第143話

 小さく呻いているマクス様をそのままに振り返る。目を丸くしたソフィーは


「ベアトリス、おでこが赤いわ……」


 ぽつりと呟いた。

 こんな誤魔化しようの場所でどさくさに紛れて口付けなどをせびるからあのようなことになるのだ。完全にマクス様の自業自得。可哀想などと思う必要は一切ない。

 真顔の私を見たクララとアミカは目を見合わせ、ミレーナ嬢はいつも通りの満面の笑み、コレウスは、私と同じようなすんとした顔をしていた。

 少しだけズキズキしている額を撫でてから、ミレーナ嬢に気になっていたことを聞いてみる。


「ひとつお伺いしても良いでしょうか? ソフィーはその物語には出てきていなかったのですか?」

「ソフィー様ですか?」


 ミレーナ嬢は隣のソフィーを見る。そういえば、というような顔で自分を見返してきたソフィーに困ったような中途半端な笑みを浮かべた彼女は、指揮をするように指を動かしながら言った。


「えぇと、残念ながらお名前やお顔は出てきていなかったのですけど、ベアトリスには聖なる乙女として活動している親友がいる、という設定はありましたね。今になって思えば、それってソフィー様のことですよね」

「では、ソフィーはミレーナ様がご存じだった物語の中にはいなかったのですね」

「決められた物語の分量の中で描ける人物の数には、限界がありますもの。どうしても、ある程度限定された人数になってしまいますよね」

「確かに、全員書いていたらいつまでも話が進みませんわね」


 それはそうだ。私の読んでいる物語の主人公たちの周囲にも、登場人物として名前がある人たち以外にも、省略されてしまったたくさんの人がいるはずなのだ。

 ベアトリスの話になったからだろうか。彼女の口は止まらない。


「ベアトリスは、その親友から聖なる乙女や聖女のお勤めについていつも聞いていたようです。いきなり聖女として覚醒したせいでなにも知らないミレーナよりも、その辺りの事情に詳しかったものですから、時々聖女としての心構えなどについてミレーナにお説教のようなことをすることもあったんです。ベアトリスは悪役令嬢なので、言い方がキツいことは多々ありましたよ? でも、全部言いがかりなどではなかったですし、エミリオに対しても元婚約者として節度のある距離感で接しようとしていました。もう、その姿のいじらしいことと言ったら……! 人によってはしつこいとか諦め悪いとか、ストーカーみたいな言い方する人もいましたけど、あれはもう愛ですよね。遠くから見守って、彼の役に立てることがあればしたいという、ベアトリスの愛ですよ」


 ――だからその話は、ミレーナ嬢の知っている物語のなかのベアトリスの話であって、私の話ではないのですよ!

 どうしてそこで嫉妬するのか。同じ名前、同じ顔をしていても、私ではないのに。

 ――恋するひとは総じて馬鹿になるものだと思ってはいても、これは少し心配性が過ぎるのでは?

 うしろからまたぎゅうっと抱き着いてくるマクス様の態度に、口角が下がりそうになる。なんとか表情に出さず、そっと彼の手に自分の手を重ねるだけに留める。


「それに、ベアトリスは卑怯なキャラクターではなかったので、なにかやるなら自分でする子なんですよ。周囲の取り巻――お友達なご令嬢方が『ベアトリス様のお気持ちを考えたことはあって?』とか言ってくるのも良しとしなかったので、ベアトリスが余計なことをしないで、と言ってからはあれこれ言われることもなくて……正面から正々堂々と物申してくるだけだったので、まあ……悪役としては若干物足りない感じはあったかもしれませんね?」


 喋り続けて喉が渇いたのか、お茶を飲み干したミレーナ嬢は「でも」と続けた。


「まあ、悪役っぽくないのもわかるんですよね。だって、ベアトリスって元々主人公キャラだったらしいんですよ。これ、ファンブック情報なんですけど、元々はベアトリスを主人公に、聖女が現れて想い人であるエミリオと引き離されてからのお話になる予定だったらしいんで……」

「ん? それでは、今のこの世界の話のようではないか」

「はい。シルヴェニア卿がさっさと婚約破棄されたお姉様を妻にして、挙句溺愛している、というのは、多分マクシミリアンルートの話なんでしょうけど」

「……それって、少し間違えたら私以外の男とビーが番っていたかもしれないと言っているのか?」

「可能性の話ですよ。この世界は、マクシミリアンルートなんですから、別の男性がちょっかい出してくることは――あれ? にしてはエミリオ様が諦めてない……んー?」


 その辺りは、ミレーナ嬢も知らないらしい。


「昨日の夜、ヴェヌスタから言われたんですけど」


 そんな、お母さんの話によると、というような調子で話し出されても困惑する名前が出てくる。

 昨晩、彼女の夢にヴェヌスタが現れ、感謝を伝えてくれたのだという。


「とりあえず、お姉様の安全は確保されるルートに入ったそうです。ヴェヌスタから頼まれた、お姉様を助けるというお役目はちゃんと果たせたみたいですね!」


 ――ということは、ヴォラプティオはもうちょっかいを出してこないということ? エミリオ様も、諦めてくださったということ?

 私の安全というのが、なにを指すのかが明確ではなかった。


「ここは、ファンブックにもあったように没になった世界らしいんですよね。だから、完全には物語が出来上がっていないのかもしれないですね。だからヴェヌスタからの指示も明確じゃなかったのかも。そうそう、まさかヴォラプティオがこのタイミングで直々に出てくるとも思っていなかったって言ってましたよ。あれは続編の攻略キャラだからここで出てくるはずじゃないのに、って言ってましたねー」

「待て。待て待て。なんだ、その話は。それではまるで、ヴェヌスタがこの世界の創造主のようではないか」


 女神様なのだから、私たちの知らないことを知っていてもおかしくはない。でも、続編とはどういうこと?

 私たちの人生はこれからも地続きで繋がっていくものであって、どこかで一度エンディングなんて迎えないはずだ。マクス様の疑問に対して、ミレーナ嬢はしれっとした顔で答えた。


「えー、本当に創造主なんじゃないですか? だって、わたしのやってたゲームの製作会社の名前がヴェヌスタだったんですもの。女神の意思をわたしが元いた世界の誰かが受信して作ったのか、あっちが元で女神様の人格ができたのかはわかりませんけど。あはは! なんか、設定知ってても、聞いてても、わたしもわからないことばっかりですね!」

「………………」


 室内は完全な沈黙に包まれる。しばらくしてから手を上げたクララは


「あのー、すみません。話についていかれなくなってるのって、私だけですか?」


 もう頭限界です、と両手を高くあげた。

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