2:意義
名前を名乗ったら降ろしてくれるかもしれないと思っていたのに、結局男は降ろしてくれなかった。そのうえ、霄琳の名を聞くなりしっかりと体を抱き直し、速度を上げて空を飛んだ。強風に乾く目を薄く開けて見ると、あの黒衣の男までが空を飛んで追いかけてきていた。
「待て!」
どういう仕組みか、二人は剣の上に立って空を飛んでいる。まるで自分の足で歩くように不便なく飛び回っているが、ここはとんでもなく高い空の上だ。自分で操っているわけでなく、ただ抱えられているだけの霄琳からすればいつ落とされるかわからない。
「ほっ、本当にお願い、お願いします。絶対に落とさないで!」
自分はこんなにも高いところが怖かっただろうかと名前以外があやふやな記憶を探ってみるが、そもそも落ちれば命はないと確信できる高さだ。なりふり構わず叫ぶと、男はしっかりと両腕で霄琳を抱いてくれた。
「大丈夫だ。絶対に落とさない」
だからちゃんと掴まれと言われ、男の首の後ろに手を回してぎゅっと抱き着く。叶うことならいっそ懐にでも入ってしまいたいほどだった。
男は霄琳がしがみついたのを確認すると、またぐんと速度をあげながら、大きく左に揺れた。すると、たった今霄琳と男がいた空間に向けて細い刃が飛んできて、風を切りながら闇の中へ消えて行った。
「ひっ……」
まぎれもない殺意だ。あんなものが当たれば大怪我はまぬがれないし、命だって落としかねない。追ってくる男がどちらの命を狙っているのかはわからないが、霄琳を抱えている男に何かがあれば霄琳の身だって危うい。頼むから逃げおおせてくれと思いながら視線を追いかけてくる男に向けると、早くも追撃を投げようと振りかぶったところだった。
「二本来るぅわあっ!」
思わず声を上げると、体を支えてくれている腕が強く締まり、ぐんと軌道が変わる。ヒュンヒュンと二本の刃が視界の端を過ぎて行った気がしたが、大きく右に曲がったうえ、そのまま落下とほぼ変わらないような速度で森に向けて男が剣を走らせたため、霄琳にはもう剣の行方などどうでもよくなっていた。
「ァ――……っ!!」
恐怖でもはや声も出ない。そんな霄琳の背を、ぐっと強い力が抱き寄せる。
「絶対に離さないから、声を出さないでくれ」
「……う、うっ」
名前も知らない男の首にしがみついて、肩口に顔を押し付ける。やがてバサバサと葉が擦れる音がしたが、すぐに静かになった。
「あっ、わ、やっ、だめっ」
「もう地面だ」
ふっと男の力がゆるみ、背中を強く抑えていた腕が離れたと気付くなり霄琳は驚いて声をあげたが、男の声は冷静だった。言われておそるおそる顔をあげると、男はすでに剣を鞘にしまい、地面に立っていた。
「こっ……ここ、どこ……」
降ろされないまま周囲を見渡せば、月明かりさえも樹々に紛れてなかなか届かないほどの深い森の中だ。先程までの恐ろしく鋭く風を切る音などはせず、おだやかな微風に揺れた葉が擦れる音や、軽やかな虫の声、小さな動物がかさこそと歩き回る音がするだけだった。
「怪我はないか」
「ないけど……あっ、ありがとう、あの、もう降ろしていいから」
恐怖と混乱からずっと抱き着いていたが、もう地面に下りたのなら自分で立つことが出来る。もう大丈夫だと言うと丁寧に地面に下ろしてもらえたが、裸足の足裏が地面につくなり霄琳はへなへなと座り込んでしまった。
高速で上空を飛び回った恐怖がまだ響いているのか、どうやら腰が抜けているようだった。遅まきながら指も震えて、頭もくらくらと揺れた。
「霄琳」
「……ご、めんなさい、あの」
立てない、と情けないことを口にするより先に、霄琳を下ろした姿勢のままだった男が、羽織っていた外套のようなものを脱ぎ、それで包んで抱き上げ直してくれた。みのむしのようになりながらぐったりと彼にもたれると、名前も知らない男は少し焦った様子でまた、霄琳の名を呼んだ。
「具合が悪いのか?」
「くらくらするだけだから、大丈夫……」
