萌芽の章
1:邂逅
「――――ああっ!」
高いところから落下して、その衝撃で体がはね上げられたような心地だった。
胸はどくどくと強く脈打ち、目の前がちかちかと明滅する。強く握りしめた拳は胸のうえに置かれて震えていた。
雲のはるか上から投げ出されて落ちたのではという浮遊感と恐怖は強い衝撃を脳と体に与えたが、見上げた先にあるのは低く薄汚れた木造の天井で、その隙間からは細く月の光が見えていた。けれど、記憶に鮮烈に残るほどの強い光とは比べようもなく弱弱しい。
(夢……?)
胸の上に置いた手の下では、鼓動がどくどくと早鐘を打っている。冷や汗もかいているようで、首のあたりが不快だった。
あれは夢だ。高いところから落ちた様子はないし、目の奥まで貫くような強い光はどこにもない。
なんて夢見の悪さだと肘をついてのろのろと体を起こすと、肩から落ちてきた長い髪がさらさらとこぼれた。
「……えっ」
思わず声を上げたのは、自分の髪とはまったく違うものだったからだ。
もともと少しばかりうねる癖があった自分の髪は、みっともないからと束ねられる分は全て頭の上でまとめて団子にしていた。長さもそれほどなく、せいぜい肩甲骨にかかる程度だ。
それなのに、さらさらと流れてきた黒髪は俯いているせいもあるだろうが、腿につくほどだ。癖などまったくなく、艶もいい。手のひらですくってみるとやわらかく光を反射した。
かつらなど被った覚えはないし、軽く引いてみると自分の頭が一緒に動く。一本だけ強く引くと、確かな痛みがあった。
「えっ……?」
ひと眠りして起きただけで髪質が変わることなどあるのだろうか。
艶などなく、まとめるにも手間がかかる傷んだ癖っ毛よりは、まるで絹糸のように細いのにつややかで美しい髪の方がいいに決まっている。それでも喜びよりも戸惑いの方が強かったのは、髪をすくいあげた自分の手を見たせいもあった。
年中鍬をふるい、かごを編み、獣を獲るために弓を引いてきた自分の手とはまったく違った。切り傷の跡はいくつもあったし、手のひらには鍬の柄が擦れ続けたせいで出来たたこだってあったはずが、今目の前で広げた手のひらには、傷ひとつない。嘘だと思わず呟きながら手をひっくり返したところで、手の甲に見慣れないものがあることに気が付いた。
白い手の甲の中央には、薄緑の小さな楕円が描かれていた。上下が少し尖ったそれは、細長い葉のようにも種のようにも見えた。
(これって、
自分では付けているどころか、見たことさえほとんどないが、いわゆる貴人と呼ばれるような人々が額や眉間に模様を描くことがある。それだろうかと思って擦ってみたが、白い肌に不思議と馴染む緑の花鈿は消えそうになかった。
もしかしたら刺青なのかもしれないが、そんなものを入れる理由もお金もない。やはりこれは自分の手ではないのではと思ったが、白い手のひらは思うように動き、一切の不便がなかった。
「なんで……」
髪とは違い、自分で動かしているのだからこの手が自分のものであることは間違いない。けれど、記憶の中の自分の手は夏には鍬をふるって土にまみれ、冬はあかぎれを作りながらかごを編む、そんな手だった。
ところが目の前にあるのは、欠けどころかささくれもない丸い爪が美しい手だ。その白さは、初夏になると咲き誇る大ぶりの蓮の花弁を思い出させるほどだった。
(もしかして、これも夢?)
目覚めたと思ったら、実はまだ夢の中で、夢と現実がごちゃ混ぜになることは稀にあることだ。きっとそうだと白いもう片手で自分の手を叩いてみた。すると叩いた瞬間からじんじんと痛み、一向に夢から覚める気配はない。むしろその痛みによって、これが現実であると思い知らされた。
(なにこれ、夢じゃない? じゃあ……顔とかも変わってる?)
