第172話

 おはようございます、と翌朝マクス様に挨拶をすれば、彼はまだ寝ぼけているのか私を抱き寄せただけでそれ以上は動かなかった。そろそろクララたちがやってきてしまうのだけど、と思っていると、窓が開く音がした。

 視線をやればクイーンが入ってくるところで、マクス様に抱きかかえられている私を見て少し不愉快そうに鼻を鳴らす。


「おはようございます、クイーン」


 マクス様を起こさないように私に鼻先をこすり付けてきたクイーンは、それだけでふいっとまた外に出ていってしまった。なんだったのかしら、と彼女を見送れば、開けっ放しだった窓から心地よい風が吹き込んできた。


「……ん――ん?」


 小さく身動ぎしたマクス様は「寒い」と呟いて、暖をとるようにまた私の身体を抱きしめる。

 マクス様、と腕を軽く叩く。まだ起きるつもりのなさそうな彼ではあるけれど、昨晩あまり食べられていないこともあって私は空腹を覚えていた。このままではおなかが鳴ってしまう。おなかがきゅるきゅると言い出す前になんとかしなくては、と私は身体を捻って彼の腕から抜け出そうとする。


「ビー、どこに行くんだ」

「もう朝ですよ」

「まだもう少し良いだろう」


 んー、とまだ開ききっていない目の彼は、身体を起こすと私の頬に軽く口付けて、そこでまたぱたりと力を抜く。おなかの上で脱力されると、決してがっちりした体格の人ではなくても動けなくなってしまう。じたばた暴れるのもみっともない。しかしこのままというわけにもいかない。


「――っ、クイーン、クイーンまだ近くにいますか?」


 おへそのあたりに頭を当てられていると、小さなおなかの音も聞かれてしまいそうで恥ずかしくてならない。


「申し訳ないのですけど、助けていただけけませんか?」


 情けない声を出したのが聞こえたのか、またひょいっと顔を出したクイーンはこちらを見ると静かに近付いてくる。首をマクス様に近付けるの見て「あっなるべく穏便な方法で……あの、私を引っ張ってくれるだけで良いのですが」と慌てて付け加えると、クイーンは私の目を見て少し頷いたように見えた。

 ――わかってくれたのかしら。

 どんな方法で助けてくれるのかとドキドキしながら見守っていると、クイーンは私の上で脱力しているマクス様の脇に鼻先をぐりぐりと押し込んだ。くすぐったかったのか少し身動ぎして身体が浮いた場所にグッと顔を差し込んだクイーンは、そのまま首を持ち上げる。ごろん、と転がされたマクス様は一瞬何が起きたのかわからなかったようで目覚めの瞬間にしては大きく目を見開いて、何度か瞬きを繰り返した。


「な……?」

「マクス様、おはようございます」

「え? ああ、ビー。おは……」


 そう言ったところで、私の後ろにいるクイーンに気付いた彼は反射的に、というような勢いで頭を抱えた。髪をむしゃむしゃと噛まれるのではないかと思ったのだろう。私の耳元で「フンッ」と少し小馬鹿にした様子で鼻を鳴らしたクイーンは、また静かに部屋を出ていこうとした。

 なにやら最近彼女の態度がおかしいような気がしなくもない。以前よりも私に対して距離がある。遠慮しているというか、なにかを躊躇っているというか。


「クイーン、ありがとうございました」


 助かったという私の言葉に振り返った彼女は、少し考えるように首を傾げてから数歩戻ってきて頬を擦りつけてきた。首筋を撫でてあげると嬉しそうに目を細めて、もう一度頬を擦りつけると窓から出ていって軽やかに空に舞い上がった。

 そんな私たちをベッドの上に胡坐をかいて眺めていたマクス様は、足の上に肘をついてじとりとした視線を向けてくる。


「……もしかして、ビーが助けを求めたのか」

「もう起きなければいけない時間ですのに、マクス様、まったく起きる気配がなかったんですもの。しかも、私の上で寝ていらしたではないですか。動かせなくて困っていたのを助けてくれただけです」