「体調が悪いなら近くの町まで行こう。飛刃ならすぐにつく」
「空を飛ぶってこと?」
「ああ」
「じゃあいい……」
記憶がないのでわからなかったが、どうも霄琳は高いところが苦手だったらしい。どこかから落ちたことでもあるのかなと思ったものの、特になにかを思い出すでもない。力なく首を振った霄琳に怒るでもなく、男はわかったと頷いてくれた。
「それなら休める場所を探す。もしそれまでに具合が悪くなったら、些細なことでもいい、言ってくれ」
「うん。ありがとう……」
ぼんやりしている霄琳を見る目はひどく心配しているようで、まるで重病人にでもなったような気分だ。けれどしっかりとした腕に抱えられるのは心地よく、気付けば寝入ってしまっていたらしい霄琳が次に目覚めた時も、まだ男の腕に抱えられていた。
「気分はどうだ」
霄琳を抱えた男がもたれているのは岩壁で、二人の前で赤々と燃える焚き火が濃い影を躍らせている天井も岩だ。どうやら洞窟に運ばれたらしく、外の音もほとんど聞こえなかった。
「さっきよりはすごくいい」
「なら水を飲め」
どれほど時間が経ったかはわからないが、眠ったせいか、だいぶすっきりとしている。また上空に連れて行かれたらどうなるかはわからないが、ひと眠りする前までにあった倦怠感のようなものはほとんどなくなっていた。
大丈夫そうだと体を起こした霄琳に、男は小さな壺を差し出してきた。さっきまで自分たちを追い回してきた男や見知らぬ人物から渡された水なら警戒したかもしれないが、少なくとも彼は自分を守って、ここまで運んでくれた相手だ。ありがたく受け取り、中に入っていた水でのどを潤したところで、霄琳はそういえばと気付いた。
(さっき名前を言ったときに驚いてたけど……もしかして、俺を知ってるのかな。でも俺、この人の名前思い出せない)
「あの、お兄さん」
三口ほど飲んだ小壺を手にしたまま話しかけてみると、男はなんだと霄琳を見下ろしてくる。
焚き火に照らされているせいか、少し赤みがかった黒に見える双眸にはまるで火が宿っているようにも見えたが、あの追いかけてきた男の視線とは違い、やはり嫌な感じはしなかった。
「俺、お兄さんの名前、まだ聞いてない。教えてほしいんだけど……」
「…………」
燃える火を映した目が、霄琳をじっと見ていた。その視線にどこか寂しげな色が滲んでいる気がしたが、彼のことは名前さえ知らないのだ。
でも、名前を聞いたら何かを思い出すかもしれない。そうしたら、その記憶の中に彼との縁故を見つけられるかもしれない。
けれど、告げられたのは霄琳の期待に反してまったく知らない名前だった。
「
「……離原」
自分の記憶にしみこませるように呟いてみるが、なにひとつ記憶は見当たらない。けれど、ほとんど真っ白な霄琳の記憶の中に離原という男が立ったのは、あやふやな自分の中に揺らがないものがひとつ出来たような安心感があった。
「離原、さん」
もう一度呟くと、離原は浅く頷いた。
「離原でいい。さんは要らない」
「じゃあ……お水ありがとう、離原」
水の残る壺を返しながら頭を下げると、それでいいと頷いた離原は少し笑ったようだった。
「また飲みたくなったら、好きに飲んでいい。なくなったら汲んでくる。……腹は減ってないか?」
「お腹は……少し」
目覚めてからどれくらい時間が経っているかはわからないが、今の今まで飲まず食わずだ。乾いていた喉が水で潤されると、薄い腹が空腹を訴えたような気がした。
「餅がちょうど焼けたところだ」
音が鳴ったりはしなかったが、薄い腹に手を当てた霄琳を抱えたまま長い腕を伸ばした離原は、焚き火に炙られていた餅を差し出してくれた。
綺麗に削られてまっすぐな木の枝に突き刺さった餅は焼きたてと言うのもあって、湯気を立てている。息を吹きかけて冷まして口に運ぶと、どうやら思っていたより腹が減っていたのか、手のひらほどの大きさの餅はあっという間に腹に収まった。
「ごちそうさまでした」
「餅しかなくて悪いな。せめて干し芋でもあればよかった」