髪質も手も、もちろんそこから伸びる腕も自分のものとは思えない。ならば顔も変わっているのではと辺りを見渡したところで、ここが自分の家ではないと気付いた。
荒れ果てた屋内はそれほど広くはないが、ひどく乱雑だ。割れた陶器のかけらや何かが書き付けてあっただろう書物の残骸、割かれた布の端切れなどが散らばる小石と一緒くたになって床に放り出されていて、その隙間から覗く割れた床からは草が生えていた。引き出しが全て出てしまっている箪笥は扉が取れ、鳥が巣を作ったあとがあった。壁には蔦が這い、それは低い梁や、板が飛んでしまっているせいで隙間がある天井や屋根にまで伸びている。ここは明らかに廃屋だった。
「えっ……どこ?」
目が覚めたばかりだというのに、なぜという疑問ばかりが積み上がっていく。
こんなところで寝る趣味はないし、ちゃんと衣食住のための家はある。それに、最近はこんな廃屋や実家の小さな小屋ではなく――
「――……うん?」
混乱しながらも、芋づる式に記憶を辿ろうとしたところでふと気づく。
そもそも自分の家がどんな風だっただろうか。こんな廃屋ではなかったはずだが、具体的に思い出せない。屋根の瓦や壁の色だとか、庭の広さだとか、植わっていた木の種類だとか、なにも思い出せないのだ。
「あれ、あ……あれ……?」
家族がいた気がする。でも、何人いたのかもわからない。
思い出そうとすればするほど、記憶の中で結びかけた像はあやふやになって霧散する。それを追いかけるように無意識に手をあげた時だった。
どこかから着地したようなタッという軽い足音の後、箪笥の後ろからギイと音がした。それはまぎれもなく開扉の音で、窓ひとつないこの廃屋の唯一の出入り口がそこにあると知る。
音のした方を呆然と見ていると、人影が現れた。
室内の明かりはずれたり外れたりしている屋根の隙間から差し込む月光だけで、部屋は薄暗い。そのせいで姿がよく見えないのかと思ったが、細い月の光の下に立ってなお、その人影は真っ黒だった。
けれどそれが全身が黒尽くめなせいだと気付いた瞬間、顔にまで巻きつけられた黒い布の隙間から唯一出ている目が、驚愕に見開かれた。
「……目を覚ました? そんなはずは……」
押し殺したような掠れた声は低く、身長も高い。おそらく成人した男性だということしかわからない黒い人影は、ゆらりと揺らめくように一歩踏み出してきた。
床板が今にも割れそうに断末魔のような軋みを上げ、靴の底がじゃりっと石のつぶてを踏む。
「だ、誰ですか」
思わず後ずさりしようとしたが、すぐに背中がどんと壁に当たる。壁に這う蔦から生えた葉が頬を撫でた。
「お前は、誰だ」
男の目が、じっとこちらを見ていた。見定めるように、決して一時も目を離すまいとするような強い視線だ。
問いかけは短く、ただ見られているだけなのにどこか嫌な雰囲気が漂う。逃げ出したかったが、扉は男と箪笥の向こうにあるようだし、そもそも靴さえ履いておらず、足の裏に当たる小さな石が痛かった。
自分は何も覚えていない。この姿が自分の姿ではないはずなのはなんとなくわかるが、自分が住んでいたはずの家や家族、故郷がどんな土地だったかもわからない。
それなのに、名前はわかるのかと思いながら震える喉で浅く息を吸った。
「俺は、――俺は、白しょ……」
不明瞭な記憶の中で、その単語だけがするりと出てきた。けれど、全てを言い終わるより早く、バンと大きな音を立てて扉が開かれた。
「くそっ!」
ほとんど同時に黒尽くめの男が手を伸ばして掴みかかってくる。逃げることはおろか避けることも出来ないまま抱き上げられ、次の瞬間にはもう壊れそうだった壁を蹴り破った男に抱えられて、外に出ていた。
男は突風のように路地を駆け、道を横切っていく。誰かと鉢合わせでもしたらと恐ろしくなるほどの早さだ。
「やめ、離しっ……」
逃げ出したくてどうにか暴れてはみるものの、走る男に抱えられたまま上下に揺すられては落とされないようにするのが精いっぱいだ。それでも声を張り上げる。
その時、ふと気付いた。誰でもいいから助けてくれと無造作に伸ばした白い手の甲にある花鈿が、薄闇の中で不思議と輝いていた。光をはじく粉でもついているようなそれに目を奪われたとたん、びゅっと強い風が吹いた。
「うあっ」
ぐんと強い力が体全体にかかった。押しつぶされるような感覚というよりは、さっき夢から覚める直前に味わった落下感の逆だ。
黒尽くめの男の腕から引き上げられたのだとわかった時には、今度は違う男の腕に抱かれていた。
「誰、なに、なんで、俺っ――……」
あの小屋で目が覚めてから、四半刻(約三十分)も経っていないはずだ。ただでさえ自分がわからなくて混乱しているのに、短い間に二度も浚われる羽目に陥っている。
思わず上ずった声を上げたところで、先程とは違ってほとんど揺れず、けれど吹きつけてくる風が強いことに気付いた。
それもそのはず、今は地上ではなく、空中に立った男に抱えられていた。
「たっ……高い……」
月明かりのなかでもその高さがわかり、思わず悲鳴を上げて自分を抱えている相手にしがみつく。自分のものとは思えないほど長く細い髪が風に流されて額まで寒かったが、それどころではない。
すると、目の前の男は顔のほとんどを隠していた覆いを取った。あの黒尽くめの男と同じように黒一色の覆いをしていたが、意外にも簡単にはずれるもののようで、その下からは若く整った顔が現れた。
黒々とした眉の下には眦も鋭い双眸があり、さっきまで覆いの真ん中を押しあげていた鼻梁は通っていたが、その鼻梁には右から左へ伸びた一条の傷痕があった。そのうえ口元が真一文字に引き結ばれているのでどこか気難し気に見えたが、唇が開くとその印象はすぐに薄らいだ。
「……これは」
険しくはないものの、さっきの男のように強い視線が向けられている。それでもなぜだか嫌な感じはしない。ただ感情は伝わってくる。男の双眸には明らかな驚愕が浮かんでいた。
「はっ、離さないで、落ちる!」
両腕が尻の下を支えていても恐ろしいのに、男の手が離れていると気付いてしまえば、恐怖が倍増する。慌てて声を上げると手は一応尻の下に戻ったが、男の視線が外れることはなかった。
「お前、名は」
色んな事を忘れているうえ、この体も自分ものではないような気がするなどということは、もう頭から吹き飛んでいた。ただただ、びょうびょうと吹きつける夜の風と遥か下に見える地面に恐怖を煽られる。
震える喉で息を吸って叫んだ。
「しょ、
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