもなにか足りないものがある。
(お金はあとでどうにか工面して返すとして、靴と服と……そうだ、なにか紐もいくつか買わないと)
紐があれば、色んな事に使える。特に今一番どうにかしたいのが、長くさらさらとした髪だ。結い紐がないため、抱えてくれている離原の邪魔にならないようにと今は左右の肩からすべて前に流している。綺麗な髪だとは思うが、すぐに指から零れていくほど細くしなやかで、風がふけばさっと浚われて視界を奪ってしまう。せめて紐でまとめたかった。
(切った方が早いけど……この体の本当の持ち主は、俺じゃないと思うし)
一晩明けても、未だにこの体が自分のものだとは思えない。四肢は問題なく動くし、五感だって不自由ない。けれど何かが違う気がするのだ。
それに、こんなに髪は綺麗に手入れされたものだ。少しでも切ってしまったら本当の持ち主や周囲の人々が悲しむのではと思えば、鋏を入れることなどできない。だからせめて紐で結うことは許してほしいと思った時だった。
「町が見えてきた。もう着く」
「うん――、ぅあ、ああっ……」
すっと体が地上に向かって降下を始めた。体の真ん中からなにかがせり上がってくるような、それでいて逆に体が下へ吸い込まれるような感覚が、途端に不安という感情になって突然膨れ上がる。
「ああ、ぁ……あ――っ!」
落下というほど急速なものではないとはわかっていても、足元から急速に上がってきた恐怖はあっという間に心臓に絡みついた。呼吸が浅く早くなり、体が強張る。離原も霄琳の異変に気付いたらしく、剣は地上に降りることなく再度浮上した。
「やあっ、や、やだ落ちる、落ちるっ」
「霄琳、大丈夫だ。落ちてない」
恐慌に陥りかけた霄琳の耳に、焦りを含みながらもしっかりと聞こえる声が響く。「うっ、あ、おち、ああっ……」
「大丈夫だ、落ちてない。お前は落ちてない」
指先が白くなるほど強く離原の服を掴むと、逞しい腕が更に霄琳をきつく抱きしめていっそ苦しいほどだったが、その苦しさが今は安堵へ繋がった。
「俺はお前を離さない。絶対に、離さない」
だから大丈夫だと囁かれ、そのまま深く呼吸をするように宥める声が耳に流れこんでくる。
「大丈夫だ、息を吸って……吐いて。霄琳、俺はここだ。お前をちゃんと掴んでいる」
「はあ、は……うん、……うん…」
離原には見えていないだろうが、外套の中はぐちゃぐちゃだ。あっという間に溢れた涙で頬はびしょびしょになり、上手く呼吸が出来なかったせいで大きく開いた口元まで濡れている。肌は冷や汗でじっとりと湿り、息も絶え絶えになりながらはあはあと喘いでいると、外套が取られた。
「あっ、や、手っ」
「もう地面に下りている。大丈夫だ」
自分を支えていた腕が一本は他のことに使われていると思うなり恐怖が再来し、思わず大きく体を震わせた。しかし外套が取り払われた先に見えた景色は、確かにもう上空ではなくなっていた。
見下ろしていた樹々は霄琳の頭上にあって、空も遠い。いつの間に降りたのか、剣をすでに鞘に収めている離原の足裏はしっかりと大地につけられていて、もし彼が霄琳を落としても、せいぜい尻を強く打つ程度だった。
「け、剣、おりて……っ」
「ああ、さっき降りた。すまない、降り方が急だった。長距離で徐々に高度を落とすべきだった」
確かに気付かなかった。恐慌に陥っていたせいもあるが、それと気付かないほど滑らかに剣をさばいてくれたのだろう。
まだ肩で息をするようなことにはなってしまっているが、離原がすでに地面に立っていることを目で見て確認したせいか、気を失いたいほどだった恐怖や不安は霧散していた。
「俺のほうこそごめん……と、取り乱しちゃって……」
ごくわずかな短い間の出来事ではあったが、ひどく疲れた。どうにもこの体は疲れやすいような気がする。精神的な疲労と肉体的な疲労では比べようもないかもしれないが、それでも以前の霄琳ならもっと――
(前の俺?)
