第136話

 マクス様がどさりとソファーに腰を降ろす。


「ああーっ、今回は本当に疲れたぞ。やっと帰ってこられた。自分の住処に帰れないというのは、外的な要因のせいで家族と過ごせないというのは、なかなかに堪えるな。コレウス、なにか飲むものを持って来てくれるか」

「かしこまりました」

「えーっ! 本当にもう全部終わっちゃったんですか? 私たち、たくさん訓練したのに! あの特訓はなんの意味もなかったってことですかぁ?!」


 目の前でクララが怒っている。そんなクララに、メニミさんが明るく笑う。


「いやー、魔族相手に戦闘にならなくて良かったじゃないかー。マスターとヴォラプティオが正面からぶつかったら、多分下の国の半分程度は持っていかれていただろうからさー?」

「奥様のお役に立ちたいって張り切ってたのに……」

「私、いつもクララにもアミカにも感謝しているのよ。普段から十分に仕事をしてくれているわ」

「奥様……っ」


 改めて感謝を告げれば、クララは少し瞳を潤ませた。のだが、すぐにまた「でもお役に立ちたかったー!」と叫ぶ。しかし、そんな彼女の表情はとても明るい。なにせ、私に掛けられていたあのわけのわからない術は完璧に解けたのだから。心配事が減った、とその表情が物語っていた。


「そういえば、いつの間にか完全に無効化されてるね。まあ、元々ちゃんと掛かっていたわけではなかったしね。というかね、ベアトリス。キミが、自分の意思であの術を壊したんだよ。おめでとう」


 帰りしな、ヴォラプティオからもそう言われた。

 それから耳元に「そんなにエミリオは嫌だった?」とまた小声で問われたのだけど、答えるよりも早くマクス様が私を抱え込んだから返事は出来なかった。

 エミリオ様から私に繋がっている鎖については「ワタシはもうなにもしていないけれど、外れていないから……これはもうエミリオ本人の意思だろうねぇ」と無責任なことを言われた。可視化された鎖は、確かにまだ私に繋がっていて、マクス様はその場でなにかやろうとしたようだったけれど、上手く断ち切れなかったようで露骨な舌打ちが聞こえた。


「すまない、早いうちにコレもどうにかする」

「僕がビーを好きでいる限りは繋がってるんじゃないかな」

「…………」


 小さく呟かれた言葉は低く、意味は分からなくても明らかに良い言葉ではなさそうだった。多分あれはエルフ語なのだろう。これ以上、エミリオ様に対する発言を窘められたくなかったのかもしれない。

 鎖についてと、エミリオ様とヴォラプティオの関係についての問題は残されているとはいえ――マクス様は、アクルエストリアに帰れるようになった。そして、私の体調も久しぶりにすこぶる良い。頭もすっきりしている。


「クララはああ言っていますけれど、実力行使ということにならなくて良かったです」


 アミカは少し気の抜けた顔をしている。彼女は、私と共に精霊を召喚する手助けをしなくてはいけない立場にあったし、しかも召喚魔法に関してはあまり人に知られてはいけない能力な上に、暴走したら私が死んでしまう、ということで、クララよりもずっと気を張っていたのだろう。珍しくふにゃふにゃした様子だ。

 アッシュは、眠いのか部屋の隅で獣の姿になって丸くなっている。あの姿については、また後日問い詰めるつもりだったのを思い出す。


「旦那様はこちらを、奥様には紅茶をお持ちしました」

「ああ、わかってるなお前」


 ワインの入ったグラスを差し出されたマクス様は、半分ほどを一気に飲み干すと大きく息を吐く。お酒を飲んでいるのはマクス様だけで、他の人……私とメニミさんには少し甘い香りのお茶が出されていた。

 コレウスの淹れてくれたお茶で喉を潤している私が座っているのは――誰もが予想したであろう通りにマクス様の膝の上だった。

 みんなの前では恥ずかしいと言ってみたところで、久しぶりに心置きなく接することが出来るという状況下で、彼が私の要望を受け入れてくれるとも思えない。諦めておとなしく彼の膝に座っていれば


「ビーの香りがする。柔らかい。あぁ……もう今日は一時も離すものか」


 などと私の髪に顔を埋めて呟いている。

 ――これは私以外に見せてはいけない姿なのでは?

 と、思ったところで、みんな生温い目で見守ってくれているので、私は愛玩動物になったつもりで彼の膝に座り続けていた。


「それにしても、結局どういうことだったんですか?」


 クララの質問に、ワインを飲み干したマクス様はゆるりとグラスを揺らしながら「よくわからん」と言い切った。


「わからないんですか?」

「多分、いろいろなことを知っているのは、私ではなくミレーナ嬢だな。ということで、明日ここに呼び出してある。ソフィエル嬢と共に連れてきてくれ」

「あれ? ってことはお二人はここでお食事されるんでしょうか」

「……ああ、そうだな。昼前にという話にしたから、時間的にはそうなるか。うん、食べるんじゃないか?」


 適当なマクス様の答えを聞いたクララは、大変! と言うなり厨房へ走っていく。そういうことは早く言ってください、とアミカからも責められているマクス様だったけれど「メニミとアッシュが遠慮すれば人間の娘二人くらいが食べる量など確保できるだろうが」と、作る側の準備や気遣いなどは全く意に介さない返事だ。

 ――あの二人に、最近のここのお食事はあまり向いていない気がするのだけど。

 すっかり庶民風の献立も増え、手掴みで食べるものや串に刺さっていてかぶりつくようなものが出ることもある。自分で好きな具を挟んで食べて良い、という時まであるのだから、あんな食卓をマクス様がみたら驚かれるかもしれない。メニミさんとアッシュの食欲を満たすためには、手の込んだ盛り付けでは間に合わなくてあのようなメニューが増えている可能性はある。


「ビー」

「はい?」


 後ろからこそりと囁かれる。

 耳の後ろに唇を押し付けるようにして「私が今一番食べてしまいたいのがなんだか、わかるかい?」と言われ、一気に全身茹で上がる。

 その言葉の意味がわからないわけではない。

 理解してしまったからこそ、この場で言われても、と困惑と共に緊張で硬直する。


「駄目かい?」

「ま……ッ、まくすさま、あの、それは」


 声が上擦って上手に返事が出来ない。あわあわしていると「マスター」とメニミさんの声がした。


「気持ちはわかるけどさー? そういううぶな子をこういう場で誘うのはどうかと思うよー? もうちょっとデリカシーっていうかさ? ムードとかあるだろー?」


 メニミさんの笑い混じりの言葉に、アミカとコレウスが鹿爪らしい顔で頷き、いつの間にか起きていたらしいアッシュは大口を開けて欠伸をした。

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