「ううん、俺なんかなにも持ってないし、十分だよ。ありがとう」
着の身着のままの霄琳は、なにも持っていないのだ。離原がいなければ、たかだか餅ひとつさえも手に入れることは難しかった。
霄琳が頭を下げると、離原もさっさと食事を終え、餅を刺していた枝を折って焚き火に放った。
「明日は町に移動するから、もう少しまともなものを仕入れよう。宿があるところに泊まり続けられればいいが、野宿が無いとは言えない」
ぱちぱちと音を立てて焚き火が燃える。少しながら食事をしたせいでまたもや眠くなっていた霄琳はぼんやりと炎を眺めていたが、離原の言葉にはっとして視線をあげた。
「町に移動って……俺、さっきの町に戻りたいんだけど、同じところ?」
ここがどこだかはわからないが、霄琳は出来たらあの町に戻りたいと思っていた。
あの廃墟があった町の名前すらわからないが、あそこで目覚めたのだから霄琳に関係のある場所だったのかもしれないし、そうでなくとも自分の記憶の糸口になるものが見つかるかもしれない。
だいぶ空を飛んだので距離は離れてしまったが、戻れるなら戻りたい。けれど離原は頷いてはくれなかった。
「今あそこに戻るのは危険だ。あいつがお前を探しに来る」
「でも俺、自分がなんであそこにいたのかもわからないんだ。なにか手がかりみたいなものがあるかもしれなくて」
目覚めた時にはあそこにいて、あの廃墟の前に自分がどこにいたかもわからない。もし知っている土地なら夜闇の中だったとはいえ少しくらいは見覚えがあったはずだが、駆け抜けてきた路地も通りすがった家々も、なにひとつ霄琳の胸に感情を湧き上がらせることはなかった。
だが、あの廃墟には何かがあるかもしれない。
自分のことが名前以外わからない今、少しの手がかりも逃したくはなかった。
「ごめん、離原。お世話になったけど、俺一人でもいい。戻りたい」
「……」
離原はひどく悩んでいるようだった。眉間にしわを寄せ、顔までしかめているせいで鼻筋から頬にかけて伸びた傷跡まで歪んでいる。
出会ったのはつい数刻前で、互いに知っていることといえば名前くらいのはずだ。あの男は、離原とはなにかしらの因縁があるようだったし、霄琳には執着していた。けれど、それが離原に関係があることなのだろうか。
(いてくれたら心強いけど……離原には関係ないことなのに)
霄琳の記憶がないことと離原に関係があるとは思えない。もしかしたらそれさえも忘れてしまっているのかもしれなかったが、初めて会った時、離原は「名前は」と聞いてきた。それならば、やはり知り合いではないのかもしれないーー……
「……今すぐにということはできないが」
顔をしかめて考え込む離原につられて自らも悶々と考え込んでいた霄琳は、どこか苦しげにあがった声にはっと目を見開いた。
「後でもう一度、必ず再訪するのではだめか。あの村の名前は覚えているし、場所も地図に印をつければ、次に行く時も迷うことはないはずだ」
「でも、また戻るのは悪いよ。少し歩くかもしれないけど、俺一人でももど……」
「だめだ!」
思わずびくりと肩が大きく揺れるほどの大音声だった。二人がいる洞窟の奥はそれほど深くないらしく、反響がわんわんと響いた。
驚いたのは霄琳ももちろんだったが、離原自身も目を丸くして自分の口を抑え、それから俯いた。
「……すまない、大きな声をあげた」
またもや離原は顔をしかめて呻くように言うと、口元に当てた手のひらの下で、くそ、と小さく吐き捨てた。
「う、ううん……ご、ごめん、なんか……」
霄琳が謝る必要はないのかもしれないが、思わず謝罪が口をつく。けれど不思議と怖いというよりはどうしたんだろう、大丈夫だろうかという心配が勝った。
互いに黙りこくってしまうと、洞窟の中はまた深い静寂が満ちる。しかし、それも長くは続かなかった。
「……霄琳、俺はお前の自由を奪いたいわけじゃない。ただ、今あそこに戻ることは出来ない」