突然目の前に巨大な穴が出現したような心地だった。昨日から散々味わってきた感覚だ。なににも阻まれることなく何かを思い出せそうだったのに、気付けば目の前には大きな穴がある。そこになにかあったはずなのに思い出せず、その向こうにさえ闇が広がっている。
またかとさえ思いながらぐらぐらと揺れる頭を霄琳が抱えていると、離原は歩き出したようだった。剣に乗っている時とは違う、僅かな揺れが心地よい。
眠気があるわけではないが、せめて呼吸がおさまるまでと目を閉じて揺れに身を任せていると、ふとこの感覚も覚えがある気がしてきた。
(離原なのかな……誰だろう)
もやもやとして明確な像を結ぶことはなく、言葉にするにもあやふやすぎるが、なんとなくこうやって抱き上げられたことがある気がする。けれど、その曖昧な記憶は不思議と恐ろしいと感じるもので、逃げるように霄琳が目を開けると、こちらを覗き込んでいたらしい離原と目があった。
「気分が戻らないか?」
「う、ううん、大丈夫……」
少しでもなにかを思い出せたらと思っていたが、今不意に糸口をつかみそうだった記憶は、なんだか触れないままでいたかった。
思い出さずによかったとすら思いながら首を振っていると不意に、あの、と下から声がかけられた。見ると、しゃがんだ青年がこちらに靴を差し出していた。
「これなんかどうですか」
「えっ」
「履かせてみる。あといくつか見繕ってくれ」
「わかりました」
困惑する霄琳が慌てて周囲を見ると、どうやらいつのまにか町に入ったらしかった。
霄琳を抱えたままの離原が立っているのは店先で、それもどうやら履物を扱う店だ。刺繍が入ったやわらかそうな布靴や底に分厚い木板を仕込んだ長靴がいくつも並んでいた。
「ここ、濤辺?」
「そうだ。降りた場所がちょうどよかったな。履物屋がすぐに見つかった」
近くにあった椅子に霄琳を降ろした離原は、おもむろにしゃがみ込むと、霄琳の裸足を下からすくうように持ち上げた。
「わっ、ちょっ、大丈夫、自分で履けるからっ」
霄琳は寝衣のような服の下になにも着ていない。中が見えてしまうと慌てたが、離原は足を離してくれなかった。
「いや、確認したいことがある」
「確認?」
怪我などはしていないはずだと自分でも裸足を覗き込むと、足の甲にも手の甲にあるような花鈿があった。離原はそれを指で擦り、消えたり滲んだりする様子がないことを確認すると、顔をあげて店員の青年に向いた。
「長靴はあるか? 足首までの短靴でもいい」
「うーん……お探しの足の大きさじゃあ、これくらいですかね。底に綿を叩いたのを入れているんですよ、旅をされるならちょうどいいかと」
「離原。俺、自分で履くから足降ろして」
差し出されたのは、脛の中ほどまでを隠す長靴だった。受け取ったのは離原だったが、このままだと更に足を掲げられてしまうと慌てた霄琳が早く下ろしてくれと頼むと、存外素直に足は解放された。
長靴に足を通してみると、霄琳の足には少し大きかった。けれど、ぴったりの靴などそうそう見つからないものだ。両足に履いて紐で調節し、ようやく霄琳は昨日ぶりに自分の足で地面に立った。
「どうだ」
「うん、ちょっと大きいけど歩きやすい」
店内を数歩歩いてみるが、底に綿を叩いたものを入れてあると店員が言っていた通り、木板の硬さが軽減されて歩きやすい。これなら山道でも歩けそうだった。
だが問題は価格だ。見れば靴には小さな刺繍が入っているし、使用されている革も薄いのにしっかりとしたものだ。更には底板に工夫まで施しているのだから安価なはずがない。いつか代金は返すつもりなので、いま離原に払ってもらったとしても、それは未来の自分が彼に返す金額になる。ならばきちんと確認をしなければと思っていると、離原が自らの懐に手を入れた。
「それならこれを貰おう。靴下も三足頼む」
言うなり取り出した