 今の出来事は、全部私の意思だと伝える。そう言ってしまえば文句も言えなくなったのか、寝乱れた夜着と髪を軽く直しながらマクス様は立ち上がった。


「それにしても、なにも夫婦の寝室に入室を許さなくても良いんじゃないか?」

「鍵をかけてあっても、クイーンには関係ないようで開けて入ってきてしまうのです。マクス様もご存じでしょう?」

「あなたが許可しなければ入ってこないよ」

「あら、そうなんですか?」

「最初は好奇心やら心配して入ってきていたのだろうけれど、今は、ここの主であるビーが駄目だと言ったらクイーンは命令に従うはずだ」


 ――クイーンに命令なんて、そんな身の程知らずなことはできないわ。

 お願いならなんとかできるかもしれないけれど。


「あまり勝手に入ってきてもらっては困るんだよ。それこそ、朝から愛を確かめ合っているかもしれないじゃないか。あなただってあられもない姿をクイーンに見られたくはないだろう?」

「っ!! あっ、朝からなにおっしゃってるんですかっ!」

「はははッ、冗談だ」


 軽い笑い声をあげたマクス様は「ではまた、朝食の時間に」と言いながら自分の部屋に向かっていった。タイミングを計ったかのようにクララとアミカが入ってくる。


「今日は顔色がよろしいようですね、奥様」


 朝から元気な笑顔を見せたクララが水を持って来てくれる。クイーンは窓を開けられはしても閉めはしないので、アミカはカーテンを開けて部屋中に日の光を入れて窓を閉めた。


「今日の起床時間はいつもより遅めになる予定だったと思ったのですが、結局いつも通りに起きられたのですね」

「……実は、おなかが空いてしまって」


 腹部を押さえたタイミングで、きゅるる、と小さく腹の虫が鳴った。


「マクス様に聞かれなくて良かったわ」


 それでも、他の人にだって聞かれたいものでもない。クララたちに聞かれてしまったことが恥ずかしくて耳が熱くなる。


「旦那様でしたら、奥様はおなかの音も愛らしいって喜ばれそうですけど」


 確かに、とクララの言葉に真顔で頷くアミカに、私は微妙な表情を返す。


「旦那様は、奥様が可愛くて可愛くてならないようですからね」

「こんなものまで可愛いと思ってくださらなくて良いのよ?」

「衣擦れの音でさえ愛しい、とおっしゃると思います」

「アミカまで、もう」


 そんな話をしながら着替えて、髪を軽く結ってもらう。今日はどこに出掛けるつもりもないから、化粧も最低限だ。

 ――そうだわ。なにかお菓子を作ってみるのも良いかもしれないわね。

 ミレーナから、簡単なお菓子の作り方もいくつか教わっている。マクス様は今日もお仕事なのだし、差し入れをしに行くわけにはいかないけれど、コレウスにお使いを頼むくらいはできるかもしれない。

 今日やることも決まった私は、足取りも軽く食事に向かう。


「おや、ビー。やたらとご機嫌だが、いいことでもあったのか?」

「いえ。久し振りにゆっくりできるので、今日はやりたかったことをいくつかやってみようと思いまして」


 なに、とマクス様は真剣な顔になる。


「ビーがなにかに挑戦するというのなら、それは私も立ち会わなければいけないな」

「奥様のお世話は、クララとアミカにお任せください!」


 マクス様の声に被せる勢いでクララが手を上げる。またじとりとした視線になった彼は、メイドたちにその目を向ける。


「お前たち、そういう意味じゃないのをわかっていて言っているよな?」

「旦那様、あまりゆっくりなさっている時間はありませんよ」

「コレウス、昨日私いつもとは違う仕事をさせられて少し疲れているんだ。だから今日は休――」

「めるわけがないでしょう。さあ、さっさと魔導師の塔へお出掛けください」

「お前たち……ッ、そんなに私をビーを引き離したいのか?!」


 朝食後、今日は――どちらかと言えば『今日も』――ビーを置いて仕事になど行きたくないと言い続けているマクス様を玄関で見送った私は、久々にキーブスのところに顔を出した。

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