第153話

 翌日、登校した私を待っていたのは――


「おはようございます、お姉様!」


 満面の笑みのミレーナ嬢だった。

 彼女がなにを話そうとしているのかはわからないが、万が一を考えると学院長のお部屋で話すわけにはいかない。申し訳ないと思いつつもまたアレク先生の部屋を訪ねる。


「朝から申し訳ありません。ミレーナ様とお話をするのに、少々場所をお借りできますか?」

「……おはようございます」


 げっそりした顔の彼は、もはや抗議する気力もなさそうな様子で椅子をすすめてくれた。今日はお茶を淹れる元気はないらしい。なにやらぶつぶつ言いながら、自分の机に座るとまた作業を再開する。昨日だけでは終わらなかった仕事があるようで、目の下のクマが酷い。顔色も真っ白だった。


「アレク先生」

「はい」


 彼は書類から目を上げずに返事をする。そんな彼の前に、小さな瓶を置いた。


「こちらをどうぞ。あまりこういうのに頼るのは良くないとは思うのですけれど、メニミさんから必ず飲ませるようにと預かってきました」


 アレク先生は、薄紫のそれを無表情に眺める。すぐに手を出さないあたり、怪しまれているのかもしれない。

 ――一応、メニミさんはポーションなどに関しても有能な方のはずなのだけど。

 しかし、あの性格を知っているとなると、なにを渡してきたのかと疑心暗鬼にもなりかねない。


「危険なものではないと思うのです。マクス様も飲ませるなとは言っていませんでしたし、それに、人間の社会では手に入りにくい、特にエルフ族に効果的なポーションというお話でした」


 昨日、アレク先生は徹夜仕事をしているだろうから、これを飲ませるようにとメニミさんは言っていた。朝には「良く食べて、良く寝なきゃ」と言っていたのにも関わらずだ。

 普段、マクス様はポーションの乱用を良く思っていない。その彼も止めなかったとなると、つまり今のアレク先生は簡単に回復できないほどの疲労を抱えている、もしくは、今彼に倒れられては困る、ということなのだ。

 普段の発言を考えれば、彼らがポーションを渡してくること自体が怪しい。なにをやらせようとしているのかと不安にもなるだろう。でも、このような考え方もどうかとは思うけれど、あのマクス様が私に危ないものを運ばせはしない。本当に安心安全なお薬だからこそ、私に持たせたのではないだろうか。

 言い訳がましくなる私に、アレク先生は顔を上げて苦笑いを浮かべる。


「いえ、妙な薬ではないか、などと変な心配をしたわけではありませんよ。マスターはベアトリス様に変なものを運ばせはしないでしょうから」


 彼も、私と同じように考えたようだ。

 マクス様は私に危険なことはさせない。

 自分で思っているだけでも気恥ずかしいが、他人からも肯定されてしまうとマクス様からとんでもなく甘やかされているようで余計に恥ずかしい。むずむずした気持ちになる私の目の前で、アレク先生は瓶をつまむと目の高さまで持ち上げた。軽く振って、目を細める。


「普段、あまり親切にされない相手にこのような気遣いをされるというのは、少し不気味だと思いまして」

「不気味……って」


 わからなくもないですねぇ、と呟いたミレーナ嬢は、きっと彼女の知っている作品内のマクス様を思い出しているのだろう。


「すみません。ありがとうございます。有難くいただきますね」


 アレク先生は瓶の蓋を開けると一気に中の液体を飲み干す。ふぅ、と息を吐いて、目を閉じる。

 その顔色が、徐々に良くなってくる。真っ白だった顔に血色が戻る。

 目を開けた彼は、なにかを確かめるように何度か手を握って開いてを繰り返し「想像以上の最上級じゃないですか……」と苦い顔をした。


「まだまだ働かせるつもりということですね。わかってますよ」


 ふふふ、と低く笑ったアレク先生の様子がおかしい。


「あの、もしかして、夫がかなりの無茶を言っているのでしょうか」


 これは、かなりお怒りのように見える。彼はちらっと私を見る。


「違うとは言いませんが、それはベアトリス様とは関係のない話ですので」

「本当に関係ないですか?」

「なくはないですが、しかしこれを押し付けてきているのはマスターです。ベアトリス様が責任を感じる必要はないですね」


 また視線を書類に落として、アレク先生はなにかを書いていく。おしゃべりをしている暇はないようだ。そこに書かれているのは、多分エルフ語。私には、まだ読めない。


「お姉様、お話しても大丈夫ですか?」


 後ろから声をかけてきたミレーナ嬢に、反射的に返す。 


「私はミレーナ様のお姉様ではありません」

「ごめんなさい、この呼び方に慣れていて、つい口から出てしまうんです」


 慣れている、というのは、前世での話なのだろう。『私』と彼女の知っている『ベアトリス』が必ずしも同一ではないと理解はしてくれているとは思うけれど、でも同じ顔、同じ名前の人物となると混同してしまう部分があってもおかしくはない。

 そこで、ふと昨日の話を思い出す。ミレーナ嬢は、彼女や知っている作品内の私たちに関しては、名前を呼び捨てで呼んでいた。しかし、今の言い方を聞くと、個人的には別の呼び方をしていたようにも聞こえる。

 私は、彼女を部屋の端まで連れていくと耳元に顔を寄せ、小声で尋ねる。


「つかぬことをお伺いしますが」

「はい、なんですか?」

「ミレーナ様、マクス様のことはなんと呼んでいらしたのですか?」

「なんて?」

「はい、前世で」


 あー、と微妙な笑顔になったミレーナ嬢は、少し困ったように頬を掻く。


「怒らないでくださいます?」

「はい。今の話ではないので」

「王様、か、あとはマクス……ですかね。あの方、私の知ってるゲームの中だと本当に高飛車で高圧的、威圧的なキャラだったんで、ファンからは王様呼びされていること多かったんですよ」


 尊大な態度というのは今でも見え隠れしているので、驚くことはない。

 私以外への対応を見ていればわかる。エミリオ様への態度など、まさにミレーナ嬢の語る通りに思える。本来の性格はミレーナ嬢の言っているような方なのだ。と言っても、嫌なひとであればコレウスやクララたちがあのような接し方はしないだろうから、身内相手には気安い性格ではあるのだろう。

 彼は私にだけ驚くほどに甘く、優しく、それが最近では他の人の前でも繰り広げられているから柔らかく接しやすそうな雰囲気になっているのであれば、それはきっと彼にとっても不利益ではないのではないだろうか。

 ――でも、接しやすい性格だと思われたら、マクス様に想いを寄せる方も増えてしまうかしら。

 それは嫌だわ、などとすぐにそっち方面に連想してしまうだなんて、私も大概どうかしている。完全に恋する人間の愚かな部分が出てしまっている。


「他の方はどのように呼んでらしたんですか?」

「基本は呼び捨てでした。あ、でもレオンハルト様はレオ様、と」


 ――あら。

 私は数回瞬きして驚きを表す。そう発言したミレーナ嬢の耳が赤い。


「もしかして……ミレーナ様」

「いっ、言わないでくださいね?! ご本人には、推しだとか知られなくないので!」

「……推し……?」

「あっ! 一番はお姉様ですけど!!」


 ――恋、という意味で好きなわけではないの?

 その推しという概念がよくわからないので、彼女がどのような感情でレオンハルト様を見ているのかは理解しきれなかったのだけど、でも。

 ――レオンハルト様が好みのタイプなのだったら、エミリオ様は違うわね。

 彼女がエミリオ様にまったく心惹かれている様子のない理由が見えた気がして、私は妙に納得してしまったのだった。

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