口から手を離した離原は、静かでありながらしっかりと明確に霄琳に告げた。それは、記憶も存在もどこかふわふわとしている霄琳とは違い、芯を捉えたようなまっすぐな声だった。
「今は……?」
大きな声ではないのに、さっきのような心配や不安より、どこか空恐ろしさを覚える。夜の冷気が座り込んだ地面から這い上がってきて体を徐々に冷やしていく感覚に似ている気がした。
一体どんな濁流の中に自分はいるのだろうと霄琳は考えた。
この世界のことなど、霄琳はわからない。告げられている言葉が正しいのか、それとも自分を欺こうとしているのか、その判断すらつかない。そんな中で、霄琳は呆然と離原の落ち着いた低い声を聞いていた。
「今戻れば、
そう言った離原の目は、まっすぐに霄琳を見据え、騙りや嘘が含まれているようには見えなかった。
「あいつはずっと、白霄琳を探していた。黒衣に名は告げたか?」
「う……ううん、離原が来たから、全部は言えなかった」
記憶のない霄琳でも、さすがに目が覚めてからのことは覚えている。
あの時、名前をすべて教えるより先に黒衣は壁を破って飛び出した。そのあとはすぐに離原が霄琳を奪取したので、結局名前をすべて伝えることは出来なかった。
けれど、黒衣の男は「お前は誰だ」と言った。この体が正しく霄琳のもので、名前と合致していたら、男はそんなことを聞いただろうか。名前だけを知っていた可能性もあるが、それでも謎は尽きない。
(これ、俺の体なのかな……)
自分でさえ、この体が自分のものだと思えない。
まるで信じられないが、誰かの体に入ってしまっているのかもしれないと考えると、どうしても感じる違和感も手伝ってむしろ納得がいった。そうすると今度は新たな疑問が霄琳の胸に湧きあがった。
「離原は、俺のことを知ってる? 俺を見たことがある?」
黒衣から逃げている最中、霄琳は離原に名前を教えた。月明かりに照らされるなかで、離原の鋭い双眸が僅かに見開いたのを確かに見た。そして、「お前が白霄琳なら」と離原は言ったばかりだ。霄琳自身が覚えていなくとも、離原が霄琳を知っているのは明白だった。
ぽつりと呟いた問いかけは、洞窟の壁に反響さえしないほど小さなものだった。それでも離原の耳には届いたようだった。
「……知っているし、見たこともある。俺は白霄琳を探していた」
「だから、あの人が俺を……黒衣? 黒衣が俺を捕まえた時も、すぐに来たの?」
黒衣に捕まっていたのは、今考えれば本当に短い時間だった。それほど早く、離原は現れたのだ。
「いや、それは逆だ。黒衣が出たという知らせを受けて探していたんだ。ようやく見つけたと思ったらあいつが小屋に入ったから後を追ったら、偶然お前がいた」
「偶然」
「でも、お前を探していたのも確かだ。だが、こうやって見つかった。だから、黒衣から奪ったんだ」
「……それは、殺すため?」
離原は霄琳を守るように洞窟に逃げ込み、高価そうな外套を貸し、霄琳が目覚めるまで火の番をしていてくれた。食事の世話にだってなっている。その間に手にかけようと思えば彼にはいくらでも機会があったはずだ。けれど今、霄琳は生きている。
違うと言ってくれることを期待していなかったと言えば嘘になる。そうでなければ、こんなことは言い出せない。
首が横に振られることを願う霄琳だったが、離原は答えないまま、片手で持った棒でごそごそと焚き火を弄って崩した。火は新しく燃えるものに移ることも出来ずに、やがて赤々とした枯木とすっかり黒ずんで燃え尽きたものの残骸になり果てた。
月明かりも差し込まない洞窟の中は暗い。離原の表情はわからなかったが、ぼんやりとした輪郭はわかる。手が伸びてきたのも見えてはいたが、恐怖や驚きはなく、むしろ離原の手の方が一瞬迷ったように浮いた。そして、霄琳の長い髪を一房だけとった。
「……俺は殺さない。お前を生かすために、ここにいる」
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