「りっ、離原!」
金貨で払うような額のものを、自分の財力では返せない。そんな気がして慌てて声をあげたが、店員はすでに金貨を受け取っていた。
「なんだ」
「この靴いくら? 俺、値段見てない。あんまり高いのは買えないよ」
記憶はないが、間違いなく以前の自分は裕福ではなかっただろうと思いながら、釣銭を取りに戻った店員の背をちらりと見る。今からでも商品を変えることは出来るだろうか、せめて銀貨で買えるものを、と思った霄琳だったが、離原はだめだと首を振った。
「足元に妥協しては、怪我にも繋がる。それに、金の心配はしなくていい」
手持ちはある、と離原は財嚢を差し出してきた。袋の口からは明らかに少なくはない量の銭貨が見え、袋が少し崩れるとじゃらりと重たげな音を立てたが、それは離原の金であって霄琳のものではない。
「心配するよ。いつかお金を返す時に、払えない額になってたら大変だから……」
「返さなくていい」
「でも」
「返さなくていい。言っただろう、俺は霄琳を守るためにいる。まずはそのために、国都の
「でも……国都?」
どこ、と思わず首をかしげたところに、釣銭と新品の靴下を三枚持った店員が戻ってきた。話はあとで、ととりあえず店を出た二人は、それから濤辺を歩き回った。
「国都って、ここからそんなに離れてるの?」
「ああ、ここからなら……馬で大体二週間程度かかる」
「そんなに⁉︎ 徒歩なら……」
「一ヶ月くらいだな」
「飛刃だと?」
「全速でなら五日かそこらだ」
そう言った離原だったが、話をしながら濤辺を回った末に、一頭立ての少し大きめの荷馬車を買った。しかも屋根がついたなかなかに立派なもので、支払いの際にちらりと霄琳が見たのは、何枚もの金貨だった。
「飛刃、使わないの?」
徒歩よりは馬、馬よりは飛刃が早い。かなりの遠方なのだから飛刃を使うのだろうと思っていた霄琳が思わず問うと、離原は買ったばかりの馬の頭を撫でた。
「黒衣から逃げるときは一時的に使うかもしれないが、それ以外は馬でいい」
「……俺が怖がったから?」
飛刃で向かえば五日でつくのだという国都まで、馬で行くことの利点はほとんど考えつかない。けれど馬を選択する理由として一番に思い当たるのは、霄琳が飛刃での移動を怖がったことだった。
確かに怖いのだ。あの浮遊感、そして落下の時の途方もない恐怖。実際、思い出すだけで血の気が引き、鼓動が早鐘を打ち始める。指先も震えだした。
落ちるのは怖い。死の先には何もない。
「霄琳」
冷たい底なし沼になすすべもなく沈んでいく中を、ぐいと強く引き上げられたような心地だった。
はっとして見開いた視界には水の膜が張っていて、それこそ溺れているような錯覚を覚えたが、体はしっかりとした腕に包まれていた。
いつのまにか離原が、強く霄琳を抱きしめていた。
「霄琳、聞いてくれ。確かに飛刃の方が早いが、長くは飛び続けられない。飛び疲れている時に襲われる可能性もある。それに、お前が苦痛と感じることを強いるつもりはない。むしろ、出来る限り取り除きたい。これは俺の願いであって、俺がそうしたいだけだ。どういう選択をとろうとも、絶対に霄琳のせいではない」
大きな手のひらが背中に当てられている。布越しに伝わる熱が、恐怖に凍りつきそうだった肌に染みいるようだ。強張った体から徐々に力が抜け、霄琳はぐすっと鼻をすすった。軽く背中を叩かれるのが心地よかった。
「俺はお前を守る。そのために見つけたんだ」
――だから、何があっても自分のせいだと思わないでほしい。
滔々と流れ込んでくる声が心地よい。
瞑った目のふちで雫を結んだ涙がこぼれたが、ありがとう、と言えるようになったのは、それからもう少ししてからのことだった。
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