第155話
私は全然会いたくなかった。
少なくとも、朝から見たい顔ではない。
淑女の仮面は見事に外され、正直な感情が顔に出てしまっていたらしい。
「おやおや、ベアトリス。そんな顔しなくてもいいじゃないか」
不満そうな顔になるヴォラプティオに貼りつけた笑顔を返して頭を下げる。
「おはようございます、エミリオ様、ヴォラプティオ様。そしてごきげんよう。私そろそろ教室へ向かいますので」
笑顔のまま教室に向かおうとすれば
「ビー、ちょっと待って」
エミリオ様から腕を掴まれた。咄嗟に振り払いたくなる衝動に耐え、距離は近付けないまま腕を持ち上げ、拒否を示すようにグッと筋肉に力をこめる。
「申し訳ありません、エミリオ様。そのような行動は、周りの方々だけではなく、伝え聞いた夫からも誤解されるかもしれませんので」
静かな落ち着いた口調を保ち、触らないでください、と暗に含んで言えば彼はすぐに手を離してくれる。その程度の冷静さは取り戻してくれたようだ。そして「ちょっと待って」と言いながらポケットから繊細な刺繍の入った小さな袋を取り出した。
「ビー、これ、ずっと預かりっぱなしだったから、返さなくてはいけないと思ってたんだ」
出したてのひらに乗せられると、シャラ、と小さな音がした。中を見てみると、あの時エミリオ様から外されたブレスレットが入っていた。
「ありがとうございます」
預かっていた、と彼は言うが、これはどちらかといえば返してくれなかったものだ。
これはマクス様から頂いたもの。すぐにつけたい気はするのだけど、しかしエミリオ様の手元にあったもので、しかも今はヴォラプティオと一緒にいるとなるとなにをされているかわかったものではない。仕方なくそのまま鞄にしまおうとすれば「一応、確認して」とエミリオ様は言う。
「ちゃんときみのものだよね? 取り換えたりしてないよね?」
交換するにも、これはマクス様が作ってくださったものだから同じものは世の中に二つとないはず。袋を開けて見た範囲では、同じもののように思える。念のため、と重ねて言われて仕方なく袋から取り出す。
「多分、大丈夫だと思いますが、私の目では」
「私もなにもしていないよ」
ヴォラプティオは笑顔で言ってくれるが、それを全部信用してくれと言われても正直なところ難しい。
少し悩んでから、私はそれに顔を寄せた。
「マクス様」
そっと名前を呼べば、思った通りすぐに彼は現れた。
「ビー、ブレスレットが返ってきたんだな」
「はい。間違いなく本物ですね」
もしかしたら、こうすればマクス様が来てくれるかもしれない、と思ったのだが、想像通りすぎてこれはこれで過保護なのでは? という気になる。目の前のエミリオ様は、若干引き攣った顔になる。
「申し訳ない、シルヴェニア卿。預かりっぱなしになっていたものを、ビー……ご夫人にお返しした」
「ほう?」
夫人、という呼び方にマクス様は目を細めた。満足しているようには見えないが、少なくとも愛称で呼ばれるよりもマシということだろう。
「やあ、おはよう。マクシミリアン・シルヴェニア」
「お前、うちから派遣されている設定にしているのなら、私に対しては敬意を持った態度で接するべきではないか?」
見事な笑顔で手を振るヴォラプティオに、マクス様は冷たい視線を送った。マクス様からの言葉は彼にとって意外なものだったのか、はて、と小首を傾げた。
「私が? 敬意を払う? 誰にだい?」
「お前が、魔導師の塔のマスターである私に、だ」
一瞬理解できない、という顔をしたヴォラプティオだったが、すぐに「なるほど」と顎に手をやった。
「塔の所属ということは、そういうことになるんだね」
「ほら、それらしい態度を取らないか」
「じゃあ。マスター、おはようございます」
「……気持ち悪いな。それはそれで」
じゃあどういう態度を取れっていうんだい、というヴォラプティオの主張は間違っていない。しかしマクス様は彼の相手をするのも面倒になったのか、その発言を無視して私の手の中にあるブレスレットを指先で摘まんだ。
それから、ふぅっと息を吹きかけ、私の手首にそれをつけてくれた。
「浄化したから、もう身に着けて大丈夫だ。困ったことがあったらこれで呼んでおくれ」
「はい」
マクス様は、私の手を取って持ち上げるとブレスレット、それから手の甲に口付ける。
「そろそろ授業の時間だろう? こうやって会えたのに名残惜しいが、私も行かなくてはな」
「会えたもなにも、まだビーが家を出てからたいして経ってないだろうに。それに、自分はビーと一緒に住んでるくせに。僕に当てつけてるようにしか思えないんだけど」
ねえ? とエミリオ様はヴォラプティオに同意を求めている。「そうだよねえ。エミリオは一緒に居られないのにねぇ。かわいそうに」とエミリオ様を宥めるように背中を撫でたヴォラプティオは、心を痛めていると言いたげな顔になる。
――この茶番はなんなの。
これから毎日のようにこういうのを見せられるのかしら。
大迷惑だわ、と私はマクス様に向き直る。
「それでは、また夕刻に」
「ああ、気を付けて――」
私は爪先立ちになって、彼の頬にキスをした。
「……あっ!?」
「おっと、落ち着いて。今はまだ、彼らは夫婦なんだよ」
こちらに手を伸ばそうとしたエミリオ様をヴォラプティオが抱きとめる。
私の行動に驚き、目を丸くして無言で頬を押さえているマクス様に「いってまいります」と言って、足早にその場を去ろうとする。
「待て待て。そんなことをされては、私も黙ってはいられない」
背後から抱きすくめられ、少しだけ強引に後ろを向かされる。目の前に、あの綺麗な空色の瞳。それは、薄くピンクがかって見えた。
「今日一日のあなたの無事を祈って」
囁いた彼に素早く唇を塞がれる。
愛しているよ、と唇が軽く触れ合ったまま囁かれた私は、なにもされていないとは言い訳できないくらいに真っ赤になってしまった。
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