第180話

 それからしばらくして、夜マクス様から「明日、あなたのご実家に行くぞ」と突然言われた私は面食らって口に含んでいたお茶を飲み込み損ねてむせる。


「こほっ、くっ……は、はい? うちにですか?」

「どうした。どうしてそんなに驚くんだ」


 あなたはご家族と不仲ではないだろう? とは言われるが、久し振りに会うというのも少々緊張するし、なによりも……


「私の実家に行かなければいけない理由はなんですか?」


 鏡越しに話はしているけれど、会うとなるとまた心構えが必要だ。なにせ私は、マクス様と身も心も結ばれてしまったのだ。

 最初に実家をふたりで訪問した時は私の荷物を取りに行ったのと挨拶程度で、その時のマクス様は――いえ、私も2年を過ぎたら契約結婚を終わらせるつもりで、よもやこのような感情を抱くだなんて思っていなかった。マクス様は私には手を出さないと父に言っているはずだし、それを今更、こんなことになりましたと直接言いに行くだなんて、恥ずかしすぎるではないか。

 

「うん、当初の予定では、もう少しすれば離縁の予定だった。ご両親もそのつもりでおられるのではないかと思ってな? あなたが帰ってくるものだと思っていたら、そうではないと知ってショックを受けるかもしれないし」


 そこでしばし考えるように言葉を途切れさせた彼は、結局適当な言葉が見つからなかったのか「あなたの純潔を奪ってしまった報告をしなければいけない」と想像した通りのことを言い出した。


「それ、は、報告しなければいけない話でしょうか?」

「あなたが帰らない話はしなければいけないだろう?」

「いえ、そちらではなくて」

「あなたを抱いてしまったという話か?」


 そのものずばりで言われて、一瞬言葉に詰まる。


「――、はい」

「…………いや、お嬢さんに手は出さないと言ってしまったんだよ。綺麗な身体で戻すと言ったくせに私は……完全に約束を違えてしまったんだ、謝罪の必要があるだろう」


 そもそも、お父様はマクス様に対して悪感情は持っていないようだった。むしろ好意的。だから、単純に「今やちゃんと愛し合っているので、このまま婚姻関係を継続させてください」で良いのではないだろうか。そう提案すれば彼は渋い顔になる。


「う……ん、うーん。しかしなぁ」


 マクス様はマクス様で思うところがあるのかもしれないけれど、私は私でそれを目の前で言わないでもらいたいのだ。生々しすぎる。当人たちが並んで目の前にいたら、ついなにかしらを想像してしまったりしないだろうか。

 ――嫌すぎるわ。

 お父様だって、お兄様だって、そんなの聞きたくはないはずだ。


「でしたら。せめて、そこは父とふたりだけで話していただけませんか? 婚姻関係を継続するつもりだということ、だから実家に戻るつもりがない話は、自分でしますので」

「うん? ああ、わかった」


 難を示して顔をしかめる私に少し首を捻ったマクス様だったけれど、一応理解はしてくれたようで、翌日午前中の実家訪問に向けてその夜は早めに休むことにした。


 ――翌日。


「ベアトリス! おかえりなさい」


 家のドアを開けた瞬間、飛び出してきたお母様にぎゅうっとされた私は、少し苦しくなりながらも笑って抱き返す。


「お母様、お元気そうでなによりです」


細腕で力強く抱き締めてくるお母様の後ろに立っていたお父様とお兄様は、マクス様に丁寧に頭を下げた。応接間に通され、マクス様と並んで座り、正面には家族が並ぶ。


「ようこそいらっしゃいました、シルヴェニア卿。今日はどのようなご用件でしょうか?」


 訪問理由は告げていなかったようで、お父様が笑顔で尋ねてくる。今日のマクス様は、金の繊細な刺繍がほどこされている真っ白なローブに金色の植物を模した華奢な頭飾りと揃いの耳飾りという、エルフ族の正装だという格好をしていた。改まった服装であるというのは家族にも伝わっているようで、そして人間に擬態せずエルフの姿のまま訪問したマクス様に、何故そちらの姿なのかとわずかに怪訝そうな空気が漂っている。


「突然の申し入れだったのに、訪問を快諾してくださってありがとうございました」

「いやいや、シルヴェニア卿、そのように頭を下げないでください! ここはベアトリスの実家なのですぞ。いつ来てくださっても構わないのですよ」

「ありがとうございます」


 マクス様は、姿勢を正すと真剣な視線をお父様に向ける。一度深く息を吸って、彼は静かな声を出した。


「ビーと……彼女と婚姻の契約を結んでから、もうすぐ2年になる。当初の予定では、2年が過ぎた段階で契約を解消することになっていただのが――その、あー……」


 マクス様の手が、膝の上で落ち着かなさそうに服を掴んでいる。その手にそっと手を重ねれば、彼の指先が冷たくなっていた。緊張しているのだ、と思うと笑ってしまいそうになる。

 そして、こんな時になって思い出す。あの日、聖女が現れたと言われた瞬間のエミリオ様の手もこんな風に冷たくなっていたことを。

 あの時は結婚式を中断されて、その場で婚約解消という完全に予想外の事態が起こったことに動揺したのだろうと思っていたのだけど――もしかしたら、私と別れなければいけないという事実に直面して大きなショックを受けていたのかもしれない。

 ――あの時エミリオ様の気持ちを察せていたら、私たちの関係はなにか変わっていたのかしら。

 そんなものは考えたところで時は巻き戻らないし、どこかにエミリオ様と結ばれるベアトリスがいる世界があるのかもしれないと他人事のようにしか思えない私は、かなり冷たい人間なのかもしれない。今の、この世界の私が、自分の愛するひととして選んだのは、隣にいるマクス様なのだから。他の男性と結ばれる未来など想像はできなかった。


「マクス様」

「……ああ」


 視線が合えば、彼は少しだけ力が抜けたように微笑む。その顔に、私も同じように微笑み返した。


「申し訳ない」


 マクス様は言うなり頭を下げる。驚いた顔になる両親とお兄様に、彼はその姿勢のまま続けた。


「私は、身の程知らずにもビーを愛してしまった。今の私には彼女を手離すことなど考えられないし、おとなしく身を引いて、私と別れた後に他の人間の男と幸せになってくれなどと心から願うことも出来ない。種族が違うことでビーに苦労をかけるだろうことも、悩ませることになるだろうことも――いや、すでに悩ませていることだって十分に理解している。すべては、私の我儘だということもわかっている。だが、私の隣で笑ってくれるのは、彼女でなければ駄目なんだ」


 どうしても、私はビーが良い。

 少し弱々しくも聞こえる声で呟いたマクス様が、私の手を握る。


「全力で守り、幸せにすると誓う。だから――どうか、彼女と添い遂げることを許していただけないだろうか」


 顔を上げたマクス様は、お父様にそう言って。

 その言葉を受けたお父様とお母様は優しく微笑んでいて、そして。


「……今更別れると言われる方が驚きますよ、シルヴェニア卿」

「――え?」


 最初に口を開いたのは、お兄様だった。


「貴殿がビーに惚れているのは、言われなくてもわかってましたよ。あんな『愛しくて堪らない』というような視線で映された絵姿を送られて、ビーを心から愛しているのをまざまざと見せつけられて、気が付かないわけがないではないですか。それでいてあっさり『約束の2年が過ぎたから帰す』などと言い出したら、ははは、可愛い妹が望むのならば、力尽くでも、責任をもって添い遂げるように説得するつもりでしたよ」


 そう笑うお兄様の腰には剣が携えられていて、その言葉が冗談ではないのだと理解させられた。

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